教育徒然

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大阪市長発言に見る体罰防止のむずかしさ

 思うところあってしばらくブログ更新を停止していたのだが、先ごろの「体罰」についての展開にどうしても書きたくなってしまった。

 正直「体罰」の是非等について書くつもりはない。そんなものは自分の中で結論が出ているし、数多くのコメンテーターの語る叙情たっぷりな内容に影響されるものでもない。では何についてかと言われれば、事件発覚後の大阪市長の対処法にみた体罰防止のむずかしさについてである。

 そもそも「体罰」や「愛のむち」などと言われる行為は、「圧倒的な力の行使で有無を言わさぬ解決を図る」という点で全く同じである。それが行使し、行使された人間の関係性によって善悪を判断され、言葉が変えられているだけでしかない。少なくとも私の中ではそういったものである。そして、明確に「体罰」は法律上行ってはならないとされているので、体罰は行わない。もし自分が「体罰」を行ったとされるのであれば、その行為そのものについては自らの主張と周囲の判断を照らし合わせ、第3者の裁定に委ねるだけである。

 そんな中で「体罰」を行ったことにより、その学校に対して、大阪市長は「スポーツ系部活全顧問の異動」や「生徒募集の停止」といった措置を打ち出した。さて、これは一体どんな意味合いを持っているのだろうか。

 報道されている市長の発言に微妙に機微があるので、一概には言えないが少なくとも「全教員の入れ替え」については改まり、「スポーツ系部活の顧問の総入れ替え」に修正が見られたようである。この措置については当該校の全教員に対する「体罰」に対する意識改革及び懲罰的な意味合いがあるのだろうと推察する。

 これを歓迎する声が見られるのは、当該校の教員に対して懲罰が妥当であるという視点に立ったものと考えられる。一方で疑問視する声については当該校の生徒の事情や事件の概要究明につながらないのではないかという視点に立ったものであるように思われる。

 私の考えとしては懲罰的意味合いとしても体罰への意識改革としても全く意味をなさない判断に思えてならない。少なくとも「体罰」に間接的にであれ全教員が関わっていたという事実を前提に置いているのであれば、単なる異動に過ぎないことを懲罰的に行ったとするのであれば、それは対外的パフォーマンスに過ぎず、根本を改革しようという意識からも遠ざかってしまう。組織を解体すれば、もしくは悪いと思われるところを摘出し、入れ替えを行えば何とか急場は凌げるという程度の認識に留まっているのではないかと訝しむばかりである。

 では、「生徒募集の停止」についてはどうだろうか。これは、学校では地域や保護者に対しての「体罰」に対する考え方を変えるよう促す措置であるとの発言があったようである。すなわち、体罰を容認していたのは、教員だけではなく、OBや保護者、地域であり、募集停止という措置を取ることによって、その再考を促すという事らしい。

 しかし、そうなるともっとも身を糺して問われるべきは市長自身になることに気付いているのだろうか。そこまで言及するつもりもないが、市長自身、自殺した生徒の遺族に対して「体罰に対して考え直さなければならなかった」という旨の発言がある。そんな発言をしている人物が、自らの「体罰」に対する「甘い考え」に懲罰を課さなくては、保護者・地域に納得してもらえないのではなかろうか。

 そして、予算停止も辞さないという強硬姿勢は「圧倒的な力の行使で有無を言わさぬ解決を図る」という構図と一致して見えてならない。「自らに決定権があるのだから、大ナタを振るって改革をする」のは痛快に見えるかもしれないが、もし同じようなことを教員が生徒に行えば批判は免れないだろう。

 同一視することがおかしいと思われるかもしれないが、あまりにも頑なな主張を見ると、どうにもやりきれないと考えてしまう。加えて、同じようなものであるのならば、今後も「体罰」を行う可能性が0にはならないのではなかろうか。

 さらにいえば、この体罰に限ったことではないが、こういった教育関係の内容が大きく取り上げられても、普段の「授業」について言及されないのがあまりにも虚しい。学校生活の大半を占めるのが授業であるにも関わらず、その点に触れられないのは何とも言えない。

 抒情にそった主張は受け入れ難いというのはわかっている。しかし、どうしてもこれだけは思ってしまう。ゆっくりと時間をかけて築いた関係性を権限があるからと言ってぶち壊しにしてしまうのは残念でならない。効率や成果・結果を重視するのは結構だが、何のために「教育」があるのかを多角的に考えてもらいたい。

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終わらせ方・始め方

 まあ、幸いなことにある一つのことについて、ようやく区切りをつけることが出来た。そのことによって祝福を受け、自分としてはようやく終わらせることが出来たのだなと思う。しかし、成功という形で終わったにも関わらず、気分はどこかスッキリしないままである。長年の懸案事項だったゆえに喪失感に襲われているのかと思うが、実際にはそうではないことも何となくわかっている。

 成功とはあるいみ幸福な終わり方ではある。しかし、そこから新たに始めるという意味においてはなかなかの難題であることも確かだ。失敗とは継続という始まりを与えられたようなものでもあり、始め方としてみれば、なかなかに爽快なものでもある。

 さらにいえば、終わりや始まりを他人に急かされると急激にやる気がなくなるものでもある。やはり少し落ち着く時間は欲しい。時間は有限ではあるが、良い終わらせ方・良い始め方であるほうが望ましい。

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踊る阿呆に見る阿呆


 「踊る阿呆に見る阿呆同じアホなら踊らにゃ損々」というわけで阿波踊りの出だしなわけだが、結局のところこれが今のネット上の現状なのだろうなという気がする。誰もかれもがネットをやり始めたからにはお祭り気分で騒いでいた方が面白い。だからあちらこちらで何かがあった時に、野次馬のように顔をだし、大騒ぎする。その場に合わないのなら祭りの雰囲気を壊すからいないほうがいい。楽しくやりたい奴だけくればいい。そんな感じだろうか。

 少しばかりうんざりするのはなぜだろうか。

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ネットの言動は軽視されているか

 ネット上には個人の言動・意見が溢れ、様々な考え方・思想が洪水のように流れ出ている。その中でどうも奇妙な感覚に捉われることが増えてきた。その感覚とは、「ネットの意見が世間に反映されていない」と叫ぶ人達を見た時に湧き起こるものである。どうもその言動・行動に対して妙な違和感を自分の中に認めることが出来るのだが、いったいそれは何なのだろうか。

 最近の話題だが、違法ダウンロード刑事罰化について活発に議論されている。その内容についてはさておき、一部の言動に「ネットの声を無視している」との声があることは確かだ。この「ネットの声」の「ネット」が誰のことかを最も大きな括りで考えれば「インターネットユーザー」の事を示していると言っていいだろう。では「ネットの声」の「声」は何になるのかを考えると、「刑事罰化導入に対する反対」ということになろう。

 実際にそういった意見はよく見かけるので、何となくそうだと納得してしまうが、それでいいのだろうか。確かに大多数の意見として「刑事罰化反対」もあるが、少数とはいえ「刑事罰化賛成」の意見があることも事実だ。見識の浅さや権益を守るためだとの批判もあるだろうが、そういった声もあること自体は否定できない。となれば、「ネットの声」とは多数派を代表した意見である。

 しかし、ネットにおける多数派の意見というのは非常に曖昧なものである。なぜならば多数派を構成している「数」が曖昧であり、さらに意見そのものの束ね方が雑であるからだ。

 いくらネットで多くの人が同じことを述べていると言っても、どういった範囲の中でどの程度の人数がいるのかを明示していなければ多数派を強調しても意味はない。統計学に基づいた信頼できるデータを出すぐらいであれば信頼もできるが、出典不明な独自データで多数派というだけでは内容の信頼性は薄い。

 またいくら多数派を形成していたとしても、その意見そのもののまとめ方が大枠でしかまとまっておらず、細かな意見の調整がなされていないと、たちまち多数派の中に少数派の個人が乱立しているだけの烏合の衆となっていることが露呈する。

 こういった点がクリアされていれば、ネットの声も世間に届きやすい。刑事罰化についてはインターネットユーザー協会(MIAU)や日弁連という「団体」が核となって意見を集約し、分かりやすい意見の提示を行っているので、抗弁が通っている。

 そういった意味で考えれば、「ネットの言動は無視されている」というより、ネットという薄弱な糸で繋がれた状態を強固な鎖で括られたと勘違いした個人の集まりであり、意見をまとめる手間を軽視した烏合の衆なので、全うな団体からすれば相手にされないというのが事実なのだろう。

 加えてしっかりと意思を表明する個人は、分かりやすい言動であるほど、人をひきこみやすい。意思の善悪はともかくとして、その意見・人物を核とした集団を構成すれば、烏合の衆の中身である散在した個人に対する多数派をあっという間に築くことが出来る。

 少し機転の利く人物ならば、ネットではこんな声が上がっていると言って、一部のネット上の意見を多数派と見せかけて利用することぐらいは思いつくだろう。このような事例を出すと、すぐに「マスコミ」や「政府」、「他国」という対象を持ち出してしまいがちだが、そんな人物ほど気を付けるべきである。その叩く体制を限定していることこそ、ネットの内部誘導に乗せられている可能性があると気が付けばよいのだが、どっぷりと嵌り過ぎると抜け出すのが難しいのが現状である。

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