教育徒然

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社会人のための情報教育①

 大人に向かって勉強してくださいというのはいささか気が引けるが、大人だからこそやらなければならないというのが現代の情報教育である。子どもはすでに教育の機会が設けられているのに対して、大人は自分で勉強しなければならない。しかし何のために勉強するのかと問われれば、今一つ確信に至らないと思えるのもまた情報教育である。各自それぞれの目的はあろうが、ここでは大目的として以下のものを掲げたい。

 一 未来の可能性をつぶさないためのコンピュータスキルと情報モラルの両立

 現在は情報機器がそこ等中にあふれている。携帯電話の加入数に関しても、つい先日、日本の人口を超えていることが明らかになった。これにより増えてきたのがインターネット等を媒介して起こるトラブルであり、犯罪そのものに至るケースも年々増えている。そして、これらの問題を事前に食い止めるために必要なことが、目的に掲げたことである。ただし、児童生徒への教育よりもさらに現実的対応とするのが「社会人のための情報教育」である。具体的には以下の点である。

 a 知識はスキル スキルは知識

 b モラルはスキル(知識)で補うべし

 c 意固地になるなかれ


 すでに情報機器を日常的に使い、一定のスキルを手に入れている大人にとってみれば、今更「情報モラルを覚えましょう」と言っても「すでに知っているので実際に効果が出るとは考えにくい」と捉える人は決して少なくない。ならば実際に教育を行うというのであれば、清濁吞み込んで、何を教えるべきか、何を学ぶべきかを模索した方が成果は出しやすい。

 aの「知識はスキル スキルは知識」にはコンピュータ及びネットへの現実的対処に必要である。結局ほとんどの人はハードウェアを工学的に扱うわけではないので、スキルそのものを磨くというよりは知識を増やすことに費やすことになる。

 例えば「DVD-ROMをコピーする」というスキルを習得する場合に、必要な知識にはDVDとCD、Blu-rayの違い、また同じDVDでもDVD-RやDVD-RWの違いについて知る必要がある。それがどういった違いかは分からなくとも、どういう結果を及ぼすかなどは考慮しなければならない。またコピーという単語が使われずにリッピングという専門用語も頻繁に使われ、その際に仮想ディスクといった知識も増やしていく場合もある。

 これはネットの利用についても同じである。何かやりたいことがあり、それを調べようとすれば専門用語に行き当たり、その言葉を知り、知識を得て、スキルを習得することになる。SNSを利用する際に、どれを使えばよいのか選択することになり、何が違うのかを調べる中で知識を得る。知識はスキルをふるう際の根拠ともなるので、知識を得ることはスキル習得にも結果的につながる。

 もちろん経験することでより確実なスキルにつながるので、知識先行では心もとない。とはいえ、自分でやることが難しいと思って実践できないこともあるかと思うので、最低限調べるという行動を省かずに、知識を蓄え徐々にスキルへと昇華させ、応用スキルを知識へと変えることが望ましい。

 これが基本知識・初歩スキルでことを済ませてしまうようになるとトラブルが起きる。児童生徒への教育の場合、この基本知識・初歩スキルと共に、情報モラルを同時並行で教えることが要となるため重要視されないポイントでもある。

 現在の社会人は、コンピュータにせよ、ネットにせよ、基本知識と初歩スキルをある程度供えた状態にある。通常はこの状態に際し、一般社会における倫理や道徳といった規範が備わっているため、多くの場合トラブルを抱えることはない。しかし、基礎だけの知識とスキルはトラブルに巻き込まれやすいこともまた事実である。進化するネットでは特に知らなければ騙されるという事になりかねない。

 また若い世代であれば、この基本知識と初歩スキルに自己学習や学校での学習によって、知識・スキル共に上乗せされたものを身に付けている。もちろん一般常識は身に付けているが、どちらかと言えばスキル先行であるため、知識とした体系づけられるべき基盤は未熟である可能性が高い。そして、この未熟さを補うためにbを実践することになる。

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若者の伝えるもの

 社会人向けの情報教育をあれやこれやとまとめていたら夜中になっていたのだが、その時ふと思いついてテレビをつけた。すると、そこに見覚えのある人物が何人か出演しており、「若者は幸福か、不幸か」とのテーマで議論を交わしていた。まあ、それを見て非常に気になることが、自分としても意見を述べたいと思うと同時に、その現状に対して教育はどういうことをすべきかなどを考えてみた。これでまた「社会人向け情報教育」のまとめが遅れるのは言うまでもない。

 結局「朝まで生テレビ」の醍醐味である田原さんの言い分についてはどうでもいいかなとしか思えない。私の捉え方としては「政治においても経済においても危機的状況に置かれている現在の日本で、なぜ若者は幸せだと思えるのか。甘えた日本の若者がもっと頑張らなければ、将来はもっとひどくなることは目に見えている。中途半端な幸せかみしめてないで、自立してもっと幸せになる方法を考えやがれ」というものである。正直途中1時間ほどの感想なので最後がどうなったかは知らない。

 ただあの構図で思ったことは、いわゆる主流のバラエティ番組に似ているなという感想である。大物芸人が司会をして、ひな壇芸人と呼ばれる若手が一部の話を盛り上げ、司会者がオチをとる。そんな見方であの番組を見ると、1時間程度で見るのがつらくなってしまった。個別の話は色々あるのだろうが、結果として田原さんの意見の周囲をぐるぐる回る論争なので、私なりの田原さんの意見が見えると、そこから先は付属物なのでどうでもよくなってしまった。

 とはいえ、放送中の意見と出来事で自分なりに見えてきたものがあった。それは次の点である。

 ① 幸せだと言っている若者に不満な年長者
 ② 年長者をあてにしない若者
 ③ 将来を考えさせる教育

 まず①についてである。この意見はどの程度年長者の方々に流布しているのかはわからない。しかし、少なくとも将来を憂えている方々からは、現代の若者に不満を抱えているのは間違いないだろう。いわゆる若者批判ととれる「最近の若者は~」の話が流布していること自体が、若者に対する不満が表出していると私は考えている。ちなみに「『最近の若者は~』論は古代からある」という話は少し調べただけでも元が曖昧なので気を付けた方がいいだろう。

 さて、そんな若者に不満を抱える年長者だが、あの放送の中ではまさに田原さんがその立場になるのだろう。ではそんな年長者にしてみれば「幸せな若者」とはどのような若者をさすのか。それは、女性出演者に対しての田原さんの発言に垣間見えたような気がした。石巻でボランティア活動をしている高橋麻帆さんが「ボランティア活動をしている若者はとても生き生きとして幸せを感じている」といった内容を言ったことに対して、「ボランティアでどうやって食っていくんだ。金がなきゃボランティアできないだろう」と言ったのである。

 つまり自分で金を稼ぎ、生活を安定させたうえでボランティアやらなきゃしょうがない。その上で幸せを感じるならば、それは幸せなんだろうと言いたかったのだと思う。そして自立する上で必要になるのが金であり、学生やらただ安定収入を求めるだけの若者は幸せを語る意味はないと切り捨てているのではないだろうか。そうなると「幸せを語るな」と初めから言っているのと同じである。そもそも「若者は幸福か不幸か」などというテーマを掲げている時点で、「若者」が自分たちの立場を述べるのではなく、年長者からの視点で圧力をかけているのだから、ああいった見え方になるのは必然である。

 では次に②についてである。これは本題に絡みそうで絡まないやりとりのなかで気付かされた。宋文洲さんが「洗脳されている」という趣旨の内容を何度か話した時に隣の荻上チキさんが、半ばあきれ気味に「なんでも洗脳っていう。面白いよね」と発言しているのだ。また高橋さんが自身のボランティア活動の説明の時に福島の瓦礫処理について問われたとき、「どうしましょうね」とこちらも半ばため息気味にもらしている。何が共通しているのか自分にもよくわからないのだが、どうもこの「どうにもしようがないのではないかという状況に客観的立場で呆れている」という仕草があるように感じるのだ。

 これが現在の若者と言われる人に共通しているように思える。たびたび若者は現在の危機的状況は分かっていないと言われている。しかし、実際には半数近くが将来に不安を感じるように危機的状況であるという事は知っているのだ。ところが、それは他者からの情報を取り入れただけなので客観的視点に終始し、現在の自分の状況と当てはめても実感しづらいことまで含めて情報としてとらえている。

 そうなると結局、実感でさえも認識として「情報」に変化させられ、全てのことに対して冷めていってしまうのではないかと考える。そして冷めた見方としてでてくるのが、金銭に対しての感覚である。何度か趣旨と違うにしても経済面での自立が出てきていたわけだが、途中のアンケートや千葉麗子さんの発言に「年収で幸せを考えてほしくない」という反応や「結局金か」という言葉が出てきている。

 この「経済」による幸せの話こそ若者が冷めた見方をする一因であると思うのだ。別の番組で貧困層の女性について特集していたのだが、貧しくとも自分たちが幸せであるといった女性たちに対して、司会の宮根さんが「今が幸せでいいから、一回バブルの時を味あわせてあげたい」と言ったのである。正直これに対して唖然とした。なぜわざわざバブルの事を味あわせる必要があるのか。現在の20~30代前半は散々バブルの頃は良かったとの話を聞かされている。なぜこんな不況なのかという嘆きをきかされている。そんなことは実感していないのだから、聞かされたところで冷めるだけである。

 しかもバブル時代に一般庶民が出来た大半のことは、現代の若者は不可能ではない。それどころかより安価でできることもあるとしれば、経済的な幸せを享受していた年代層の人間が何に憧れるのかを理解できず、経済的成長も所詮そんな程度の事であるとしか思わない。今更昔に戻れと言われたところで戻りたくないのだ。現実を知れと言いたいのは年長者ではなく、若者が年長者に対して向けて言いたいことである。だからこそ若者は年長者で支えられている、この社会をあてにしていない。自分が年長者たちのシステムに組み込まれていることを承知の上で、適当にやっている。

 なぜ年長者たちのシステムを壊さないかと言えば、あるものは利用させてもらおうという強かさもあることを知った方がよい。井戸実さんの「俺のとこは景気がいいもの」という発言はとっくに年長者たちのシステムをあてにしていないことにつながっていると思う。

 また「若者が幸福を感じる瞬間」についてアンケートをとり、その上位が「音楽を聞くこと」「家でテレビやアニメを見ること」とアナウンサーが述べたときに、田原さんは「そんなものは幸せではない」と一蹴し、他の出演者からは苦笑が漏れていた。田原さんの一喝は①について述べたとおりの事からきており、初めから今の若者の意見を採用するつもりがない自己の意見から述べられているのだが、他の出演者の苦笑は少しばかり看過しにくい。

 おそらくあの場の出演者のほとんどが「そんなことで幸せを感じるのか」との僅かながらの蔑視を感じ、それが苦笑になったのではないかと思う。東浩紀さんは田原さんとの話の中で、「『幸せだと感じる若者』は幸せなんだからそれでいいし、そいつらバカなんだからしょうがない」とのことを述べられていたように思う。それこそ実際に、そういった若者と一緒にされたくないという思っており、他の出演者もそう思っているのだろう。

 だがそういった若者とともに過ごすということを考えなければならないのもまた事実である。それぞれの商売の客として、または自分の読者、さらには協力者として、あの場にいる人たちはその若者を直接的にまたは間接的に関わっていかなくてはならないのだ。ただ利用するだけ利用して捨てるのか、それともパートナーとして過ごすのかはわからないが、いずれにせよ蔑視しているのであれば、いずれ自分もまた年長者となった時に切り捨てられるものとなりかねない。

 先ほどあげたアンケートを読み上げたときの出演者の反応で、「アニメ」という言葉にも苦笑を深くしたこともあるのかもしれない。いわゆるオタクかと。しかし経済的面や海外への展開として見れば、日本のサブカルチャーは最もアピールに成功としている分野なのでむしろそれを利用していくことを考えると、苦笑を深くするよりはそれはいいじゃないかと好意的に受け取るべきだと思う。まあ、反応の中には「ここにもそんなことがでてきたか」程度の思いなのかもしれないが、別分野の成長として考えることが今後につながると思われる。


 ここで③につなげて、教育に携わるものはこういった社会に対して、今の子どもたちに何を伝えればよいのかを考える。もっともやってはいけないことは将来を悲観させる指導をすることではないだろうか。今の社会はダメであるとの論調を繰り返し聞かせるのではなく、自分たちが何をどのようにするかで将来が変わること、自信を持って進めばいいという事を後押しすることが現代の教育に求められていると考える。

 docomoが考える2020年の世界という動画がある。発表されたのが2010年前後らしいのだが、内容そのものはあと10年前後でそこまで行くのは難しいのではなかろうかと一般的には思われるかもしれない。だが、非常に夢のある話でそんな世界が実現されるのがとても楽しみだと個人的には感じた。一方同じようなマイクロソフトの動画があるのだが、こちらもまた約10年後の世界を描いていたが、確かに10年後までに実現可能だろうというような、いわば現実的な内容だったので、あまり面白くないなと思った。

 ところがニコニコ動画でその動画が話題に上った時に、docomoの動画で流れたコメントの大半が「こんなこと無理に決まっている」「こんなこと夢見るのバカだろ」というような否定的な内容が多かったのだ。一方マイクロソフトの動画は「まあ、これはあり得るよな」「これぐらいが妥当だろ、docomoは夢見すぎ」といった内容が流れたのである。一部調査では、ニコニコ動画のコメントの大半が中高生であると発表している。実現できるかはともかく、面白いアイディアとして見る分には圧倒的にdocomoの方が楽しそうなのだが、子どもたちにとっては現実的な方がよいらしい。

 こういった状況は子どもたちの現実に対する悲壮として表れているのではないだろうか。まだ日本の社会は明るい現状が見えづらい。しかし子どもたちに、わざわざ社会の悲観論を押し付ける必要性はどこにもない。自ら学びとるのであれば、それは打破する力を生むことが出来るのに、悲観の教えをすることはただ打ちのめすだけの効果しかない。だからこそ将来を見据えた教育を行うために、自らの可能性を信じさせる教育を推進していく必要があるのだ。

 子どもたちから自分も含めた年代のいわゆる若者層に思うことがある。どんなに今の社会がダメだと言われようとも関係ない。自らの道を確実に進めよう。自分たちが幸福か不幸かなど適当に周りに考えさせればいい。今を築けるのは今の自分たちでしかない。その進みが遅くとも、いくら文句を言われようと憧れられるようなものでなくとも、今を踏みしめて進んでいこう。

 今の生きざまを示せ。そして、それを伝えろ。悪い例と良い例のどちらかになれば上等だ。

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教育への嘆き

 「ゆとり教育の成果はこんなところにあらわれてきた」との声が聞こえる。「学力は低下し、卒業し仕事をするようになっても身が入らず、プライベート優先で社会に属すという常識がない。これは教育のせいではないか」などと言われているようにさえ感じる。人は誰しも自分が受けてきた教育の成果である己と現在の教育の成果である若年者を比べようとしている。そして、主立って主張している人の意見は、昔の教育方法がよかったとし、今はダメだと嘆いている。ゆとり教育などはまさにその典型であろう。

 しかし、人は本当に教育の方法及びその成果を嘆いているのだろうか。ある記事で使えない社員がいるという上司の嘆きが掲載されていた。曰く「部下の仕事が遅いうえ、指示したことができない。例えできたとしても言われたことしかできず、自分から仕事を探そうとしない。自分が若いときは、自分から仕事を探したものだ。」とのことだ。実際どんな上司なのか、どんな部下なのかはわからない。ただ疑問に思うことは果たしてこの上司は部下を教育しているのかどうかという点である。

 少なくとも上司であるという事は部下が行う仕事に対しての責任を追う立場にある。そして仕事の成果を上げるためには配置された部下を使わなければならない状態にあると捉えられる。上手に振る舞う部下もいれば、うまく立ち回れない部下もいるだろう。将来的に考えれば、上手に振る舞う部下は現在の上司を飛び越える可能性もあると考えるのが自然の流れだろう。もし失敗しても責任は上司がとらされるわけで、優秀な部下はむしろ別のところへ引き抜かれるだろう。

 そして使えない部下はそのまま変わらず使えないままであり、上司の元にのこり続けるだけで現状のままでしかない。とすれば、割を食うのは上司だけである。そこで上司は部下を使えるように教育する必要が出てくるのだが、教育する方法を教えられたことはない。そこで頼るのは自分が教えられたという経験であり、その経験から教えるという事を実践し、自分なりに教育をカスタマイズし学んでいく。それによって使えない部下を使えるようにできるのであれば、その上司はさらに成果をあげることができるだろう。

 ところが、部下が使えないのは能力が低いからで、能力が低いのは教育がされていないからであると結論付けるだけならば、いつまでたっても部下はそのままでしかない。そして、自分が受けた教育方法と比較し、今の部下は使えないとの愚痴をこぼすのだ。教育できない上司が行きつく先は果たしてどうなるかは分からないが、現状教育を嘆くだけの人間は、自分が部下に行う教育を振り返ってすべての部下を社長にできるかを考えてみるといいかもしれない。

 

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ネットのことを誰に話すか

 生徒と話していて思うのは、生徒はネットの出来事について誰と話すのかをかなり選んでいるということが実感として見えてくる。私はネットのサブカルチャーやニュースなどについてよく授業中に話をするのだが、表だって食いついてくる生徒は少ない。あとからこっそり仲のいい友人たちと一緒になって話しかけてくるのが最も多い。そういった点で見ると、やはりまだオタク趣味のような扱いをうけているのだなという印象がぬぐえない。

 一方的に卑下されているような自覚がでてしまうのもあるのだろうが、問題はそれらを話すことが出来る人達が現実で見つけにくいということである。そういったことは他のことでも同じと思うかもしれないが、なまじネットの事情が絡むとそうも言ってはいられない。現実で見つけにくいという事は、それこそ同じネットの中で見つけ出すのが手っ取り早く、簡単であり、そのぶんのめり込んでしまう可能性も高まることを表している。

 一部生徒の話を聞く限りでも、すでに保護者よりもネットに触れる機会が圧倒的に多くなっている生徒は確実に存在している。そしてそういった生徒の多くが保護者よりもコンピュータ等の操作方法に精通している。加えてネットの事情について知っていることも多く、私に対して「父母にネットのことについて教えてあげてほしい」といわれることもあるほどなのだ。

 自分で教えるのが面倒なのだろうとも思うが、何も知らないことに対して呆れてしまっている様子も生徒の態度からはうかがえるのだ。さらには保護者に教えようとする生徒もいるのだが、情報機器への拒否反応から「後でいい」とあしらわれてしまうという経験もあるらしい。もちろん理解のある保護者もいるのだが、ほとんどの場合が無関心というのが実情なのかもしれない。

 そういった点からも社会人への情報教育は必要だと思われる。今回のエントリーは具体的な対策・教育法などについて書くつもりだったがだいぶ長くなるのと、まだうまい纏め方が見つかっていないのでのんびりと書いていくこととしたい。

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表現の落とし穴。ネットの対人関係。

 先日のエントリーでインターネットを利用する子どもたちに対して、保護者がどのように見守るかを確認した。ただあくまで子どもたちが巻き込まれる形のものを想定しただけにすぎず、自ら行動を起こすことに対しての視点は有していない。またインターネットで他人と触れ合う時に起こり得る危うい可能性についても触れていないので今回はそちらについて書いていきたい。

 まず何より前提として念頭に置かなければならないのは、ネット上で表現を行うのはほとんどの場合、自主的な行動であるという事である。それらに対してのアクションは表現者にとって大きな原動力となり、後々にまで影響を与えるという事を認識する必要がある。そしてブログやツイッターなどによって自分の言動を他者に知ってもらうことが非常に簡単になっている。さらに情報機器の普及はいつでもどこでもインターネットにアクセスすることができ、自分に対してのアクションを知ることができる状況を作り出している。こういった環境は果たして何を意味するのか。

 ① 直感的言動

 最も心配になるのがこれだろう。思ったことを言葉少なに書いてしまい、どういう意図の発言かを考慮されることなく、ただ言葉のみが先行してしまうという状況を生み出している。良い方面への言動であれば反響が大きくとも問題は少ない。しかし、反面悪い方面の言動である場合、炎上という形で辛辣な言葉が返ってくることも考えられる。

 特に低年齢層は知覚できる人数の範囲が狭くなり、インターネットが衆人環視に晒された場であるという認識がおろそかになりやすい。さらに年齢を周囲に公表していない場合は、なおさら「子ども」であるという確証のないまま扱われるので言動に容赦がなくなることもありうる。しかし、現況においては、「子ども」たちのネット上の発言が晒されることはあまりないように思う。これは単発の発言だけで判断するのではなく、ある程度違う方面からの検証で周囲によって「子ども」だと判断され、相手にされにくいのではないかと考えている。ただ年齢層が近い集団が増えるであろう今後が少し心配になる。

 また低年齢層でなくとも現在ツイッターなどで問題になっている暴露発言などは、この直感的言動に端を発している部分があるのではないかと思える。予防策についてはいくつか考えられるものがあるが、他のこととも絡むのでそちらについては後述する。

 ② 言動情報の共有と存在の同調

 インターネット上では数多くの人が自らの意見を表明しているのだが、それに同意協調する人も多い。情報そのものはこれまでもテレビなどのメディアを通して共有化されていたが、ここにきてさらに細かい言動などの情報も共有化できるようになってきている。そのため自分の言いたいことを代弁してくれたというような錯覚を起こしてしまう人が増えているように思う。そして、言動情報を核として多くの人が集まり、存在がどんどん大きくなっていく。最近の日本の例として韓流偏重ではないかという言動に群がったインターネット上の動きはまさにこれにあたるのではないだろうか。もっとも大人数による共有と同調については、核となる媒体に大きく依存し、団体としての協調の維持が難しいことからさほど気にしてはいない。問題となるのは小さなコミュニティもしくは個人規模の内容である。

 ある人物の一意見に対して各個人が同調する程度ならばよいのだが、その人物の発言が自分と合致しなかった場合にトラブルが起こる。意見の強要や他者の介入などを極度に疑う言動を見せ始め、「私の思っていた人と違う」となって一方的に批判し始めるといった対応をみたことはないだろうか。一人でやっているだけなら単なる自己主張の激しい人となるだけなのだが、他者の意見に勝手に同調したことで、まったくかかわりのない他人を巻き込んでいることに自覚がないのだ。インターネットだとそれが顕著に見えやすい。これまでも起こっていたであろうことだが、他人のやり取りが大分可視化されているので、記録としても残りやすく、より強調されて見えるのだ。そしてそのやり取りが、また別のトラブルを生むきっかけになり連鎖していく。巻き込まれただけの当事者としては迷惑なことこの上ないのは明らかである。

 さらに、この共有と同調は一部の盗作行為にも関連性があるように思える。以前、学生が詩の投稿掲示板に掲載されていた詩を盗作してコンクールに応募していたというニュースがあった。盗作という事実は変わらないが、その心理的背景には共有と同調があったのではないかと私は思っている。

 インターネットの掲示板は誰であっても見ることができるものである。盗作した本人もそのことを当然知っており、誰かに指摘される可能性も考えなかったはずはない。にもかかわらず、作品を応募したのは盗作が暴かれることはないだろうという憶測が大きかったと思う。だがそれ以外に、詩の内容そのもに対して、自分もまた同じようなことを思って、同じようなことを詩にできただろうという思い込みが働いたのではないだろうか。もちろんこの憶測そのもが私の思い込みでしかない。しかし、誰であっても他人がやったことに対して、「私もやろうと思っていた」と考えてしまうことはあっただろう。それがインターネットという事象を通して大量に表出していると考えている。

 ③ 主観と客観の混同認識

 ②にもつながることなのだが、自分の意見と他人の意見を同一視するため、結果として主観的立場で述べていながら、妙な客観的見解を持っている場合がある。傍目には自己分析ができているように思えるが、実は自分と同じような人を客観視し、それを自分であると思っているのではないかという節がある。

 ただでさえ、インターネット上の自己はあやふやなものになりやすい。現実のような肉体があるわけではなく、普段の自分と全く違う姿をネット上にだけ投影することも不可能ではない。他人に同調しやすいのも、どこかネット上の行動は他人事のように捉えてしまうという特徴があるからなのかもしれない。また、ネットの行動は情報機器を通して行うため、字に特徴などが出るわけではない。自分であることを示したうえで行動するなら別だが、ツイッターやブログなどの文字をもって意見表明したものは他人から見れば、必ずしも自分であるという確証を示すものではない。そのため、自分でやったにもかかわらず、あれは自分の言ったことではないという言い逃れもできてしまうのだ。

 そういった行動が繰り返されれば、ますます主観と客観が入り混じり、自己認識があやふやになってくる。外見や性格を偽ろうとするほどに、現実との自分が乖離してしまうだろう。誰もがこういったことに陥るわけではないが、変身願望や一時の現実逃避などは誰にでもあり、少しボタンを掛け間違うだけで泥沼に入り込んでしまうことがないとはいえないと思う。

 3つの観点からインターネットにおける人との関わりあいについて述べてきたが、総じて言えることはネットでの表現行為は自己をある程度確立し、責任を伴って望まなければならないという事である。そういった点でみると、低年齢層の過度なネットへの接触は危ういのではないかと考えられる。他人との関わりは児童生徒の発達に非常に有効だと思うのだが、ネットのあやふやな人間関係は過度な同調を強要し、必要以上に不定形な自己形成を育んでしまうのではないかと思う。

 加えて、デジタルネイティブ世代にとって、情報機器の操作は容易いものであり、インターネットに触れることも難しいことではない。そのため、インターネットと現実の行動を同一視しないよう指導、教育する必要がある。すなわち、インターネットとの距離を一定程度保たせる環境と心の育成をいなくてはならないのだ。

 現在成人している世代は、最近インターネットに触れたばかりで、もともとの距離が離れた状態である。ゆえにネットに対しての過度な行動は起こりにくいが、急激にネットに接した人達は最適な距離を模索している状態であり、その模索の中で起こっている失敗が表面化しているのである。

 現在、情報教育を受けている世代は、教える側もネットとの距離について模索しているため、おそらく成人している世代と同じような過ちを繰り返してしまう可能性が高い。だからこそ、今後の世代においては情報倫理と技術を同時並行で進める教育を重視して行わなければならない。そして、それ以外の世代は、情報モラルについて学ぶだけではなく、自分とネットとの距離を把握し、見直す必要がある。

 それは、一般の人にも言えることであり、企業における従業員教育などにも取り入れる必要性があるだろう。具体的にどんなことをすればいいのかは後日に回したいと思う。


 



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子どものネット利用。いつまで保護者は認識すべきか

 子どもがインターネットに触れることを危惧する保護者は多い。その理由を考えてみると複数出てくるのだが、中でもSNS関係についての心配が出てくる場合が多くなっている。それはある意味当然でもある。私たちの子どもの頃を思い出してほしい。親に言われた言葉やもしくは現在の保護者でも言っているであろう言葉に「知らない人についっていっちゃいけません」というものがなかっただろうか。

 近年の「知らない人」と20~30年前の「知らない人」ではいささか範囲が違ってくる。また都心と田舎との違いでもある。子どもにとっては近所の遊び友達と保護者以外は大体「知らない人」という括りになってくる。しかし保護者にしてみれば保護者同士のつながりやそれ以外の自治活動を行う大人のグループが子どもたちを中心として一つのコミュニティを形成している。その中に普段入ってこない「知らない人」を警戒の対象として、子どもたちやコミュニティに注意を促すことになる。

 そのコミュニティの大きさが近年小さくなっているため、保護者も子どもたちも「知らない人」が増えている。最近では少し挨拶をした人だけのようが「不審者」として扱われてしまう事態もあった。しかし、現実以上に「知らない人」がいるのが、インターネットの世界である。画面を通した関係性であることも、保護者だけしか「知らない人」を増やし、悪意をもった人物に子どもたちが付け狙われやすい状況を作ってしまっている。そういった状況から子どもたちを守るためにSNSにアクセスすることを制限したい保護者が出てくるのは決して不思議なことではない。

 ブログやプロフ、リアルや動画投稿、生放送といったものは少なからず、行動を起こした人の表現行為の表れであり、自らを知ってほしいという欲求が表出したものである。それに対してコメントなどで反応があるという事は自分に注目してくれたということになり、その相手に対し興味をもつことは普通のことである。特に好意的な解釈をもって接してくれた人物に対して、親しみをもつのもまた当然の結果である。しかし、それが後の悪意につながるかどうかは子どもたちで判断することは難しい。そこに第三者の介入でもあればいいのだが、それはネット上のやりとりでは難しいのが現状である。

 保護者はこういった状況に目を光らせ、子どもたちがどんな状況にあるのかを知らなくてはならない。だからこそSNSに制限をかけ、携帯電話などの情報機器に触らせないようにしたいという願望が出てくる。とはいえこの保護者の願望による制限行動が通用するのは、小中学生までだろうと私は考えている。高校生ともなってくると、色々なサイトにつないでみたいと思い、自立心を芽生えてくることからSNSへの興味や好奇心は抑えられなくなるだろう。

 そして保護者も子どもたち独自の現実の関係に触れる機会が少なくなることや、反抗期などをむかえることで、保護者の「知らない人」が増えていく。そのため「知らない人」の判断が難しくなり、自然とSNS自体の警戒のハードルが下がってしまうのではないかと私は危惧している。もちろん高校生がSNSを使うこと自体は強く制限されることではないと思う。しかし、保護者の目があまりにも離れすぎてしまうのは後に好影響をもたらすとも考えにくいのだ。

 事実、デジタルアーツによる「未成年の携帯電話・スマートフォン使用実態調査」のなかでネットトラブルを経験した高校生の37%前後が、保護者に相談しないとなっており、しかも「保護者が自分より知識がないから相談しても仕方ない:44.6%」となっているのは非常に深刻な状況である。実際、私自身も、生徒自身が掲示板で誹謗中傷の被害を受けたが、保護者には相談できなかったとされた事例は多い。

 また、子どもたちがインターネット上で触れ合う人間関係の中で出てくる問題がある。これは、現在ネット界隈でたびたび起こっている暴露や炎上などの一連の流れに関わってくるものである。さらに、保護者だけではなく、従業員教育など各位に関わりがありそうなことなので、別エントリーで後日記載したいと思う。

 

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情報教育を楽しもう

 情報教育の目的というと、情報技術の習得も含む情報活用能力の育成及び情報モラルの向上だったりするわけだが、果たしてそこに注目するだけでいいのかと思うときがある。教える内容について異を唱えるというよりは、もっと面白く色々なことが出来るんだよという視点から情報教育をとらえてほしいのである。

 例えば理科の授業を思い出してほしい。理科といえばすぐに思いつくのは実験ではないだろうか。もちろん通常の授業は教科書・ノートで行われるが、実験や観察といった行動を伴う授業が頭によぎる人は多いだろう。また、米村でんじろうさんの実験による楽しさから理科及び科学を好きになってもらおうという試みをしている人もいる。

 これと同じように情報の授業をいかに楽しむかという点についてもう少し注目してもいいのではないかと思う。といっても、「インターネット」ができるという点だけをクローズアップするのは勘弁してほしい。単に勝手気ままにインターネットを使わせるのではなく、方向性をつけて授業を行うことが必要なのである。

 情報の授業でネットといえばwebページを実際に作るという内容がある。この授業を行うとき私は必ずメモ帳からhtmlの記述を行わせている。聞いた話によると、同じようにwebページをつくる時にホームページビルダーを使った授業を行う人もいるらしいのだが、これは少し勿体ないという気がしてしまう。メモ帳から作ることができるものといえば、どちらかといえば粗雑なものなのだが、変化を見せるという意味では非常に面白い素材なのだ。

 一つのタグを記載することで、文字の大きさを変えたり、色を変えたりすることが出来る。さらには、色を変えるにも英単語による指定だけではなく、RGBによる16進数を利用した変え方も存在する。たった一文字違うだけで望みどおりの結果がでず、お互いのタグを見比べながら、それらに一喜一憂する生徒の表情はとても楽しんでいることを窺わせるものである。

 Excelの関数なども同じである。オートSUMや関数の挿入に頼るだけの授業は、単にマニュアルにそったものを記載するだけの作業で面白味は少ない。しかし実際にほとんど手書きで入力させることで、何が間違ったのか、どこが違うのかを自ら発見しやすくなり、思った通りの結果を導き出すことに成功した生徒の満足度は非常に高い。

 ペイントで絵を描くにしても、自分で描くのは難しく、ほとんど何も描くことが出来ない生徒がいる。そういった光景は日常茶飯事のことである。だからこそ、先日動画で紹介したような「ペイントでモナリザ」を描く動画を見せたりする。そうすることで描けなくともペイントの楽しさを魅せ、描く可能性の幅を開かせるのである。

 タイピングの検定で10分間で310字を打たせるというものがあるが、それを3分程度の曲を聞かせながら、この曲が終わるまでにどれぐらい打てるかを競わせる。著作権の授業をMADを見せて考えさせる。ウイルス対策キャンペーンの一環として行われていた、疑似的にウイルス感染経験を行わせるウイルス対策ソフトのページにアクセスさせる。不正アクセス禁止法違反によって書類送検された中高生の記事を紹介する。警視庁のページにアップロードされたネットのマナーに関するドラマ形式の動画をツッコミをいれつつ鑑賞させる。可聴域を試すフリーソフトの存在を紹介し実際に試す。スマートフォンのネガティブキャンペーンかと思われるほどその機能性に対して疑問を呈する。

 こんな授業を行っているが、簡略化して書いてしまえば文書処理ソフトを使ったタイピングの練習や表計算ソフトの関数を記述させグラフの作成、プレゼンテーションソフトの使い方、HTMLを使ったweb作成となる。どうだろうか。学習内容には一切手を抜いていない。生徒たちにとって難しい内容もあるため、毎回何度も繰り返し行う授業もある。しかし、学習内容の楽しさは他と比べても引けを取らないと思っている。

 同時にこれらの楽しさを享受できているのが、児童生徒だけであるということが非常にもったいないと思う。これまでチーム・ティーチングしていた先生たちやたまに担任に見てもらいに来ていただいたときに、とても楽しそうな授業だと言われたことがある。情報の授業内容というのは、大人が基礎から学ぶ上でも非常に面白味があるのだ。保護者自身受けたことのない授業だけに、どんなことをやっているのか想像がわかない場合も多い。

 だからこそ情報教育を行わなければならないという現状を強調するだけではなく、情報教育の楽しさを伝えることで、前向きな姿勢をとってほしいと思う。ある意味で情報教育のステマといえるのかもしれない。

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デジタル教科書?なんかダメ。それはなぜ?

 電子教科書については以前も触れたが、どうして電子教科書に馴染めないのかを考えてみる。これは提案などとは違い、単に使う場合の不便さや授業で扱う際の困る点などを書き出してみるものである。「実現させるために」といった前向きな姿勢で考えるわけではなく、なぜ使いづらいのかを探るための始点として考慮する。

 ① 液晶画面による目の疲れ

 やはりこれは気になる。パソコンを扱う授業でも同じなのだが、長時間の操作が日常になってくると、目の疲れから肩のこり、頭痛などにつながるのでどうにかならないかという気持ちになる。また自分たちがテレビを見るときは離れてみなさいと言われたせいもあるが、いかんせん子どもたちの目前に液晶パネルがあるという状態は少しばかり抵抗感はある。もちろん、様々な情報機器がある中でのことなので電子教科書に限るものではないにしても、懸案事項としては残る問題である。

 ② 資料を増やすことの意味

 教材が少ない現段階ではあまり実感がわかないというのが本音である。これまでの教科書では資料が少ないという声に応じて、より多くの資料を掲載できる電子教科書を使った方がいいということらしい。ただ、資料は大いにこしたことはないが、なくても別段授業はできるのではないかという事がちらりと脳裏を横切る。授業の質を高めるために資料を多くするとしても、これまでの教科書でうまく授業ができない人が電子教科書で授業を行っても指導は行き届かない。むしろ多すぎる資料に翻弄されてしまうのではなかろうか。

 高いレベルで指導ができる人用のツールとしてならば、電子教科書は意味があろう。しかし高いレベルで指導する人はもともと電子教科書に頼っていない。「まあ、あれば便利かもね」程度の認識である。資料のCG化や動画などで児童生徒の興味を引くという点では便利なのだが、これもまたどこに注目させるのか、資料の深部を児童生徒に読み取らせるだけの指導力がないと意味がない。

 などとここまで書いて、ネットを色々見てみたらこんなエントリーがあった。

全ての小中学生にデジタル教科書を配る理由とは

 いやはや、やっぱり同じように考えている人はいるんだなと思った次第。こちらの方の電子教科書の考えは自分とかなり似通っている部分がある。是非とも他のエントリーについても読んで頂きたい。もちろん細かく見ていけば違う点もあるのだろが、概ね同意見である。他にもデジタル教科書ではない教育でのデジタル活用を考えてみたなど、とても参考になる意見がずらりと並んでいる。

 ③ 板書とノートに写す作業は無駄?

 わざわざ黒板に書く作業は必要なく、ノートもカメラで撮っておけばらくらく。という使い方もできる電子教科書と電子ノート。これまでの煩わしい作業から解放されて、効率的に理解させる時間を確保できると考える人はどれくらいいるだろうか。こういってはなんだが、そんな甘い考え方をしていたらとても複数人数に教えることはできないだろう。全員が大体同じ程度の学力で理解する速度にそれほど差がないような習熟度別を全教科に適用できるなら話は別だが、それだけ教員の人数が確保できるのであれば、財政上の心配など端からしていないだろう。

 ノートに写す作業にどれほど教育効果があるかは分からないが、生徒の写し取る速度や要点の整理の仕方がそれぞれ異なることで生まれる効果がある。それは机間巡視をする際の個別指導に活かされ、単に内容を話すだけではない授業につながるのである。

 私の実践として言うのであれば、例えばエクセルでVLOOKUP関数を教える際に基準となる表は教材として配布することが出来る。わざわざ自分たちで表作成を行わなくとも、最初から関数だけを教えることは可能である。しかし、私は必ず全員に表を作らせる。いわゆる板書とノートの書写につながると思うのだが、要領のいい生徒は早々に表を作り、自分で問題の答えを導き出そうとし、タイピングの苦手な生徒は問題の解説に至るまで表作りだけを一生懸命やることになる。

 そうすると生徒は自分の進度で物事に取り組むことが出来る。タイピングが苦手なら指定の時間をタイピング練習に充て、別の生徒は問題に取り組むことができる。この差を利用して、教員はそれぞれの個別指導を行うことが出来るのだ。

 とはいえ、書写に使われていた時間を少しでも新しいことを覚えるために使う時間にした方が効率がいいと思われる方もいるかもしれない。しかし、こういっては何だが、それは以前の詰め込み教育に戻るような気さえしてしまう。今の教育方法がすべてに勝るというわけではないにしても、電子教科書でないからこそ与えられる学習の意味を考えてもいいのではないだろうか。新しいものと古いものを比べるときには、どうしても新しいものの優位性を強調しがちな場面がたびたびある。そして、結果としてあれがよかったこれがよかったなどと言われるのは果てしなく面倒くさいといわざるをえない現状があることを知ってほしいとも思うのである。

 ④ 自由度が低い。

 電子教科書に限ったことではないのだが、教材を作るにしても自由度の低さや制限によって、自分の思った通りのものができにくいと思われる。よく聞かれる例として挙げるたいのだが、ワードなどでクリップアートを文章に貼り付けたいとする。その時にどうしても文章にかかってしまい、うまく配置ができないというものである。やり方を知っているものとすれば、それは「文字列の折り返し」などで、「前面」に持ってくるという設定に変え、どこにでも自由に配置できると思うだろう。しかし、知らないものからすれば、わざわざ試行錯誤する時間をとるよりはさっさと諦めて、あとから印刷したものに糊で貼り付けて印刷してしまえばいいと思うのは自然の流れである。

 今挙げたものは簡単な例にすぎないが、色々やりたいと思うほどに様々な制限にぶつかるようになる。そして本来の授業に時間をとられるのではなく、一つの教材にのみ時間をとられてしまうのは、はっきりいって効率的ではない。もっと直感的に作業できる機材があればと思うが、現段階の機材やアプリケーションでは不便さや自由度の低さが目についてしまう。時間短縮になった部分もあるが、それらが当たり前になっている分、他の面でも何とかしてほしいという要望に応えるには機材のスペシャリストになる必要がある。それでは本末転倒である。

 とまあ、こんな感じで電子教科書に関する不満を考えてみた。他にもあることはあるのだが、実際に使ってみないと分からない部分だと思ったので割愛させていただく。

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動画なども見てみませんか

 コンピューターを使って授業をしていて非常に楽だと思えるのは、資料をネットで引き出し、プロジェクターなどを使って大きく生徒に見せることが可能だという点である。私自身の経験としては、ニュースの記事などを見せることが多いのだが、時には動画サイトなどからネタを引っ張ってくることがある。とはいえ、学校では基本的に動画サイトにはつながらないよう制限をかけているので、プライベートでたまたま見つけた動画を保存して授業で再生することがほとんどである。

 その動画の種類は様々であり、使える用途としては色々ある。
実際に授業で使用した動画の一部を紹介しよう。

【音ゲーMAD】スカイプで天国と地獄【skype×天国と地獄】


Hello Windows


[神]まさかのMSペイントでモナリザ


ガンランスを作ってみた


珈琲を淹れさせてみたのだが・・・


実写かと思ったらCGだった件


ミンティアにmp3プレーヤー入れてみた

ARToolKitでラジコン戦車とCGを合成してみた

■宇宙寿司を描いてみた


【Kinetic Typography】アンハッピーリフレイン【PV-Full.ver】


【第5回MMD杯本選】チェス【盤上遊戯】


【第6回MMD杯本選】Rubik's Cube


初音ミクによる四声合唱「ちいさい秋みつけた」 (修正版)


【Minecraft】天空の城ラピュタ



浮世捌景


バレスタイン城コラボにヴィオラ足してみた。


BadApple!!PVを全てリンゴで再現してみた。【比較版】


 こういった動画を授業内で見せたことがある。なお、これらの動画の中には授業で見せることに戸惑いを感じるものをあると思われる。しかしいずれも苦も無く見れる現状があることを考え、どういった点に問題を感じるのかなど掘り下げるという意味でも色々とつかえるだろうと私は考えている。

 また単純に見るだけでも面白い素材なので、是非一度視聴することをお勧めしたい。なお、一部作品はネットならではの連携によって作られたものなので、一つの動画だけ見て判断するべきものではないものも含まれる。なぜこういった動画が生まれるのかという背景は非常に面白いのだが、それを全て説明するのはここでは省略させて頂き、まず単純に楽しんでもらえればと思う。

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有料情報に必要なもの

 有料メルマガについてどう思うかを雑記で書こうと思っていたら、ふと情報の有料化と情報教育についての関連性が頭について回ったのでそれについて綴る。

 最近のネットには金銭的な事情がついて回り、嫌儲だとかステマだのという話が出てきている。オンラインゲームの課金アイテムやペニーオークション、個別宣伝、会員制サイトの有料化に有料メールマガジンなど珍しいものではなくなってきている。しかし金銭が絡む話はどこであってもトラブルを生むものである。ニュースなどでは、未成年による課金アイテム欲しさの不正アクセスなどが話題にのぼり、こぼれ話では子どもが携帯電話の有料ゲームにはまって相当な金額をつぎ込んでしまったとのことである。

 そして、ネットで提供されている情報が近いうちに有料になることが当たり前と言われるかも知れなくなっている。一部新聞サイトではすでに無料で提供していた情報を有料化しており、著名人の有料メルマガも徐々に増えてきている。これによって何が変わるのかを考えてみた。

 まず大手の新聞社が手掛けているニュースサイトがすべて有料化することはあり得るだろうか。おそらくこれはないだろう。もし有料化するとしても、詳細記事のみ有料化し、簡易記事を掲載するというスタイルにしばらくは従事すると思われる。紙面での読者が一定数以上いるのであれば、有料電子版に完全移行するうま味は少ないのではないだろうか。簡易記事さえもない状態では、むしろ集客力が乏しくなり購読者層も減ってしまう可能性さえある。

 ただ簡易記事が多くなるという事は、情報量や情報の精度が低くなることを意味し、これまでネットの無料情報を利用していた人々は、有料化された情報か他の情報媒体を利用することにつながる。紙面の流通が安定している新聞は、手に入れやすさや値段においても一般化されているので、電子化におされ発行部数は減るものの消えることなく利用され続けるだろう。そう考えるとテレビやラジオという無料で視聴できる情報媒体もネット上で利用されるだろうが、それぞれの電波を利用した提供方法は消えることはないのだろう。

 そう考えると、むしろ気になるのは他のネット上の有料サイトや有料メルマガである。今どれだけの情報がネット上に有料で出回っているかは分からないが、近い将来、スマホなどで有料サイトを読むのが当たり前になるのだろうか。その場合、テレビやラジオ、新聞、ニュースサイトとは違った目線で書かれた内容が目を引くことになるのだろう。今でいえば、津田大介さんや上杉隆さん、辛坊治郎さんのメルマガになるのかもしれない。

(ちなみに私自身はメルマガをとっていないので、何が書かれているのかは他者の書いた内容を読む程度のことしか知らない。今挙げた三名に関しても、ただ有料メルマガでニュースについて書いてる人を調べたら出てきただけである。ただ津田さんのメルマガの内容については、彼をツイッターでフォローしているので、そのツイートの中から漏れ聞こえてくる程度の情報は知っている。)

 しかして、これらの有料情報はどこまでアテにすることが出来るのだろうか。(これは今の有料情報にケチをつけるつもりではなく、あくまで「有料情報を提供している試金石」と捉えて頂きたい。)情報提供者をどこまで信じるかということにもなってくるのだが、有料であるからにはそれなりの情報量や精度などの質が求められる。当然、質が悪ければ有料である意味に揺らぎが出てくることになり、更新されることも少なくなってしまうのだろう。

 とはいえネットにおける有料情報は大手新聞社などをのぞき、ニュースなどを別の目線から捉えるための役割を果たすことに一役買うことになるだろう。また、一般紙などでは話題に上りにくい専門性の高い内容を伝えるものとしても有意義であろう。ただ、もし本当にネット上の有料情報がそういった性質のものになってくるのならば、入ってくる情報量が細かく多くなるので、それらを検証し、自分で行動の選択をできる能力がより必要になる。その時にこそ情報教育を行った結果が出てくるだろうと思われる。

 現在のネット上に「信者」や「アンチ」といったレッテルを張っている人達がいることは周知の事実だろう。自分の考えを持って他人に同意したり反対しているにもかかわらず、二元論的に批判したり、炎上させることそのものを目的としてしまった現状をあまり好ましいものとは思えない。しっかりと有料情報を提供する人物たちの動向を確認し、情報提供者を追い込むぐらいの論理・意見をもっていくことが必要なのだ。

 同時に有料情報の提供者は、自分の情報が有料にふさわしいかを判断する人物が現れることを望まなければならないだろう。それこそ購読者を自分の信者と言われぬように情報の公開も図るべきだと私は考えている。現状、新聞や書籍などは図書館などで無料で読むこともできる。最新情報について即時公開すべきとは思わないが、せめてネット上ならば半年から1年後には7割以上の情報を公開するか、書籍にまとめて追記したうえで発刊することが望ましい。もちろんネット上で一度有料化した情報を無料公開することは購読者に損を与える結果になる。だが、ネットの即時性を考慮した有料情報は、将来の結果を選択するためのものと考えられ、決して無駄にはならないのではないだろうか。

 もっともそれを実行するのは難しいのかもしれない。とはいえ、自分を盲信する購読者だけではネット上の有料情報に未来はない。購読者も自分の考えをもつための有料情報であると意識を高く持ち、情報を選別、検証し、質が悪ければこんなものでは満足できないと突っぱねるだけの読者に成長しなければならない。

 

 

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情報機器から切り離された情報教育の価値

 震災より11ヶ月という事で、あの時思い悩んだことについて述べる。

 簡潔に言ってしまえば、私が教えていることは震災時に何か役立たせることが出来たのかということである。

 地震が起こった時は、まだ授業が行われていたため、ほとんどの生徒が学校にいた。その後すぐ停電になったため、学校周囲の状況も分からず、携帯電話のワンセグテレビや車載テレビなどで大きな被害が出たことを知った次第である。その後、各担任が携帯電話で生徒の保護者と連絡を取り、必ず近親者に迎えに来てもらっていた。また家が近場にあり保護者が迎えに来るのが難しい場合には、教員が連れ添って徒歩で送り届けるなどの対処をしている。他にも帰宅が難しい場合は、合宿所などで夜を明かした者もいる。

 そんな中で連絡手段として携帯電話は非常に役立った。しかし、電気がいつ復旧するともしれぬ状況だったので、極力電池の消耗を避けるよう生徒たちに指示し、できるだけ定期的な連絡に努めるよう話をした覚えがある。とはいえ、現代の子どもたちはすでに身近なところに情報機器が存在し、不安な気持ちを紛らわせるためかあまり話をした効果があったとは考えにくい。

 結果として私が教えていた生徒たちの被害状況は、数日から1~2週間ほどの停電と断水が続いた。後に話を聞いたところによると、やはり最短でも3日ほど携帯電話を使えなかった生徒が相次いでいたということである。この状況で果たして、情報活用能力を生かす機会はあったのだろうか。

 正直な話、ほとんど役に立ったとは言えないだろう。別段ネットワークや情報機器だけを重視した授業を行っていたわけではないが、電力が回復せず、完全にインターネット等のネットワークからも切り離された状況では、何もできないことを痛感させられた。

 あの当時、ネットワークを使いこなし、情報機器の機能を最大限活用できたのは、震源地から離れ、比較的被害が少なかった場所にいた人達である。ツイッター等のSNSを利用した行動が非常に有益だったという、その様子は一部報道や後の話で知ることができた。しかし、被害の大きなところではインターネットなどまったくもって通用せず、人伝のもっとも基本的な方法でしか情報を知ることが出来なかった。

 最も大きな情報源がラジオだったことはよく知られていると思う。その背後には、本当に何も知ることのできない状態が長時間続いていることが不安を煽り、例え精度が低くとも、何かを伝えてくれるものに縋りたかった気持ちの表れがある。いつまで情報が断絶されるかわからない中で、単3電池程度のわずかな電力で長時間聞くことのできる情報源はとてつもない安定をもたらしてくれたと思っている。

 そして、そんな状況の中で、自分が教えている情報教育はどれほど役に立ったのかを後に考えてしまったのだ。未だにわざわざ情報を教える意味があるのかを悩んでしまう時がある。いくら情報活用能力が今後必要なものだとしても、ライフラインの危機にさらされた震災の経験の中でどれだけ意味があったのかを見出せないでいる。

 もともと学校でできる授業などに、そこまでの意味を求めるのが酷であると思われるかもしれないが、あの日以来、情報の価値が変わったと考えた人がいるのは確かだ。そういったことも踏まえて今後の教育に生かさなければならないと私は考えている。未だに堂々巡りを続ける中にいるが、技術的問題や情報モラル的問題等を踏まえて教育活動に取り組んでいきたい。


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ネットを介した生徒の行動を知るべし。 続

  前回に引き続き。

 ⑤ 動画サイトの影響 【投稿】 (You tube、ニコニコ動画)

 動画サイトはすでに見るだけではなく、動画を通して表現するという場として地位を確立しつつある。事実、投稿者の中には学生も多く見受けられ、人気のある人物もいる。技術面に関しては機器の方でかなり簡易化しているが、それ以上に未成年であっても驚くべき速さで技術を吸収している。

 しかし気軽に動画を投稿できるという環境の為、トラブルも増えつつある。学校現場として気になるのは「いじめ動画」である。いじめの現場を撮影して投稿することの意味は、投稿者によって変わる。誰かに止めてほしいという思いなのか、それとも自分の力を誇示したいと思うのか、または単に面白半分にやってしまったのか様々である。

 自分の意見や表現といった形で動画にすることは、学生であっても一つの活動として認めるところである。しかし、倫理的に問題のある行動を録画し、ネット上に流す行為はどこまで容認されるべきかは議論の分かれるところだろう。なればこそ動画を投稿するという行動に対し、表現者としての自覚と責任を持たせる必要がある。安易な行動とならぬよう見守ることが対処法といえるのではないだろうか。

 ⑥ ネット放送の現実 (ニコニコ動画、Ustream)

 動画サイトは、視聴と投稿に留まらず気軽に生放送も可能であるという事実を示した。しかし、テレビによる規制に捉われない自由なスタイルができることから、その内容には一部物議を醸すことがある。これまでにも自殺放送やクレームの電話を放送するという事態が起こっている。放送の影響はいつどんな形でどれほどの影響を与えるのか未知数である。多くの可能性も秘めている分、行動のしっぺ返しをくうことを認識する必要がある。

 と、ここまで書いてきたが、どうにも同じような視点で書き続けたせいで、論点・視点のずれ及び、内容の浅さが目につくようになってきた。なのでこれはここまで。いずれまとめる気になった時にもう一度。

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ネットを介した生徒の行動を知るべし。 継

 先日に引き続きネットを介して起こり得るトラブル等の事例を考察する。

 ④ 動画サイトの影響 【動画視聴】(You tube、ニコニコ動画)

 中高生にとって動画サイトはすでに幅広く浸透している。特にニコニコ動画の影響は目を見張るものがある。それぞれの世代になじみ深い音楽がテレビやラジオを通して出てきたように、現代ではボーカロイドや歌い手の音楽がテレビではなくネット上の動画サイトから流行している部分さえある。音楽に限らずゲームやダンス、料理、絵、技術系など興味を引く内容も多く、中高生だけではなく大人から見ても魅力的なコンテンツは多い。

 しかし、その一方で注意しなければならない点も多い。よく叫ばれるのは著作権に反する動画が投稿されていることで、権利を無視した行動が横行し、それを助長するのではないかとの懸念がある。またネット上の動画は不特定多数が見ることを意識しつつも、テレビのような規制をかけることができない。もちろん各サイトの規定等によって過激すぎる表現や犯罪行動の映像等は削除されることになるが、そのチェックがすべてにおいて行き届いているわけではない。

 そのため、例えば18禁などのアダルト動画や殺傷行為等の犯罪動画、道徳的に問題のある動画等も場合によって未成年の目に留まってしまうことがある。動画サイトはパソコンだけではなく携帯用ゲーム機やスマートフォンなどの携帯電話などから見ることも可能なため、周囲の目が届きにくい。

 さらには、テレビなどではすでに自主規制がかかっているが、サブリミナル手法や光過敏症への配慮といった点もネットに動画を投稿する人の判断に任される。政治性や宗教性の特色が強い動画もあり、自らの意見を正しく判断できる状態の前に思想誘導される危険性も皆無ではない。

 こういった状態にあることを、少しでも大人が知っておく必要がある。フィルタリングによって動画サイトは見られなくなっていると安心してる場合があるが、抜け道はいくらでもある。大人よりも情報機器の扱いに精通した児童生徒にとって抜け道を探し出すことは、一種の遊びのようなものであり、それらの情報を共有していることを認識しなければならない。

 この状況に対応するには、まず教員や保護者がどんな動画があるのかをしっかり認識することである。大人がフィルタリングに依存して、フィルタリングされた情報しか受け取らない状況にあることが一番の問題なのだ。そして、児童生徒にこんな動画があるという事実をぼやかしながら伝えなければならない。投稿されている動画には、様々なものがあり、見るべきではない動画もあるという事実を知ってもらうことを知らせるべきである。

 そして、もし児童生徒が嫌悪感を生じるような動画を見てしまった場合、それについて話せるような態勢を教員が整えることが必要になってくる。単にネットの規制、動画の規制をしたところで、他人のフィルタリングが解除されている端末や漫画喫茶などの規制が解除されている端末で見てしまうことも十分考えられるのだ。

 映像による体調不良を訴える可能性のある動画についての情報共有などをすると同時に動画を見てしまったことを叱るだけではなく、心のケアを考えた事後策を考えなくてはならない。


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ネットを介した生徒の行動を知るべし。


 近年、ネット上の若者の行動が問題になっている。いくらか話題には上るもののその対応策は見えてこず、結果として放置されたまま、ただ「バカ」なやつと烙印を押されて曝されるだけである。しかし、教育に携わる者として見ればこのまま放置しておくのは、些か不義を感じざるを得ない。またネットに見られる行動は、普段ネットに携わらない物にしてみれば、まったく未知の世界にも思えるものである。如何せん教育現場を構成する年齢層は高く、多少の炎上騒ぎ程度しか知らない教員も多々存在する。
 そこで、生徒や学校に起こり得るトラブルを幾つか挙げ、その対処法または予防策を提案していきたい。

 ケース① ネット上の誹謗中傷(プロフ、ブログ、掲示板)
 
 これは流石に教育現場においてもある程度対処及び予防策がとられている。数年前に学校裏掲示板などの存在が注目されたことで、外部サイトなどを利用することで、各学校の誹謗中傷などがないかチェックすることが容易になっている。設置されるサイトも一定の監視がなされていることで、最近は公に見えることは少なくなった。しかし、その分生徒個人の持つプロフやブログに移行していき、より小さなコミュニティ内での会話に変わっていったことで、監視の目は届きにくくなったのではないだろうか。
 対処法としても地道に情報収集をしながら動向を見守ると同時に、注意を促すことが最も有効であろうと思われる。

 ケース② エスカレートする露出行動(プロフ、ブログ)
 
 先ほどの誹謗中傷とは異なるが、最近のプロフには多い傾向である。スマートフォンに限らずほとんどの携帯電話で写真撮影が可能なため「自画撮り」を行う生徒は多い。特に女子生徒には顕著な傾向であり、それらを自分のサイトに掲載することに抵抗がない。自分のページにアルバムとしての機能を果たさせており、碌にパスワードもかけることもなく全体公開している例も少なくない。
 またそれらの写真の中には、一部過激なものも含まれ、服を開けたものや、彼氏彼女とのキス写真などをのせている事例もある。これがもととなってトラブルに巻き込まれる可能性は決して低くない。大概の場合であれば、学校側のとるべき手段としては、プロフ等を閉鎖させ、二度と開設させないとするのが一般的になってしまうのではないだろうか。
 しかし、当人が情報機器を持っているのであれば、いつかまた開設することは目に見えている。ならば、せめて各サイトの公開レベルについての基礎知識を持たせることとパスワードによる保護の徹底をおこなう知恵を身に付けさせることは必要だろう。規制そのものが悪いわけではないが、今後のことも考えるのならば、そういった指導を普段から行うことが重要である。

 ケース③ 安易にかかれる言葉「犯行予告・個人情報・デマ・暴露」(ツイッター・ブログ等のSNS)

 最近の話題になっているネット上の出来事といえばこれだろう。「バカ発見器」などとも揶揄されるツイッターであるが、呟かれる言葉があまりにも浅慮ではないかとの危惧から「情報モラル」の必要性が叫ばれている。むしろこれの対処が必要となってくるのは、学校よりも企業に従事する社員の方が影響が大きいだろう。事実、一社員のつぶやいたことが、企業に対しての責任を求める声へとつながり、損失へつながる例が見て取れる。
 学校においてとれる策は、授業の中で継続して失敗事例を提示し、注意喚起することが望ましい。安易なことを書けば、まずいことになるとの自覚を促すことで将来を見据えた情報モラル及び情報活用能力を鍛えることにつなげていきたい。
 しかし、現在トラブルに巻き込まれている人物の多くは、現役の大学生であったり、社会にでて働いている者である場合が多い。これらの人物に対しては、大学や会社における数回の研修という形でしか注意を促すことが出来ない。そのため、幾つかの原因となることを踏まえて別の機会にじっくりと記していきたい。


 まだいくつか考えられる事例があるのでそれは明日にでも。

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デジタル教科書を使いこなせるか

 デジタル教科書の導入について最近目にすることが多くなった。自分自身が注目しているせいもあるが、実際の動きはひどく緩慢で、通常の授業をしている中ではそんな話がおりてくる様子は一つもない。このままでは導入は当分先になってしまうのだろうなと思ってしまう。

 自分自身の立場として見ればデジタル教科書が入ってきてもこなくても、現在の授業方法・内容が劇的に変わるとは思えない。おそらく機器の操作方法やアプリケーションなどに適宜対応していくことも不可能ではなく、授業の素材としていくつか資料が増えたと考えるだけである。

 現場で指導に当たる他の教員も、一定のサポートと使いやすい教材があるのならば、デジタル教科書と電子黒板を使うことが可能であり、戸惑いながらも対応していくことができるだろう。ただ、これは教員がメインに電子黒板を使い、生徒たちは通常の紙の教科書・ノートを使うことを前提とした場合である。各生徒に一台タブレット端末が配られ、全員がデジタル教科書を使って授業を受けることを想定すると、及び腰になってしまう教員が出てくることは想像にかたくない。

 その理由は大きくは不安や疑念によるものだろうと考える。教員自身が新しい機材に対応できるかという不安、生徒がどういった対応をしてくるか分からないという不安、授業そのものにどこまで効果があるかわからないという疑念など様々だ。そして、その不安や疑念に応えてくれる事例なども望まなければ手に入らない。結果として二進も三進もいかない状況になるだけだ。それを打破するために一つの提案をしたい。

 先に言った通り、私はデジタル教科書を使おうと生徒一人一人がタブレット端末を持とうと、自分の授業展開にあまり関係はない。なにしろ現時点で授業の際には必ず生徒一人一人にパソコンが充てられているのだからあまり状況は変わらないのである。生徒用パソコンは机に2台置かれ、その真ん中に教員用パソコンの画面が映るように設定されているので、電子黒板の役割も一部果たしていると考えていいだろう。パワーポイントについての授業を行うときには、キータッチの練習がてら、パワーポイントをノート代わりに板書をさせたりもしている。

 さて、そういった授業をしていると生徒が実際にパソコンをどう使用しているのか、また余計な動きをしていないのかという点がいくつか見えてくるようになる。パソコン利用であれば、今では望めば誰でも授業を行うことが出来る上、タブレット端末を使うイメージも少しは見えてくるだろう。授業をどう進めたいかという点も見えてくるので是非パソコン室を使った授業をおすすめしたい。そして、実際の私自身の経験から、端末に望む機能とその理由をあげるので、以下の点に注意を払って授業を組み立てていってほしい。

 ① 各生徒の持つ端末のネット接続を任意で授業担当者が切り替えることが出来る。
 ② ブラウザによる閲覧機能を任意で制限できる。
 ③ 全端末の画面が教員の端末に表示できる。
 
 これはパソコンの授業を経験した教員ならば誰もが思うものだろう。タブレット端末によるデジタル教科書の利点としていつでもネット上から情報を取り寄せることが出来ることを想定している。しかし時には自分の頭で考えさせたい場合もある。そういった時に、安易に情報を引き出せないようにしたい。さらに、授業と全く関係のない情報を勝手に見ている状況はあまり好ましいものではない。少なくとも端末を何に使っているかを教員が把握することで次の課題の指示をするなり、教員の許可を得ることでネットの閲覧が可能であるとの状態にしたい。

 これらの仕様は普段、情報機器を授業で使わない教員にとって教科書としての意味を逸脱させないための意味も含んでいる。すなわち生徒が授業に集中せず、勝手にネットだけを見ている状況にならないかとの不安を一部取り除く術となるのだ。実際にパソコンを使って授業をしていると、課題を一つも行わずひたすら自分の好きなページだけを見ている生徒がいる。小中学生の場合であればなおのこと興味をそそられ、授業に集中することが出来ないかもしれないと思う。

 このときにある程度の強制力として、①②③の機能があれば、少なくとも表面上は授業に注意を向けさせることが出来る。また以下の④⑤も同じような理由で設定してもらいたい。

 ④ タブレット端末には生徒個人の承認だけではプログラムをインストールできない。
 ⑤ 個人的なファイルは256MB程度の入力が限度とする。

 中高生ともなればパソコンが得意な生徒は、自分でデータを扱いゲーム等のプログラムを勝手にパソコンにインストールさせようとしている。実際に授業で使うパソコンにUSBフラッシュメモリを付けて遊びに使ってしまうのである。最低限教育用タブレットとして使うのであれば、一部機能を限定しておくことは望ましい。ただ音楽ファイルや写真などの比較的軽いデータであれば、授業内で使用する可能性もあるので、大容量になりすぎない程度には入力が可能であるほうがよい。ソフト面については上記のものをクリアしてもらうとして、ハード面においては以下のようなものが考えられる。

 ⑥ 画面はできるだけ大きく、軽量である。
 ⑦ 衝撃に対して強い。
 ⑧ 待受状態ならば最低12時間は充電なしで使用可能。
 ⑨ 充電方法の改良。ワイヤレス給電の積極的活用。

 これらはハード面にて確実に突き当たる課題である。私自身、家電量販店でipadを持ったときに思ったのは何よりまず重いという感想だった。机に置いて使用するにしても、些か疑問符が付きかねない重さである。最近出てきたkindleの方が軽いという事なので、そちらに期待がかかる。
 また衝撃という点では、様々なことが起こる教室では当然考慮しなければならない。小学校では机から落とす、ボールなどが当たる、工作器具で傷つくなどはしょっちゅう起こりうる状況であり、すぐにわれてしまうような作り方では話にならない。
 さらに電池切れなどを起こさず安定して使うためには、連続待受時間が10時間を超えていなければならないだろう。毎回電源を切らなければならないと指導しても、消し忘れなどはよくある事態なので、それを踏まると目安として、やはり半日は充電なしで安定稼働してほしい。
 加えて、充電忘れなどが起きる可能性もあり、緊急時に複数台の充電措置が必要となるならば、一つのコンセントに一台などと言っていられないので、ワイヤレス充電は必須といえる。これらがハード面に望むことである。

 さて最後にそれ以外の措置について必要と思われるものをいくつかあげておきたい。

 ⑩ 各学校に対するICT支援要員や情報教育支援士の安定確保と研修会の充実。
 ⑪ 予備で置かれるタブレット端末の確保。
 ⑫ デジタル教科書の内容充実とそれに対応した教材及びこれまでの文献のデジタル化。

 まだ加えなければならないところもあるので、この続きはまた別の機会に。

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どこまで、いや、何を評価すべきか。

 「情報」の評価について書こうと思ったのだが、どうにも制約というか縛りが出てきてしまい、思ったこと考えたことをすっきりと伝えられなくなった。なので主体とする予定だった授業から評価のことを書くのではなく、目標・目的とする「情報活用能力」育成の面から評価を考える。

 まず平成21年3月に出された新学習指導要領においては、教科「情報」の目標の観点を「情報活用の実践力」、「情報の科学的な理解」、「情報社会に参画する態度」の3つにしており、この3観点に整理された能力・態度が「情報活用能力」であるとしている。そして3観点の定義については以下のものとしている。

「課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて,必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し,受け手の状況などを踏まえて発信・伝達できる能力」

「情報活用の基礎となる情報手段の特性の理解と,情報を適切に扱ったり,自らの情報活用を評価・改善するための基礎的な理論や方法の理解」

「社会生活の中で情報や情報技術が果たしている役割や及ぼしている影響を理解し,情報モラルの必要性や情報に対する責任について考え,望ましい情報社会の創造に参画しようとする態度」

 これらの内容を踏まえて考えてほしいのだが、「情報活用能力」の測定・評価を明確に行う術とはどんなものだろうか。困ったことに私には見えてこない。というよりも、評価項目が多くなりすぎてどう判断すればいいのか整理できないのだ。おそらくこの評価の難しさも教科「情報」の内容が特定のソフト操作に傾くことになってしまうことに拍車をかけているのではないだろうか。

 また一言に評価といっているが、それは学校の教科として扱う以上二つの面がある。まず一つは生徒の能力を鍛え、生徒自身の苦手な部分の強化や得意分野を伸ばすため、当人を指導し現状を把握してもらうための評価である。もう一つは端的に言ってしまえば内申書などに記載される生徒自身の能力を外部に教えるための評価である。

 まず基本的なソフトリテラシーという点においては、評価の両面において把握しやすいものである。例を挙げるのならば全国商業高等学校協会で行われるワープロ実務検定や情報処理検定などは、高等学校を対象とした資格試験としては比較的有名でもあり、実技試験で文書処理ソフトや表計算ソフトを使用しさらに知識面においてペーパーテストも行うので、限定的ではあるが評価が可能であろう。他の資格試験においてはパソコン検定や情報検定なども挙げられるが、詳細については私自身曖昧な知識であるため説明は省く。

 そして近年注目されている「情報モラル」については多くのところで取り扱われている。ところが授業内容や一部資格試験の中に組み込まれてはいるものの、それを評価できるかどうかは疑問が残る。何せやっていることは道徳とほとんど変わりがない。情報モラルの知識を持っているかを評価するのではなく、ふさわしい行動をできるかという点に注目しなければならないのだ。場合によっては生徒の普段の行動内容を踏まえることで、教員が生徒に評価を伝えることは可能であるが、外部に評価を伝えることは非常に難しい。

 加えてこれら以外の内容について評価するという事が途方もないことに思える。もちろん細かく見ていくことで他の点についてもできることはある。情報の発信や表現といった部分について自己評価、客観的評価などを加えてみていくことができるのだが、総合的な判断として評価を下すことがあまりに難しく思えるのである。なおのこと5段階評価に縛られるとどうしていいのか分からなくなる。

 評価など必要としないという意見もあるだろうが、ただでさえ教育の結果というのは見えにくいものである。まして情報教育は小中学生にも行われるのである。今後の教育を充実させるためには、それらを少しでも明確に可視化し、追及していくことが必要であると私は考えている。

 

 

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学校と保護者を結びつけるネットワークの在り方 継

 さて、前回は思わぬご本人からの指摘があったので、そちらの補足説明をいれてみた。今回は前々回の「破綻する連絡網」などの状況と提案できることに触れていこうと思う。

 現況の連絡網は、個人情報の保護に敏感になったことでほとんどの場合、限定的な機能にとどまっているのは事実である。もともと保護者間の交流も少なくなっており、ほとんど面識のない相手に電話をかけて、伝言を次の人に回すという手法はもう取れなくなってしまうのだろう。

 「子どもがケータイ~」の中では「家庭同士をリング状につなげるネットワーク化が、難しくなっている」とされ、「学校をハブとして各家庭が直接つながる、スター型ネットワークしか手がなくなる」と述べられている。ただ本当にネットワーク化の形態がスター型だけになると考えていいのだろうか。
(注釈:小寺さんご本人より

「僕が書籍中でリング型とスター型の話を出したのは、連絡網の形としてネットユーザーに理解しやすいように説明したまでで、リング型コミュニケーションを否定する意図はない。この部分は誤読である。」

との指摘を頂いたので一文を削除。)
 ただこのスター型とリング型のネットワークは常に共存していると私は考えている。

 連絡網の配布は学校からの情報発信を効率よく伝えるために使われていたわけだが、それ以外にも個人的なつながりを形成する際の手段としても用いられていなかっただろうか。本の中には、連絡網に名前と住所、電話番号が記載されていたころには年賀状のやり取りをするのに住所を交換する必要がなかったとある。つまりリング型に配置されている「家庭」という点は、実際はそれぞれ対角線のようにつながっている部分もあるのだ。当たり前だと思われるかもしれないが、これを無視することはできない。(注釈:上記と同じく指摘を頂いたので削除。小寺さんご迷惑をおかけしました。またご指摘ありがとうございました。)

 須磨学園の西先生へのインタビューの中にも、ネットワーク上にある保護者のコミュニティについて述べられており、保護者全員ではないにしても、一部に小規模リング型が形成されていることが見て取れる。さらには制携帯自体が連絡網になっているので結局スター型ネットワークを形成しつつも一方でリング型ネットワークを維持しているのだ。

 そうなると今後のネットワークの形とはスター型に小規模リングを重ねた形がふさわしいのではないかと考える。天井からぶら下がるガラガラに途中で引っかかるように輪っかを重ねたようなものだろうか。
 上部中心点に学校が存在し同心円状にリング型ネットワークを存在させる。しかし学校そのものがネットワークの維持をするのは望ましくない。出来うることならば保護者が自主的に民間のSNSなどを利用して学年やクラスなどの新たなコミュニティをネット上に形成していってほしい。

 ただ現実的には、担任が保護者に対し実際に無料で利用できる民間企業のクラウドの場などをいくつか提示し、それらを自由に使ってもらうというのがあり得る話だろうと思う。パスワードの発行・変更については保護者の代表と担任が持ち、基本的な管理運営は保護者で行うことで、両者が利用できるうえ、学校から一歩距離を追いた場を作ることが出来る。

 そうなれば、担任裁量で出す学級通信などはデジタル化されたものを保護者が自由に閲覧でき、一度配布されたものを各保護者が複数回、紙面へ転写することも可能になる。連絡の際も担任が各自にメールすると同時にネット上に情報を残せれば、二重のチェックが保護者でも可能である。教員にとっても保護者間のやり取りが見えればクラス運営やPTAでの会合を短時間で終わらせることも期待できる。

 こんなことは全部学校がやってくればいいと考える人も出てくるだろう。余計な手間を保護者にとらせてほしくないと思うかもしれない。しかし、保護者が自分たちでできるのは僅かであると主張するのであれば、学校側もすべてカバーすることはできないと答える状況に追い込まれる。結果として何もしないままに終わってしまうのだ。

保護者と学校の両者が、責任と負担を共有することでネットワークを便利な道具として利用することが可能になる。どちらか一方がではなく、互いの働きかけがでてくることを切に願う。

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