教育徒然

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思考を振り返る。

 私はどちらかというと頭の回転が鈍く、知識もそれほど有していないので、物事を整理してゆっくり考えないと思考がまとまらない。ブログの記事についても同じで衝動的に書いても、果たして意図が正確に伝わるかどうかが不安で結局投稿しなかったりする。またやたらと時間をかけて記事を作成することも多い。そんなに時間をかけたにも関わらず間違いや文脈がおかしかったりすることもあるので情けないばかりである。

 最近はツイッターで発言する人も増えたが、私は基本的にツイッターはそれぞれの人物の発言内容を知るために使い、自分からの発信はほとんどない。責任のとれる発言内容を短時間で思いつくことができないうえ、あまりに短い言葉だと相手の真意が読めないので非常にやりづらいからである。

 しかしツイッター上では様々な意見交換がなされ、有意義な論議になっていることもある。その一方で、ツイッターの発言では非常に不毛な言い争いになっている場合もよく見かける。一例をあげてみたい。

 ある人が発言した内容について、別の誰かが疑問を呈し発言の真意を尋ねる。そこで建設的なやり取りならば、発言者が改めて言いたかったことをまとめ、質問者はさらに細かい点で質問し、発言内容のディテールを固めていく。そこで発言者の意図をはっきりさせ、質問者の意見との相違点を見つけ出す。そのうえで互いの意見を明確にし、発言内容の是非を判断することになる。

 このとき重要なのはそれぞれの意見を互いに尊重しなければならないという点にある。そして自らの意見が変わったり、誤解を与える表現をした場合には速やかに意見を訂正・修正し、変更点を明確に示す。またどうしても相容れない場合でも、別視点からの意見があることを明示し、一つの解釈ではないことを付記する必要がある。

 これが、不毛な争いだと発言者にしても疑問の提示者にしても発言を唯一無二の一方通行にしてしまう。ゆえに両者の意見の争点がずれ、果たして何が目的だったのかすらも霞んでしまうことになる。しかもツイッター上では第三者も入ってくることが多くなる分、非常にずれやすい。

 こういったことがそこらじゅうであふれかえっている様を見るともう少しみんなゆっくり考えて、意見をまとめては発言すればいいのではないかと思う。自分がどういう思考をし、そこに思い至ったのかを振り返ってじっくり本腰を据えて発言する方が言いたいことが伝わると考えているのだが、これは間違っているだろうか。

 今はあらゆる意味でスピードが命といった状態になっているが、思考のスピードはそれぞれ変わる。頭の回転が速い人にとっては、頭の回転が鈍い人の考えるスピードはいらいらするのかもしれないが、話をしようと思い至ったのであれば、相手の方を向いて少しゆっくり時間をとってやってほしい。

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特定のソフトを使い続けるだけの授業はマズイのか。

 以前ある話題を投げかけられたことがあった。それは教科「情報」でマイクロソフトの「WORD」や「EXCEL」、「Power Point」を使った授業に特化するのは果たしていいのだろうかといったものである。その時どう返したかは忘れてしまったが、改めてこれについて自分の中で考えてみた。

 まずこの話題について、次の2点から考えてほしい。一つ目は「情報」に関する様々な知識をあまり扱わずに技術面の向上だけを重視した授業をおこなっていいのかという点。そしてもう一つは特定の会社によるソフトだけを取り扱って、他社の製品について触れなくていいのかという点。

 始めの技術面向上だけを重視した授業については、「情報」が始まった当初から問題点として取り上げられていた。どういった授業をしていいか試行錯誤する中で、他の教科で行われていたであろう実技を中心とした授業展開がもっとも取り扱いやすいものとして広がっていったものと思われる。

 また世界史の未履修問題が発覚した時に、進学校では「情報」の授業とは名ばかりで、実際には他の授業が行われていたのもご存知の方は多いだろう。この話自体、教科「情報」を授業として成り立たせる意味があったのかを疑問視している当時の状況を物語っている。今でこそ取り扱うべき内容が少しずつ見えてきたが、何を教えていいか戸惑いの中で実技中心に授業展開してしまったことは責められるべきものではない。

 とはいえ、現在までそれを継続していることについては問題がある。複雑化した情報化社会の状況をとらえ、「情報」を教える意味もまた多様化していることを考えると、実技一辺倒の授業では時代に対応しているとは言えないだろう。もちろん今は教材も充実し、内容についてもモデルとなるケースが出てきているので徐々に変化していると信じたい。

 さてもう一つの特定の会社によるソフトの問題だが、これは色々と思考を広げる必要がある。気になる点としては次の3つである。

 ① 特定会社を使うことで利益供与があるのではないか。

 ② 特定会社のソフトを使うことで他のソフトに対応できないのではないか。

 ③ 特定会社のソフトを使うことに捉われて、他の必要な知識を学べないのではないか。

 ①については正直わからない。マイクロソフトとそういった契約を結んでいるとの話を聞いたことはない。ただこれは突き詰めていったところであまり意味はないだろう。

 ②については些か考慮すべき事態ではある。確かにマイクロソフトの提供するソフトにだけ対応できても意味はない。しかし普及率の問題から言えば、最も使われる可能性のあるソフトを選択することに異論はないだろうと思われる。そもそも文書処理ソフトにしても多くの種類が出ているのは確かだが、基礎技術として学ぶということを重視するならば、どのソフトであっても構わないというのが本音である。加えてOS自体がWindowsによる占有率が高いことを考えると、それにセットでついてくるソフトを使ってしまうのは仕方ないのではないだろうか。

 また教科「商業」の面からもいえることがある。学習指導要領では「商業」に関する学科においては教科「情報」に関する単位を「商業」の該当科目で代替取得することができる。これは「商業」でこれまで行ってきた学習に準じた教育を行うことも考慮される。

 それ踏まえて考える。すると「全国商業高等学校協会」で行っている高校生向けの検定があるのだが、そちらもwordやexcelに対応したものがある。実際に情報処理検定などでは表計算ソフトを使った実技試験などがあるが、ほぼexcelでのことを想定しているので、それ以外が使えない現状に拍車をかけている。ちなみに同じようにワープロ検定があるが、こちらはwordだけではなく一太郎での受験も想定している。

 そうなると、特定のソフトにこだわっているというよりは、始めから想定されているソフトで学んだ方が効率が良いと言えるのだ。ゆえに教科「情報」でも対応がしやすいといえるかもしれない。もともと全てのソフトに対応することが難しいゆえ、汎用性を重視したことに傾いていることは否めない。しかし、一定の技術力をもてば、汎用性が高い分、他のソフトに各自で対応することも決して難しくはないと考えている。

 ③についてはむしろソフトに特定会社のソフトに捉われるというよりは、文書処理、表計算、プレゼンテーションという部分にだけ注目し過ぎではないかという視点と考えてもらった方がいいだろう。確かにパソコンの実習と言ってもこれ以外のソフトを使うことは少ない。というより、他のどういったソフトを使えばいいのかの指針がないというのが現状である。

 果たしてこれらのソフトを使うことが情報技術の基盤を築く上で必要なのかと言われれば、考えざるを得ない。それこそもっと以前挙げたプログラミングなどを重視して問題解決行動の向上に努めた方がいいのかもしれない。しかし、この問題は学習の過程を踏まえて突き詰めていく必要がある。

 これまでの社会環境からいって、生徒全員がコンピュータを扱える技術を身に付けていたわけではなかった。はじめて中学生でコンピュータに触れるものも多く、高校生になって本格的に取り組むようになったのがここ10年程である。そういった状況では、まずコンピュータでデータを打ち込むためのキーボードの扱いに慣れさせなければならなかった。そういった点で文書処理などは基本としてうってつけだったと言える。また数学的処置としての表計算、さらには発表としてのプレゼンテーションは基礎事項として受け入れられていたのではないだろうか。

 しかし、ここ数年でコンピュータ環境は大きく変わった。多くの家庭にコンピュータが入り、子どもも使える環境がそろい始めている。さらには学習内容もコンピュータを取り入れるものがでてきた。これらの現状は、改めて高校でキーボードの入力方法などを教える必要がないものへと変えてきている。そう考えると、今後の「情報」の内容はより高度なものへとシフトしていかなければならないだろう。それがプログラミングだったりするのかもしれない。

 ところが現状はいささか異なる方向へと動いているような風潮がある。それは子ども達のコンピュータやキーボードの使い方が数年前と比べても上達しているという確証がないことにある。先日あるネットの生放送で指摘されていたことなのだが、現代の子どもたちはわざわざコンピュータを使わずに携帯電話を使ってネットに接続しており、キーボードを使う機会が10年程前と比べて減っているというのである。

 確かに昨年度の携帯電話でのカンニング騒動があったが、今の子どもたちは携帯電話やスマートフォンの扱いに慣れ、コンピュータを必ずしも使う必要がない。しかしいくら携帯電話が使えても意味はなく、スマートフォンにしても社会に必要とされるスキルが育つかどうかの保証はない。

 そのように考えると高等学校の「情報」は新たに始まる小中の「情報教育」の現状を見据えつつ、社会の要請にこたえるような内容を模索しなければならないとう結論に至るのではないだろうか。何にせよまだまだ教科「情報」については不安定で検討課題が多いということだけははっきりと言える。


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知らずゆえの恐れは使いたくないけれど・・

 人とコンピュータの関係を取り持つようになって、長いとは言えずとも決して短くはない時間が過ぎた。その中で改めて大人とコンピュータの関係を縮めるのが難しいと思う。よく分からないから敬遠してしまうのも無理はないが、出来うるならばもう少し歩み寄っていってもいいのではないだろうか。

 コンピュータを扱う授業であれば、強制的に生徒はコンピュータに触れることになる。このとき苦手意識がある生徒は難色を示しながらも、そこに向き合わざるを得ない。授業なのだから当然であると思われるだろうが、その分個人差はあっても知識を得ている。もっとも知識だけではどうしようもないが、現時点で「多少はわかる」という下地を培っておけば将来的に自ら調べる癖をつけることにつなげられると考えている。また、まったくもって無関心でいるという事態に陥ることを防げるのではないかと期待している。

 どこまで効果があるかはわからないが、私としては長期的な展望を踏まえた授業を行っているつもりはある。コンピュータウイルスの疑似体験なり、実際に送られているチェーンメールやスパムメールの検証、セキュリティ対策ビデオを鑑賞してのダメ出しなど、それなりに趣向を凝らしている。まだ大人としての責任を負わずに済む今だからこそ、「情報」に対しての姿勢を見直させ、コンピュータとの適切な関係を保ってほしいのだ。

 しかし、大人はそうはいかない。過去に情報と適切な距離を保つ授業という強制枠がなかった以上、現在自ら学び取らなければならない。とりわけ現在のネットを含めたコンピュータ事情は日進月歩で変化しているため、基礎を抑えると同時に多少なりとも流行を追う必要さえある。にもかかわらず苦手意識やいざというときは周囲の人物に頼ればいいとの判断で自ら対処することを忌避してしまう傾向が見受けられる。

 確かにあまりに専門的なことは専門家に任せるしかないのだが、もう少し自分で調べたり何とかできないかという試行錯誤は行ってほしいと思う。特にセキュリティ対策や情報管理という面では個人の意識で大分変わってくるものである。にも拘らずこれがどうしても身につかない大人が多い。バックアップデータの保持やセキュリティソフトの導入などを何度呼びかけても行う気配がないのだ。そしてトラブルが起こった時にどうにかならないかという相談を何度受けたことか。ネットについてはさらに疎くなり実感のなさが浮き彫りになる。関わらないからトラブルの深刻さも伝わらない状況に幾度となくやきもきしたものである。

 実際に研修も持ちかけているのだが、これまたなかなか身につかない。本来ならば適切な対処をすれば何も問題はないということを訴えていきたい。しかし、それを拡大解釈されて、トラブルが起こっても何とかなるだろうという妙な安心感をもたれてしまうのだ。なので実際あまり使いたくはないのだが、対処しなければ深刻なトラブルが起こってしまうという過剰なクローズアップをするしかなくなる。

 例を挙げるならば、普段使っているフラッシュメモリを用意させてそれを今フォーマットすることは可能かを問いかける。そして復元にいくらかかるかの具体的な金額を提示する。そこでバックアップの重要さを知ってもらう。また暴露ウイルスに感染していることを知るのはほとんど外部からの通報であり、感染を知った時にはすでに情報が流出して手遅れであるとの認識を植え付けるなどである。

 もっともこの手の事は研修を行う側の人たちは誰もが体感していることだと思う。大人にこそ実技研修を多く行ってもらうことが必要であり、未知の技術に触れながら覚えていってもらわなければならない。私自身研修を行うならば、手持ちのフラッシュメモリを用意させて、その場でDVDやCDにデータを焼かせてバックアップを作ってもらったり、フリーの復元ソフトをダウンロードしてもらったりしている。また持ってきてもらったフラッシュにマルウェアが入っている可能性があることを示唆し、実際にウイルスチェックを行うなども効果的である。

 ちなみにこれがネットの事情となるとさらに大人は疎くなり、実感のない対処法だけを覚えるようになる。ここでは子どもと関わる人間ほど、その問題の意識の差が変わる。以前も取り上げたが、子どもが親にネットの事を相談しなくなる理由に親がよくわかっていないからという理由がある。

 未だに子どもたちのもとに悪質なチェーンメールが届いているが、それを親に相談しているにも関わらず、改めて私のところに聞きに来る生徒たちがいる。その理由とは、親がいくら「大丈夫」といっても詳しくないから信用できないというものだ。大人は対処法だけ知っていれば安心できても、子どもたちは理由や今陥っている状況を教えなければ納得できないのだ。

 それをもう少し大人は斟酌してやってほしい。子どもたちを怖がらせずにいるためにも、もう少しコンピュータやネットに歩み寄って、そこから子どもたちの心理をつかみ取ってもらいたい。大人はコンピュータやネットの内情について何も知らないと子どもに思われている。知らずとも構わないと開き直るのではなく、知ろうとする努力を子どもたちに示すことが今の大人に課されていると考えてほしい。



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教育現場へのIT人材登用は有用。むしろ雇用態勢の改善が必須。

 ICT支援員や情報教育支援士といった人たちが教育現場に参加し始めている。これはとても有難いことである。もっともほとんど小中学校への派遣がほとんどで、高等学校は「情報」の教員がいるから大丈夫だろうという判断からなのかわずかばかりの例しか耳にしたことはない。

 さて、このICT支援員や情報教育支援士はどこまで有用なのだろうか。例えばもし自分の授業でICT支援員が来てくれるのならば何をしてもらうかを考えてみる。これはもう授業に一緒に参加してくれるだけで非常に助かる。何せ「情報」の授業をしていて、一番大変なのは各生徒から操作について質問され、それに個別対応していくことである。このとき複数の生徒が同時に操作を尋ねるので、基本各自の画面を見ながら対応していくとどうしても手が足りないのである。

 このとき重要なのは、質問に対して必ず答えを出すことではなく、生徒一人一人に対して必ず対応していくという点にある。正直パソコンの操作では意図する結果がでない理由を瞬時に把握できない場合などザラに起こる。単なる不具合だったり、百文字の中のたった一文字のミスだったりといったことはしょっちゅうで、これを見つけ出すことはなかなか難しい。それを生徒と一緒に考えることは、生徒と教員の心理的な距離を近づけると同時に、授業の中で分からないことを積極的に質問させる雰囲気を作り出すことに一躍買っている。

 こういった応対をするときに支援員がいてくれれば、生徒の「わからない迷路」に付き添わせることができるのだ。例え支援員が専門的なことが分からなかったとしても、生徒にとっては心強い「わからない同士」の仲間が出来て、わからないことを訴えさせる習慣を付けさせることにつながる。

 ちなみに私の勤める学校はほぼ底辺校といっていいレベルである。なかなか個性的な生徒がいることもあり、誰が先に教員を呼んだかなどの順番もはっきりさせる。そして必ず先に呼んだ生徒を特定し、待たせている生徒には先に呼んだ生徒に指導が終わったら必ず見るから少し待ってほしいということをしっかり口に出して伝える。そういったことを疎かにしなければ、難しい内容でも分からないなりに生徒はしっかりとついてくる。

 もちろんあまりにも分からない人数が多ければ全体指導を行っているが、全体指導の際の個別指導もまた教員にとっては心強い。こういっては何だが専門的知識がそれほどなくとも、生徒と一緒の行動をしてくれるだけでも大分授業の雰囲気は変わってくる。

 このような点からすればICT支援員は授業時に大きな役割を持ち、立ち位置が確立できている。しかし授業以外での役割が曖昧な点が雇用の不安定さにつながっている。こういってはなんだが、授業以外のICTスキルが高く、ネットワークの管理やHPの更新なども行える人材がいたとしても、週あたり2,3日で色々な学校をまわるなどの雇用形態になっていることが多い。そうすると、正直いつ発生するかもわからないトラブルに即応できない。加えて、そのトラブルをたった一人の支援員で時間をかけずに解決できるほどの人材であれば、わざわざ雇用が不安定な支援員など志望しないだろう。

 というよりICT支援員にネットワークの管理まで任せようとするのがそもそも間違いなのだ。あくまで生徒と関わる補助とすることが重要である。支援員に期待される役割として各教員とICTに対応した教材を作るといった内容が挙げられているが、実際には相当な打ち合わせと授業の組み立てが必要になる。

 教材と言っても単にパワーポイントでさっとまとめる程度だろうという認識しかない人では、わざわざ支援員を介する必要がなく、練り込んだ授業を行う人がアドバイザーとして支援員を頼りにするのだ。例を挙げてみよう。

 素案 

 教科書内の図を取り込み、授業時にプロジェクターで投影し、さらにその図に対していろいろ書き込みができるようにする。

 作業内容

 ① スキャナーで図の取り込み。

 ② 図の加工。

 ③ 図に対して書き込みができるソフトの模索。

 ④ 投影用のプロジェクター設置。

 ⑤ 授業中の細かい対応。 

 とまあ、このように簡略化した流れの中で見ていく。まず①のスキャナでの画像取り込みぐらいは一定のスキルがあれば教員にもできるので、教員がやった方がいいと思うかもしれない。しかしそれこそわざわざ取り込みだけをするのであれば、加工まで支援員が一気にやってしまった方が効率が良い。実際図を透過処理する作業などはそれなりにソフトスキルがなければできず、加工の段階で色々と工夫することができるだろう。現在のところ校務分掌を割り当てられない支援員ならば、それらの作業を校内にいる時間で仕事あてた方が教員にとっても無用な時間をとられずに済む。
 
 また③は注視されることは少ないが、効率よいソフトの選定は打ち合わせの中で色々と思考錯誤が必要である。まだまだ教育用支援ソフトが心許ない現状では、フリーソフトなどに頼るしかなく、いざというときに多くの問題が起こることが考えられる。それの検証などは共同で行うことが望ましい。④のプロジェクターの設置などもあらかじめ起こり得る可能性を支援員が蓄積した経験から対応できれば、不測の事態に慌てずに済む。⑤はいわずもがなである。

 これだけでも結構な作業量になる。なにせ私自身が他の教員に請われてやったことであり、これをやるためにどれほど時間がとられたことかは身をもって知っている。どんなに見繕っても2~3時間は余裕でとられる。普段の細かいサポートなども含めれば、それだけで支援員の作業をこなしているといってもいいだろう。

 ちなみにICT支援員の必要性で述べられていることは確かなのだが、どれだけのスキルが必要かは枠組みとして見る分と、実質必要スキルという点で大分かわる。授業にたまに出る程度の非常勤要員としてならば、本当に一般の大学生ボランティア程度で済むだろう。だが、もしネットワーク管理まで任せるというならば常勤まで考え、ITパスポートぐらいは持っている方がいい。

 また成績処理などをICT支援員で補助作業員として使うなどもあるが、やはりそうなると現在の雇用制度ではどう考えても不足である。これに校務のIT化までやらせようなどというのであれば、それこそシステムエンジニアの領域になるので、支援員や教員の片手間にやらせるものではない。

 校内のコンピュータ関係を担当する教員は、機材の管理やメンテナンス、ウイルス対策などを色々なところから押し付けられるのが常態化している。しかも専門的な内容になればなるほど、周囲がついてこれず丸投げされて、大して感謝もされない。それなら外部に任せればいいと思うかもしれないが、外部に任せればいいかどうかを判断するのもまた担当者なのだ。その判断を下すまでの試行錯誤がまったく考慮されないのも担当者の虚しさを増幅させている。多くの担当者がそういった状況に置かれていることを理解してほしい。

 ITの人材登用がかなり有用であるにも関わらず、いつまでも投入されない状況は一部の教員を追い詰めている。支援員の雇用態勢を何とかするか、校内のシステムやコンピュータの管理を行う教員については特別給与を支給するなどの具体策は必要である。

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はてさて

 ちょこちょことネットを見ていたら「デザイン型人材」育成のための情報教育とプログラミング教育というのを見つけた。なるほどと思いながらツイッターのまとめなども読んでみたが、どこか自分の中で上滑りしていく感覚があった。果たしてこれは何なのかが説明しにくいのだが、そのあたりを少し考えてみる。

 まず「デザイン型人材」育成という点に一つ違和感がある。デザイン型人材についてはリンク先から引っ張ってくると、以下のものである。



これから必要とされる人材は、『デザイン型人材』である。
デザイン型人材が、ギーク(エンジニア)とスーツ(ビジネスコンサルタント)を率いてイノベーションを起こす。

 要するに、求められる人材とは、ギークとスーツが活躍できる「場」を提供するような人材ということです。
アイデアマンであることは当然のこと、ギークにも、スーツにも、みずからが進もうとしている道、みんなでつくっていくべき場所、ヴィジョンを伝えられる人間。そういう人こそ望まれる。



 求められる人材像とするのはよいのだが、結局のところこういう人材が欲しいという要望から生まれているので、ひどく限定された人間をあげているように思えるのだ。デザイン型「能力」を育てるというならまだしも、人材という言葉で教育内容をくくられてしまうのはどうにも抵抗感が拭えない。単なる言葉のあやと捉えられてしまうのかもしれないが。

 ちなみにデザイン型人材を否定するつもりはなく、必要な能力なのは確か。とはいえ、学校教育への導入というところまでくるのならば話は別。

 デザイン型人材の育成という点が初等教育段階での情報教育に重要視されるべきなのかが疑問である。TENTOのブログの中ではデザイン型人材育成は頭がかたいとだめで頭がやわらかいうちの子どもの頃からやってみるのがいいだろうとあるのだが、それが果たして初等教育段階である必要性はあるのだろうか。学校教育ではなく、TENTOだからできるということであれば、学校教育との連携を考えて行く必要がある。

 発表の中で小学生がHTMLでコーディングしていたらしいのだが、これはそこまで驚くほどのものでもないと思う。自分自身高校生相手にHTMLを教えているが、興味を持つ生徒にとっては独自で遊びながら覚えてきた内容に過ぎない。むしろこのTENTOの試みの中で最も気になるのは子どものプレゼン能力を高いレベルに仕上げてきたという事である。場数を踏んだことによるものか、その環境や子どもの持つ可能性なのかは斟酌するしかないが、そのノウハウは今後参考になりうる。


 次に「プログラミング教育」について。プログラミングによって「ものづくり」の楽しさを知ると同時に、考える力をつけさせるということだが、これについては同意できる部分がある。とはいえ、どのレベルのプログラミングを念頭に入れるかによって大分話が変わってくる。

 なんだか他にもいろいろ言いたいこともあったけれど、眠いのでこの辺で終了。



 

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受け身教育から脱するか、それとも習得レベルを確定するか

 情報に限ったことではないが、自ら学ぶという意欲がなければ学習の効果は上がらない。そこで学ぶ意欲を引き出すためにあれやこれやと策を弄して、楽しげな素材を引っ張り出すわけである。本人がそれを楽しいと感じ、さらに別のところに手を伸ばし始めれば学習にも身が入るようになる。「情報」はパソコンやネットという媒体に依存することで、そのハードルを低くする。だが、学習の強制と考えられてしまう状況そのものが学習効果を妨げてしまう。

 現在の20代後半以降の世代にとって、パソコンやネットについて学ぶということは、各自で知る必要があったからである。その動機がそれぞれの楽しみの為か、もしくはそうしなければならない事情があったかは別として、最低限学ばなければならないと感じ、自ら学習に臨まなければならなかった。その結果は現在の周囲の状況を見てもらえばいい。得意な人はとことん得意で、苦手な人はまったくもって使えない。

 さらに、ネットが発達したことで事態はさらに加速する。パソコンが使えない人は、社会変化に追随するネット状況にも追いつけなくなった。使える人にとってもネットを対象と思わなければわざわざ向き合う必要もなくなった。しかし、向き合う人たちからネットを見れば、これほど影響を与えるものはない。何せネットの中に社会が出来上がっているのだから。

 現実にある地域社会の問題と同じようなことが起こっている。誹謗中傷は街の壁一面に描かれた落書きにあたり、不正アクセスは窃盗や強盗、フィッシング詐欺はキャッチセールスのようなもので、悪質なスパムは毎日郵便受けに入ってくる不幸の手紙のようなものだと思ってもらえればいい。しかも肝心要の家たるパソコンやスマートフォンには鍵となるセキュリティソフトもしれず、ドアを開けたままどうぞ入ってくださいとばかりに開け放たれている。

 その一方で子どもたちは携帯電話やパソコンに対して苦手意識なく向き合い始めた結果、通常の社会なら守られるべき脅威に無防備なままさらされている。また子どもたち自身が脅威となる行為であることを知りつつ、社会に向きあっている。これに歯止めをかけようと教育に色々と制御をとらせようとしているのが現状である。

 そしてここまで読んだのならば、よく考えてほしい。一体誰が脅威を感じ、誰が教育してほしいと考えているのかを。当然ながら、その脅威を知る者たち、またはネット社会の当事者たちはなんとか教育してほしいと感じるだろう。その思惑は一部異なりながらも、将来的に脅威となることを防ぐための教育である。

 そこには、「脅威」を前提にした下地がある。ゆえに学んでほしいことがあるのだが、学習の対象者に「脅威」を知ってもらうには、そこに至るまでの過程を辿らせなければならない。この過程が現在の情報教育で行われていることの大部分だ。もしくは現在の当事者たちが辿らなかった過程や関係のない横道を通っている。

 脅威を知るものが最短で通った道を通らせるのではなく、系統だてて周囲からじっくりと学習させているので、学習者にとってみれば、何に必要な知識かどうかわからず総当たりで覚えているようなものだろう。それほどに範囲は広い。一部の話にもあるように「情報」の教科書は、知っている者がみるほど色々抑えられているなと思う。だが、それは所詮受け身の学習者にとってみれば、ただ覚えるだけのものにすぎない。これでは学習意欲をさげるのも至極当たり前と感じる。

 各自の意欲に期待してもいいのだが、学習効果を高めるためには何らかの方策があった方がいい。だからこそ習得レベルの明確な基準を作ってしまうことを提案したい。資格というよりは免許の性質に近いだろう。ネット社会の当事者からは良く出る与太話ではあるが、確かに免許のようなものがあれば、それを餌に釣りやすくなる。学習効果も総じて高まるだろう。それがなければできないというよりは、取れて当たり前の証明書もしくは取れなくば初心者マークをずっとつけられるような性質をもたせればいい。 免許が取れる最低限のレベルをクリアしているとなれば、それ以降の学習においても基準がはっきりし、授業としてもやりやすくなる。有効に使える手段はいくらでも出てくるので、それを実行に移すだけの基準などは考えていきたい。

 多くの脅威があるにも拘らず、現実を見れば鍵をかけることも知らず、ドアを開け放ったままの無防備な家がそこにあるのだ。多少は荒治療となることも考えてのぞむ必要が出てきてもおかしくはない。

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電子黒板や電子教材とまではいかなくとも

 正直まだまだ電子黒板が入ってくるとは言えない状況の中で、使いたい機能がある。それはタブレット端末とパソコンを同期させて、タブレットを操作することでパソコンを自在に扱えるようにしたい。なんといっても板書する時に腕をあげて書き続けるのはなかなかつらい。書く量もそれなりにあるのでそちらに手を取られていると生徒自身も書くことだけに時間をとられてしまう。

 このタブレットによるパソコン操作ができるだけで大分様変わりするだろうと思える。何せすでにほとんどの高等学校ではプロジェクターが導入されているので、手元で色々書けばそれを大きく表示できる。また机間巡視を行いながらも、直接黒板をいじることが出来るので、生徒にとっては手元と黒板の違いを指摘されながら確認できるのだ。

 そういった機能は一部ですでに行われているようなので、実際にそれができると指導も楽になるのだと個人的に思う。フリーソフトで「白板ソフト」というものがあったりするので、それを応用するだけでも大分色々なことが出来る。機材と教材をセットで考えるのではなく、それぞれの活動にあった使い方を模索させることも必要だろうと思う。

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アメーバピグ規制をどう捉えるか。続

 さて、先日の記事で、アメーバピグの規制は「子ども」だからこそ引き起こされるトラブルを回避したいという企業の思惑を反映したものであると位置づけた。では、この流れに乗じて教育現場はどのような変化が起きるのか、または何も変わらないのかを考える。

 正直ほとんどの教育現場においては何も変わらないと考えているのではないだろうか。むしろ変化を起こすべきと考えている私の方がかなりの少数派かもしれない。何せ教育せずとも勝手に企業が規制してくれるのであれば、管理するものとしては好都合であり、余計な手間をとられない。しかも25年度からは小中学校においても情報モラルを重要視した情報教育が行われるとあって改めて対処する必要はないと考えるのが常識なのかもしれない。

 しかし、これについてはもっと慎重に考える必要がある。確かにサービス提供者による規制は楽だが、いったい何を規制するのかについて管理者は把握する必要がある。例えば今回の年齢制限であるが、すでに15歳以下の子どもたちが「アカウントを16歳以上で取り直せばいいだけ」とコメントしているのも見受けられる。これがどこまで露見せずにいられるのかはわからないが、規制の裏をかいて行動することなどざらにあるだろう。

 そして問題は規制の裏をかくという事は、それだけ大人たちに対して子どもがネット内で秘密を抱えることにつながるのである。今はただでさえ、ネット内の行動を保護者に相談しづらいとの声が聞こえてくる。そして規制の裏をかくという事がそれに拍車をかけてトラブルに巻き込まれてしまうのではないだろうか。

 情報を教える側としては、その規制内容を裏側まで的確にとらえ、どういった影響が出るのかを検証する必要がある。そしてトラブルに巻き込まれる子どもたちに対してネット以外でサポート態勢が整っていることを広く伝えなければならないのだ。

 そして規制に対する大人たちの考えも子どもに教えなければならない。ネットのルールは社会のルールに則ったものであることは大人にしてみれば当たり前のことだが、子どもたちにしてみれば社会のルールと言っても自分たちの身近なルールでしか考えることはできない。まったくもって「子ども」であるということが通じない、もしくは「子ども」であることが圧倒的に不利である可能性が高いということを伝えなければならない。

 ネット上の「子ども」たちに対する大人の見方はある意味辛辣であることが多い。もちろん温かく見守っている場合もあるのだが、それ以上に否定的な意見が出てくる理由を考え、それが何故かを伝えられないと無用なトラブルを引き起こすことになりかねない。

 規制されたことをきっかけに子どもたちに情報教育を行う意味が増している。トラブルから守るだけではなく、徹底的にトラブルを引き起こさせない対応が教育には求められている。

 

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アメーバピグ規制をどう捉えるか。

 一部で盛り上がっていたアメーバピグの規制問題だが、今後の情報教育を考える材料とするにも面白そうなので取り上げてみたい。


 アメーバピグで規制される内容とはコミュニケーション機能の制限であるが、GREEもまた課金を月5000円までと制限をかけるといった15歳以下への対応を打ち出している。子どもたちがトラブルに巻き込まれるのを防ぐと同時に、子どもがトラブルを引き起こすのを減らそうとしているのだろうという推測もできる。また以下の動画も見てもらいたい。



 実際にこの動画や運営のブログに対して書かれているコメントなどを見てみると、子どもが絡むトラブルが出てくると容易に想像できる。企業の思惑を勝手に考えしてしまうが、15歳未満の子どもたちが自社のサービスを利用することにリスクを覚えたのではないだろうか。サービスの対象者を子どもとする場合に以下の点に注目しなければならない。

 ① サービスの利用主体は子どもであっても、課金するのは保護者。

 当然のことだが、子どもが利用しているといっても、課金する際にはほとんどの場合が、保護者の承諾を得る必要がある。ゆえに子どもに請われても、保護者がネットサービスに対して不信感があれば積極的に課金するとは思えない。課金するのはそのサービスをよく知っていてしっかりと管理しているか、そのサービスについて何も知らないか、勝手に使われているかのどれかである。

 現在サービスそのものの知名度も上がり、その内実が保護者にも漏れ伝わってくるようになった。特に保護者の知らないところで、子どもが勝手に莫大な課金サービスを使用していたなどのニュースも報道されている。これらはネットサービスをよく知らない保護者の不信感を煽り、課金を鈍らせる原因ともなる。企業からすれば保護者のの信頼を回復させ、悪評が広まらないようにしなければならないと考えるのは道理である。だからこそ、大々的な規制アピールに打って出たのではないだろうか。現時点での市場の広がりを考えれば損失は僅かとの見方もあるだろう。いずれにせよ今後の儲けの為の布石が今回の措置の理由の一つであろう。



 ② 子どもが利用するならトラブルに巻き込むのも巻き込まれるのも子ども

 次に子どもたちがいることによってサービス提供に問題が発生するという事態についてである。確かに子どもを守るための措置であることは疑いようがない。出会い系などとの関連が指摘されている以上、それに対して対策を講じるのは至極当たり前である。しかし、それ以上に子どもがトラブルを巻き起こしていることも大きな課題になっているのではないだろうか。

 アメーバピグに限らずコミュニティサイトである以上、以前からユーザー同士の誹謗中傷などは話題に上がっていた。子どもであることを相俟って、語彙が少ないため直接的で看過できないほど乱暴な言葉でやり取りされている。前掲した動画やコメントなどでもそれは確認できる。加えてIDやパスワードの不正取得による不正アクセス被害やなりすましなども子どもたちの手によるものだと多数確認されるのは企業にしてみればよろしくない事態である。

 子どもが犯罪を起こしているというのは、大人の課金ユーザーからしてみれば非常に面倒臭くわざわざそこに留まり続ける意味のないものである。実際最近のネット界隈では幼稚な行動に嫌気がさして、そういったユーザーを排除したいとう思惑が感じられる。これこそ企業にすれば最悪の事態である。自由に課金できない子どもを擁護して、きっちり金を落としてくれるユーザーを排除してしまうなどあり得ない。

 だからこそ子ども排除の方向に動いているのではないだろうか。実際ユーザーの多くに規制に同調している意見が多いのもこういった推論を裏付けているような気がする。課金できない対象を外して余計なリスクを除く方がてっとり早く効率的である。特に市場が大きくなるほど、ブランドも上がるので、子どもをサービス対象にする必要がなくなる。
 

 この規制の流れは他のネットサービスにも影響を与えるだろう。既に私は授業で生徒たちにこの規制の問題について話し、もしかすると18歳未満のSNS規制につながるかもしれないといってみた。どのように考えるかは自分たちだとも付け加えたので、果たしてどう受け取るのか今後の生徒たちの動向も見つめてみたいと思う。

 そしてこの事態に対し、情報教育はどう考えるかを次の機会に回したいと思う。

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情報教育再考。

 今年度の授業もいよいよ終わりに近づいてきた。情報の授業もクラスによってはもう終了したところもあり、来年度の新入生に向けて行う授業準備を始めることになる。例年通りと言えば例年通りなのだが、ここ最近色々と考察や意見交換などを行ってきたので、気持ち新たに始めるためにも少しばかり情報教育について考えてみたい。

 教科「情報」を教えるにあたっては、「情報活用能力」や「情報リテラシー」を鍛え高めるという意識で授業を行ってきた。それは揺らぐものでもないし、生徒の成長などから考えても一定の成果は上げられているのではないかと思う。しかし「情報」を教える意味については些かも悩まなかったわけではない。

 もともと教科「情報」だけではなく教科「商業」における「情報処理」なども教えていることもあり、一部のソフトスキルであっても他に通ずる可能性があるという点から見れば、反復練習などにも意味があると考えている。特に「商業での「情報処理」となると、高校生向けの資格もあることで努力目標としてもわかりやすく、高等学校在籍による実績として少しでも貢献できるものがある。

 もちろん中高生向けの検定といえば他にもP検定などがあるのだが、必須科目として取り扱われ一般的な知識・技術習得という授業から見ればレベルとして相応しいか言われると首をかしげざるを得ない。特に近年のインターネットと組み合わせた「情報」とすれば、ますますもって範囲が広がりどこに焦点を絞ればいいのかが難しくなる。さらにインターネットそのものは非常に便利なものだが、先の東日本大震災の際のように通電が途切れた地域などでは、回線等のインフラの貧弱ぶりに使いたいときに使えない現実が明らかになり、特殊環境下だったからだとはいえ、果たして「情報」を教える意味があったのかと考えてしまった。

 実際、情報機器やインターネットを使わずとも生活はできる。しかもわざわざ「情報活用能力」を鍛える機会を作ってもらわなくとも、普段の生活で必要な知識と技能は習得できる。これまで情報教育など受けてこなかったのにもかかわらず、大部分の大人がそこそこ使えることがそれを証明している。

 「情報モラル」の問題にしても、今の時期だからこそ頻繁に問題に挙げられるだけで、時代にネットが馴染むようになればいずれ矮小化していく事象にすぎず、むしろ大げさに騒ぐことの方が問題なのだと考えられなくもない。こう考えると、果たして情報教育の意味はどこにあるのか。

 最初に挙げた「情報活用能力」を鍛え、高いレベルで維持させることを目標とするのはいい。しかし、その「情報活用能力」を体感するのは難しく、鍛えるためのモチベーションを下げかねない。ならば何を持って情報教育に取り組ませるのか。また情報教育の意味をどう考えさせるのか。

 
 この問いに対してどのように考えるかは教える側の主観が入ってくる。私が導き出した答えとしては「興味」「好奇心」「楽しさ」である。結局のところ学習者が楽しいかどうかで後につながるのではないだろうか。もともとインターネットでさえ便利であるから使うというのは、やってみた当初は楽しいかったからであり、継続しているのはその惰性というのが事実であろう。

 電子教科書を推進させるのも、教科の幅を持たせるといっているが、結局のところそちらにすれば楽しく学習でき、継続できるのではないかという思惑が一般に考えられているのではないだろうか。問題は「楽しい」は「飽きる」につながるという事だ。特に瞬間的な楽しさであるほど飽きは早くなり、これを早い段階で課題に対しての「理解」につなげ、「喜び」を甘受させる。これが他への「興味」を抱かせ、さらに「好奇心」を深めさせる。

 他の教科にも言えることではあるが、受験勉強とは離れた部分にいる教科であった方が、多くの生徒にこちらを優先させることが可能であり、教科「情報」はその立場に近いと言っていいだろう。実際に「楽しさ」からはじまって色々とのめり込んで熱心に授業に取り組む場合は多い。コンピューターという媒体に興味をもつ生徒は多いことからも、「楽しさ」を感じさせることは難しくないので、あとは取り組み次第である。

 そしてもう一つの情報教育の意味であるが、これについては「視野を広げる」ことと、その結果「制御」が必要になることを教えることにあると思う。もともとインターネットを使わずとも情報は様々入ってくる。しかしネットに頼らない場合、その情報量は年齢や身体の成長に応じたもので、身の丈を超えた過剰な情報は入ってくる余地があまりない。だがネットは違う。特に昨今では一般社会を模した一つの現実であり、それに接するには基本的技術さえ持ち得ていれば誰でも触れることが出来る。ゆえに子どもであろうと大人であろうと触れる情報そのものには差異はほとんどない。年齢制限等は増えてきているが、完璧な対策が出来ているわけではない以上、その差はわずかである。

 ゆえに身の丈に合わない情報に触れる機会が増えるのであれば、その情報によって成長することもままあり得る。成長そのものを望むかは別としても、興味あることに対して情報を得られる喜びは子どもたちにもあるだろう。そして得た情報が増えれば、さらなる別の事に興味が出る。だがその際に、増えすぎた情報もしくは扱いきれない情報をどうするのかの疑問が出てくるのもまた必然である。ここで教育する側がどうやって「制御」するのかを教えることで情報教育となる。

 すでにネットに触れはじめた学習者はそれぞれの楽しみ方で視野を広げ始めている。ここに情報モラルという制御がきいていないからトラブルが起こり始めているのである。さらに現在の子どもたちのネットの接し方について気になる点がある。それはネットによって視野を広げようとしたにも関わらず、狭量な一部のコミュニティに捉われそこから脱せずにいることである。

 先日のアメーバの15歳未満のコミュニケーション関係の機能制限について猛反発が起きたことに関係すると思うのだが、なぜそこまでアメーバにこだわるのか。それ以外のサイトなどほかにいくらでもあるにもかかわらず、異常なまでの拒否反応が起きてはいないだろうか。不正アクセスなどが起きるようであればそれぐらいの措置が行われても当然であり、疑問の余地はあまりない。むしろこれまでがそのままだったことが問題である。

 さらに子どもだからといってネット上で好き勝手していいというわけではないのは当然である。自らの行動を反省し、その責任を感じなければならないのだが、別のサイトで同じように傍若無人で振る舞う態度は看過できない。制御がきかないというよりは周囲を見渡せず、自分たちの世界に閉じこもってしまっているといった方がいい。この現状をどうにか食い止めるためにも正しい視野を持たせ、制御しなければならないのだ。

 今後の情報教育にはこういったことを考えながら取り組んでいこうと思う。かなり端折った部分もあるので、また別の機会にでも一部クローズアップして述べていきたい。


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視野を広げる情報教育

 ネットを使うことで色々と便利になった点はあるが、最近ネット内で発言する一般の人の傾向というのはどうも視野が狭くなっているのではないかという疑念がある。自分が何となく感じていることにすぎないので、確証はない。しかし、ネットにおける情報発信についても教育で扱うこと考えると、いくつかの注意点を持って臨みたいと考えている。

 まず個人による情報発信には少なからず主観が入ったものという前提で受け止めなければならない。ここで一つ目の注意点。主観が入った情報発信である以上、事実と照らし合わせる作業を必ず行う必要性がある。情報発信した本人に確認するなり、自分で事実を調べるなりしないと、単に情報を受け取るだけである。他者の主観を事実と誤認してしまったままでは、周囲をより困惑させる火種となりかねない。

 また二つ目の注意点として、情報発信を冷静に見守ることが必要とされる。個人で発信した情報の中は、主観が含まれている以上、その内容が論議されることもある。論議自体は結構なことなのだが、それに対する周囲の反応が理性的でなくなっている側面がある。言うなれば議場で争っている二人の論争に、周囲がどかどかと土足で入り込んで「こいつは正しい。お前は何が不満なんだ」と大声でどなり散らしているようなものである。その声で本題が聞こえなくなっては意味がない。喧伝効果はあっても、詳細が何も伝わらないのでは意味がない。

 加えて三つ目としては気安い同調・否定意見をだすくらいなら、意見を考察するとともに批判を受け止める精神を個人がそれぞれでもつことである。情報を発信したことに対して、同調や否定することは当然あっていいのだが、それに対してさらに考察を進めなければ、自己の意見とは言えない。また批判も聞かなければ、自分の成長はあり得ない。

 厄介なのは、他人に判断をゆだねたにも関わらず、いざその判断が間違っていたとなると、自分に責任はないとばかりに途端に手のひら返し、大多数の意見に流れ、痛烈な批判を繰り返す。自己の意見とばかりに他の意見を振り回すのは見苦しいものである。

 これからネットの意見を見ることが多くなるのであれば、個人の視野を広げ、まっとうな批判ができるような教育を促していく必要があるだろう。私の狭くなっている視野もまた広げつつ、今後の教育に取り組んでいきたいと思う。


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ネットの実情を知る機会はあるのか

 これまで子どもの教育によくないとされてきたテレビやゲーム、漫画などと同じように、ネットもまた教育上よくないと思われている側面がある。それ自体は繰り返されてきたことであり、あくまでネットがその俎上にあがったとうことでしかないのだから。しかし、そのネットの不安要素は様々な点で広がりを見せ、結局のところ何が危険なのかを察知できずにいることが問題である。

 だが、ネットの実情をどのように伝えるのか、方法はどんなものがあるのか、それを誰が伝えるかというところで足踏みしているのが現状である。それにしてもネット社会について書かれている本や危険性を意識してくださいという警告などはあちこちで出されているのに、それが実際広がっているかを意識できないのだろうか。

 それは、ネットの便利さの影に隠れてしまったり、それほど大きな問題が起こっていないという認識だったり、そもそもネットについてよく知らないという実態だったりするのかもしれない。というよりむしろよく知らない人たちはネットの広く深い実情を知る機会があるのだろうか。

 ネット社会について知るための手段として最も手っ取り早いのは自分がネットについて興味を持ち、次々と調べるようになっていくことである。ネットをよく使う人物にしてみれば、断片的に見えてくるものがあって、そこからないが危険なのかを一部察知して伝えることが出来る。とはいえ、それほど興味を持って伝えてくれる人はそうはいない。

 加えて、ネット社会について調べていくと陥ってしまうのが、ネット上の出来事がやたらと個人の中で大きくなってしまう傾向にあることも注意しなければならない。ネット上の出来事が一部のコミュニティ内で取り上げられたものでしかないのに、自分で調べた、所属していると贔屓目からよりオーバーに現実に伝えようとしてしまう。

 本当に危険であっても所詮ネットの出来事としか思われない部分もあり、実際の危険度よりも半分程度の危機意識でしか伝わらない場合も多々ある。この齟齬は非常に歯がゆい。ネットの危険なコンテンツは多数あるのと同時に良いコンテンツも多くあるが、それを理解してもらうための素地ができていないことが分かっていると、徒労感は増す。

 そういった点で生徒たちにいろいろ伝える分には楽な部分がある。彼らの好奇心をネットは様々な形で満たしてくれる。だが、そこに大人たちはなかなか加わってくれない。何でもかんでも調べて枝葉を次々伸ばしていくようでないとネットの実情を知る機会はないのかもしれない。

 そうなるとせめて知識として蓄えてほしいのだが、「よくわからない」からという理由で逃げ出してしまうことがある。この大人たちのネットへの消極的姿勢をどうにかすることが今後の課題なのであろう。

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情報教育で法律を学ぶ

 この時期になると授業内容に困る。おそらくほとんどの高等学校で年度末のまとめの授業に入ることになるのだが、1年間で終わる科目の場合、残りわずかな授業で何を教えるかが非常に悩むことが多い。もともとペーパーテストによる取得点数だけを評定にしているわけでもないが、そこに輪をかけて評定に絡むことのない授業となると、尚更である。先日もそんな状況にあり何をしようか考えていたのだが、ふと情報モラルの冊子を見て、情報に関わる法律がかなりのっていたので、それを授業内容にしてみた。

取り上げたのは

① 青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律

  「なぜ高校生の携帯電話にはフィルタリングがかけられているのか」「フィルタリングの形式」

② 不正アクセス行為の禁止等に関する法律

  韓国における小学生のハッキング事件

③ 個人情報の保護に関する法律

  どうやって個人情報を守るか。実用化され始めた生体認証の実例をもとに。プライバシポリシーの有無。

④ 特定商取引に関する法律

  ネットショッピングはクーリングオフできない。返品等に関する諸注意。

 といった感じで約50分。生徒への指示内容は、モニターにでてきたパワ―ポイントのスライドを板書。ただし、ノートではなく、パワーポイントで同じように入力。まあ、タイピングの練習としての側面を入れつつ。

 ちなみに時間が微妙に余る場合には、「道路交通法」や「プロバイダ責任制限法」「著作権法」なんかにもいろいろあるよというようなことを。「道路交通法」は自転車で携帯電話を使って捕まってしまった場合などについてを説明。まあ、こういった授業を先日行ってみる。

 一部に反応があることを考えてみると、取り扱ってよかったなという印象。テストに出すことなどみじんも考えないからこそやれた授業かもしれない。


 

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問題と提案 電子教材(コメント編)

 コメントありがとうございました。そして、補足として少し書かせて頂きたいと思います。

 教材の内容削ぎ落としについて意見が合ったのは非常にうれしいことです。そして「PDCA」の「CA」が抜けているのではないかという指摘についても確かにそういった部分があるなと納得できます。そのうえで「PD」だけになっているように見える要因を二つほどあげたいと思います。

 まず一つ目に電子教材を使いこなす対象が個人になりがちなのではないかということ。コメントの中で指摘されていた通り、教科書は複数の人物による編集もしくはいくつもの校正を経て出版されることで、内容そのものが平板化されるかわりに、大勢を対象としたものに仕上がります。

 しかし、現時点での電子教材は、大勢で作るというよりは、得意な人物が作った個性がそのまま出てくる素材となりがちです。そのため、作った当人にとって、もっとも使いやすいと同時にいくらでもアレンジをきかせられるので、そこから発展内容が表に出てこないのではなかろうかという推測がたちます。しかも、ただでさえ電子教材を使う人数は少ないので、その分結果にフィードバックしにくいという現実があるのではないでしょうか。

 また二つ目として教材の共有についてあげたいと思います。これは教員間の問題になる部分があって非常に恥ずべきことなのですが、同教科の教員同士であっても教材を共有して使うことが少ないという現実があります。私はオリジナルであってもいい教材は教員同士で共有して使う方がいいと思っているのですが、どうもそのあたりは受け入れられにくいようです。今のところ私は自分の教科担当が一人なので、そういったことはありませんが、根深く存在する問題です。

 私の中学時代の経験なのですが、ある社会科のA教員は自分で作ったオリジナルの教材を授業で使っていました。私は1年次にそのA教員から授業を受けていたのですが、クラス変更によって2年次には別のB教員から教えを受けることになりました。ただ1年次の教材がなかなか面白い作りだったので、2年になってもそれが欲しいと思って、A教員に頼みに行ったところ、断られました。どうしても欲しいなら、そのA教員が受け持っているクラスの生徒からコピーしてくれとのことでした。

 理由として言われたのは「B教員の授業受けてるのに、それはマズイ。B教員に悪いから」というもので、その当時は納得できませんでした。しかし、今になって教員同士のやり取りを見ていると、その傾向はどうも強いようです。要はオリジナルの教材は一つ目の理由に挙げたとおり癖が出やすく、誰にでも通ずるものではない。そのため、教材を共有しても、教員が違えば授業も違うため同じ結果は得られない、または意味がないと判断されてしまうのです。

 電子教材に限ったものではないですが、教科内でお互いの授業の違いが分かるからこそ、オリジナル教材が共有されません。他人の授業にあれこれ口を出さないという配慮みたいなものもあるのでしょうが。

 教科内のやり取りに起因するとはいえ、一蹴するには少しばかり重い案件です。その点、教科担当者が一人だったり、複数クラスの同一授業を一人で担当している場合は好き放題できてしまうということから、教材が生まれやすい環境にあると言えます。そういった状況があることから、私の場合はかなり好き勝手やってMAD等を絡めた著作権の授業展開を行っているわけです。
 
 最近「ONE PIECE」のアニメを使って人権教育をしているという授業も記事に掲載されましたが、あれもまた誰もができるわけではないと思います。同僚でも「君に届け」や「EVAGELION」の1シーンを国語の教材に使っていますが、きっちりフィードバックしていても他の教員もできる授業にはつながらないでしょう。というよりも一般化される教材は、ボトムアップからは難しい場合があると考えた方がいいかもしれません。

 だからと言って電子教材の一般化を断念するわけではありません。各教科に対応した電子教材を生み出すには、多方面からのアプローチが必要なので、意見の一つとして考慮していただけるのが肝要です。

 ちなみにデータベース化については、コメントにあるような退職者や地域の方が参画されることに大きな意味があると思います。今はネット上のクリエイティブな試みが大きな力となっています。教育に与える影響も大きいので、そこに業者としても絡んでいける取り組みを推進してくれる人がいるのは非常に有難いです。

 最後になりますが、コメントしていただき本当にありがとうございました。また校務のIT化等についても書いていきたいので暇つぶしにでも読んでいただければ幸いです。

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問題と提案 電子教材(提案編)

 では先日挙げた問題点に、現段階でアプローチできることについて提案したいと思う。

電子教材に関する問題点

 ① 機材導入への障害

 a 予算

 正直予算については国の経済状態がよくならなければならないので、末端からできることと言えば精々お願いするぐらいしかない。それ以外は新学科設立などによる学校改革を行うことが手っ取り早く予算を付けることが出来るだろう。とはいえ、これについてはほぼ手出しができることではないので、他の可能性を探ってみなければならない。

 現実味のある可能性と言えば、思いつくものとしては二通りある。まず一つはタブレット端末の価格が普及によりかなり下落してしまえば、導入のハードルとしては必然的に下がる。パソコンの価格自体も5~10年前と比べれば、大分値下がりしている実状があり、現在の半額以下になってくれば予算への影響は低くなる。しかし、結局価格は市場に左右されるものであることから考えると、どの時点で導入を決意するかの基準が難しくなり、企業からすれば相当無理をした価格に迫られるのではないかという懸念もある。

 そしてもう一つはリースに任せることである。現在のパソコン教室がリース契約でなされているようにタブレット端末についても同じようにしてしまうのが一番手っ取り早い。そうすれば、bの保管・管理についても一定のめどは立つ。嘘か本当かは分からないが、softbankの孫社長によれば2010年段階で、ipad端末を月額300円程度で貸与することができると話している。気になる方は以下からどうぞ。

田原総一朗×孫正義「コンピュータが人間の脳を超えたとき、社会はどう変わる?

 しかも国が契約して無償で2000万台と話しているのだが、果たしてこれが現実味があるのかは不透明である。個人的にはあまり孫社長の言葉が信用できない面もあるのだが、導入できるという根拠があるのならば、好悪感情は抜きにしても、まずは現実的な試算をお願いしたいものである。もっともsoftbank独占契約という状況はあり得ないことも考えると、他の企業についても、実際に試算してみることをお願いしたい。実際にipadを導入、無償貸与している博多学園ではどのような予算形態になっているかはわからないが、おそらくリース契約の事例の一つではないだろうか。

 結局購入にせよ、貸与にせよ、予算については、学校からしてみれば外部要因であるとの認識が強い。管理職や教育委員会がその気にならない限り、予算への組み込みは難しいだろう。

 b 保管・メンテナンス・設置

 もしリース契約となると、ほぼ決着がついてしまうというのが事実であろう。購入の場合には、慎重に対応するという一点に限る。正直導入が決まったということは、それだけ予算がついたとも言えるわけで、本当にきっちり使うかどうかは二の次になっているだろうと考えられる。そのため、細かい規定等については曖昧のまま、得意な人だけが使うという予測が立つ。長期的に使うビジョンを見据えていないともいえるが、結局そんなものではないだろうかと思う。


② 電子教材そのものに関する不満点

 a 電子教材としての出来が粗雑

 b 現時点での教材データベースはあるのか。

 c 電子教材作成の難易度が高い

 d 情報機器での理解の不確かさ

 e 電子教材に頼る姿勢

 こちらのついては、何より各教員の授業に出てもらって、何が必要なのか、どういった教材にできるのかを検討してもらうというのが重要だろう。はっきり言ってしまえば、教材はアイディア次第、素材同士の組み合わせでかわってくるものである。そういった点で、これまで使われてきた教科書や資料集は、情報量が限定されている骨組みだからこそ、何をやっても肉付きがよく幅を持たせられるものになっていた。しかし電子教材は、骨組みに必要以上の量を付けたすことが可能なため、ともすれば余計な情報ばかりついていってしまうことにもなる。

 つまりは電子教材をうまく活用するという事は、程よく削ぎ落とすことも必要だという点にある。だが、現時点では削ぎ落とすにも骨組みに近すぎて整理がなされていないのである。これを改善していくためには、電子教材を提供する側は、最初から教科書に沿って、骨組みがはっきりと見えるように情報を整理することが求められる。

 もしくは、完全に逸脱しておかしくないほどのまとまった情報を一気に出して、そこからいくらでも改変できるような構成にすることが望ましい。その過程でデータベースが作成されることができるだろうと思われる。

 ちなみに一つの教材で最低でも3分ほどは児童生徒の目線を集中させられるだけの魅力が欲しい。30秒程度の動画では集中させるにはあまりにも短いうえ、印象にもほとんど残らない。細切れの集中力は、注意力を散漫にさせるだけでしかない。

 しかし教材の数がどれだけ出てくるかは不安である。電子教材が注目を集めるといっても、所詮それは最初だけの事であり、情報機器にだけ興味が集まって、教材にまで踏み込んだ議論がなされるのは一部だけになるのではないかとの懸念はある。曲がりなりにも教科書はこれまで続いてきた実績がある。そこに長く踏み込めるだけの、周囲の協力が得られるかどうかが、今後の課題とも言えるだろう。

 機器の導入だけに熱心になる中途半端な姿勢は、教材の中身を空疎化する原因につながる。

 

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問題と提案 電子教材(問題編)

 まずは前回の記事へのコメントありがとうございます。非常に稚拙な部分が多いにもかかわらず、読んで頂き嬉しく思っています。今後も適当に書いていきますので暇つぶしにでもしていただければ幸いです。




 さて、折角なのでコメントにあったことについて考えてみたので今回はそちらについて書いてみることとする。現状の問題についての処方箋ということなのだが、まずは何が問題になるのかを挙げていきたい。 

 電子教材に関する問題点

① 機材導入への障害
   
 a 予算

 情報機器の導入となるとまず始めに頭をよぎるのが予算が下りるかどうかにある。いくら教員側が使いたいと言っても予算に組み込まれなければ買ってもらえないのが実状である。「ipad2」で考える場合、一台当たり4万で40人分を事前購入すると160万になる。これだけの金額を動かすには、授業単位で考えるのではなく、学校・学科としてでなければ導入することはできないだろう。

 b 保管・メンテナンス・設置

 日常的に使うものであるということを前提に考えると、やはりどこに保管するのか、誰が管理するのかが問題になる。学校からの貸与を前提にするのであれば、教室の片隅に放置するという状況は考えにくい。何かしらのロックが必要となり、盗難等に配慮した措置がとられなければならない。同時にそれらの機材についてメンテナンスが全く必要ないということもないだろう。ギリギリの台数で購入した場合には尚更であり、メンテナンスなりソフト面でのバージョンアップを誰が行うのかなどの対処も考慮しなければならない。

 電子黒板などについての場合には設置が大きな障害となる。以前から指摘されていることではあるが、教室据え置きが基本となるようなタイプがほとんどであることを考えると、設置されている教室が多くなければ、日常的な授業での運用は難しい。使える教室を多くするためには予算に関わってくることも自明ではある。


② 電子教材そのものに関する不満点

 a 電子教材としての出来が粗雑

 もともと電子教材にどの程度の出来を求めるかにもよるのだが、それはデジタルだからこそ出来るのかと疑問に思う教材も多い。単なる写真・クリップ動画でデジタル教材と銘打つのは如何なものだろうか。もちろんそれとて役には立つ。だが、写真や動画に魅力を持たせるだけの教員の授業力があってこそ引き立つものであるという前提を考慮できているのか。
 
 よく言われる興味関心をひかせるために電子教材を使うというが、これでは大声を上げて注目をひかせるのと同程度の効果でしかないと考えている。それでも小学校高学年レベルまでならば興味は引けよう。だが、中高生にもなってくると粗雑な電子教材を利用するだけの意味をもたせられるのかは疑問だ。

 b 現時点での教材データベースはあるのか。

 私が情報の授業をするときに、色々なデジタル教材を探すのだが、はっきり言って、探すときの手間がかかりすぎる。無系統であちこちに点在する教材がほとんどで、リンク切れやすでに10年近く更新されないまま放置されたものも多い。目的に沿ったものを探そうとすると、おそらく1時間以上かけないとみつからないことさえあるのではないだろうか。

 先に述べたような単にデジタル上の写真や音声を見つけ出すならまだしも、学習に役立てるレベルの教材を探し出すためのデータベースが存在しない。教員ではなく、生徒が利用する際にもあてどなく探す必要がないデータベースの構築が望まれる。

 c 電子教材作成の難易度が高い

 自作で電子教材を作るのは随分困難である。特に生徒参加型という意味での電子教材である。いつ導入されるかもわからない情報機器に頼った教材開発は意味がない。現時点の環境でできる教材開発を進めていかなければ、タブレット端末が配布された時に対応できないと私は考えている。

 というのもパワーポイントのスライドや一部のアニメーション機能を使った授業など高等学校ではとっくに行われている。目立った動きではないかもしれないが、すでに教科書会社からのデータ提供などによって30~40代教員にしてみれば提示だけの資料など造作もなく作成し授業に取り入れられているのが現状なのだ。

 だが、生徒の授業参加型となると話は違ってくる。今教室にある情報機器と言えば、プロジェクターとデスクトップパソコンが一台であり、これを使った教材の作成は難しい。もっとも有効そうなものといえば「マルチマウス」機能を利用したパワーポイントの教材が一番いいのだが、マルチマウス機能が知られていないことを考えると些か難しい。

 またパソコン室を使用した場合でも、パソコンを通した教材学習は理解度の判定が難しい。ようは単にパソコンの操作が得意だからできているように見える場合もあり、あちこちクリックしていただけで正解にたどり着いてだけという例が示すように、踏み込んだ理解が出来ているかの判定ができないのだ。こういった状況を想定した電子教材の作成は一般的な情報技術からでは不可能に近い。教材作成支援ソフトもどれだけ役に立つかは見えてこない。

 d 情報機器での理解の不確かさ

 これは私自身が不安な点なのだが、果たして電子機器上で習得した技術はしっかりと知識となっているのかという疑問である。具体的事例として挙げるので、まずは以下の画像を見てもらいたい。



問題



 これは私がある授業の期末テストで生徒に出した問題である。①~⑤に当てはまる関数を手書きで書かせ、⑥や⑦はそれを満たす関数を書かせている。授業ではほとんどパソコンでのExcelを使った実習であるのに対して、これは紙面上に書かせている。そして解答させてみると、かなり正答率が下がる。実習では難無くこなしている生徒がいざ手書きになると、大分迷っているうえ、間違っている確率も高いのだ。ちなみに私はこのVLOOKUP関数やIF関数を教えるときに「関数の挿入」は基本的に使わせていない。

 また逆の反応を示す場合もある。実習ではなかなか理解できなかった生徒が、手書きで書かせたことによって急に実習でもできるようになった例がある。理由を聞いても「手で書いてから何となくわかるようになった」ということで、はっきりとした理由を考察するには至っていない。

 こういった事例を実際体験すると、果たして電子教材での理解を促していることに対して些かの疑問が浮かぶのは止められないのが実情である。もちろん機器上であろうと紙面上であろうと理解できる生徒はいるのだが、その違いがそれぞれの出来の良さからくるものだけと断言はできない。


 e 電子教材に頼る姿勢

 以前より電子教材はあくまでの教員の授業力があってこそと書いているが、いわゆる「100ます計算」のような扱いがなされるのではないかという不安が出てくるのだ。

 ゆとり教育が叫ばれる中で注目を集めた「100ます計算」をやったことがある人も多いのではないだろうか。蔭山英男による「蔭山メソッド」で、基礎基本を高めるための反復練習の一部として取り入れられた学習法である。これはメディアで取り上げられると同時に爆発的に普及し、あちこちで展開している状況が報告されていた。今も一つの学習法として取り入れられているところは多いだろうが、全国に広まったその効果が現在あらわれているのかは分からない。

 それも当然で、しょせん「100ます計算」は学習法の一つにすぎず、「蔭山メソッド」で長期的に継続して執り行われた教育法を全国的に行ったわけではないのだ。これがまさにデジタル教材の今後を表しているのではないかと思う。何かに飛びつきたいのは分かるのだが、継続的に行われる教育内容の一部だけを取り上げて、これが素晴らしいとのたまっていては結果として効力を発揮できたかもわからない、時代に埋もれるだけの方法にすぎない。

 また電子教材を推進する人たちから、その教材内容に対しての不満点が述べられていないのが気になる。実質授業を繰り返していると、教材に対して「ああなればいいのに」「ここをこうしたい」という点がいくつも出てくる。完璧な教材はもともとなく、状況によって要望する機能が違ってくるにも関わらず、それらが見えてこないのだ。これは授業を行う身としてはとても不安である。

 生徒がどんな質問をしてくるかはある程度予想してるとはいえ、時にはとても考え付かないような質問をしてくる。下手に電子教材がある場合だと、その質問に対して、その教材内で説明することができるのかを、その場で考えないとならない状況に陥ってしまうのではないかと思う。

 紙の教科書だけでは資料が足りない、説明が不十分、情報量が圧倒的に少ないという不便さがわかっているからこそ、のびのびと授業をできるという側面もあると考えてほしい。中途半端に便利であることが、なまじ幅のない拘束力を高めてしまう授業になりはしないかと心配である。


 では、これらの電子教材の問題点に対してどのように対処するのが望ましいのかを考えてみる。しかし長くなったので、次の記事に回すこととする。

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デジタル教材について すまない。またこれなんだ。

 さて、なんだかここ数日デジタル教材について考える材料があったので、またもや扱ってみようと思う。まずこれからの教育を担う人々で考えるICT教育 「未来の教室を創造せよ!—デジタル化への展望—」。U-stで見れたらしいのだが、時すでに遅しということで、せめてtogetterでどんな話があったのかをざっと見てみる。

 さて、このデジタル教材等の話でいつも誰かしらから出てくる、現場や現職教員の「嫌IT」等のことなのだが、果たしてどこから出てくるのだろうかと不思議に思うことがある。正直苦手にしている人は多いと思うが、それでも苦手は苦手として出来るだけ取り入れようとしている教員は少なくないように思う。いずれにせよ導入がトップダウンで行われるのであれば、対応せざるを得ないので、現場が反対しているどうこうといった話はあまり意味がない。また情報機器の導入が遅れているというのであれば、それは予算や運営に関するものなので現場としての責任を問われても、ないものはないから使えないということしか言えない。

 加えていうのであれば、それぞれの教員はある程度情報機器を使えるが、突発的なトラブルに対応できるほどの能力はないと自覚しているために、あえて使わないという選択をしているのかもしれない。

 情報機器を取り入れた授業を画策していても、そのメインで使う情報機器が突然使えなくなってしまった場合、授業内容の変更を突然強いられる時の焦りはとてつもないものだということである。私自身、情報の授業を行っている時に全員がパソコンを使える状況を想定して課題を用意していたのに対して、起動するパソコンが出席生徒数の半数だったときに、「さてこの授業をどうやって乗り切ろうか」とひたすら焦ってしまったという経験がある。普段使わない人であれば尚更、その授業に関してどう乗り切ればいいのか不安になるのもまた当然である。

 次に県立袖ヶ浦高校 情報コミュニケーション科の話が話が合ったらしいのだが、これについては特定学科の話ということを考慮しなければならない。全員がipad2を購入できる経済状況と、志望生徒が他よりも情報に対しての意識が高いだろうということがうかがい知れる。最もこのレベルの生徒たちが、現在のデジタルネイティブ世代に当たるという意味では大きな参考事例になることも確かである。

 何人かのツイートを見てみると授業が面白そうというのを見かけるのだが、あまり鵜呑みにしてしまうのはよくない。よく考えてほしいのだが、どんな授業であっても、授業の形態というのはそれほど変わらない。もちろん使うツールに夢を見るのは悪くないが、それはツールの力というよりは授業の指揮を執る教員のやり方次第で面白くなるかが決まるのだ。「デジタル教材でこんなに授業が変わりました!」というのは、その指導レベルが高いということであり、所詮ツールに過ぎないものをもてはやすのは軽率である。

 さらに理解度の低い生徒を相手にデジタル教材であれば、理解度が高まるかもしれないと考えるのも些か不安がある。もちろん一定の理解度を示している相手にデジタル教材を見せることで、良い影響を与える可能性はある。しかし、その理解度による適切な処置の一つとして選択に取り入れられるという程度のものであり、何が分からないのかを指摘し、どこで混乱しているのかを明確にする作業が行われなければ根本的解決には至らない。つまりは個別指導にまさるものはなく、デジタル教材はあくまで補助と考えるのであれば、その必要性が薄まってしまう。

 まあ、途中の「ipad使ったら大学入れるんですか」という質問が出るのは仕方ないだろうというか、そういう認識の人がいるのもしょうがないと思う。むしろデジタル教材を使うことで学習効果が高まると期待しているのが窺える話ととった方がいい。教員にしてみても、デジタル教材を使った場合、これまでの生徒よりも学習の効果が高まっていなければ、何のために導入したのかと問われるのではなかろうかと考えてしまう。そのあたりを明確にした日本におけるデータ検証が必要なのだが、なぜか海外のケースを出してくるだけで終わってしまうのも何とかしなければならない。

 ちなみに話しが少しそれるがどうして紙にプリントアウトした方が圧倒的に間違いに気付きやすいのかという視点は面白い。これもまたデジタル教材を使う上で解明しなければならないものである。画面上で間違いが把握しにくいというのは、学習する上でマイナス効果につながってしまう可能性すらある。やっぱり紙の方がよかったんだという結果に落ち着かないようにするためにも、この研究は必要だろう。

 用務員のIT版は必要なのは確か。正直自分自身そんな立場にあるので、よくわかる。そちらのICT支援要員でやっていきたいと考えることさえあるのだが、正直待遇の扱い方があまりにも低いと感じる。需要は多いのに、給与は払えないというのもおかしな話である。またベネッセの支援要員は小中学校がメインであることも考えると高校派遣は難しいか。まあ、まず予算に組み入れられていないのも確かなので実現するかどうかさえ怪しい。

 気になるのは校務のIT化なのだが、これこそどこをIT化するつもりなのかが見えづらい一番の部分である。ちなみに「公務」とツイッターには書いているのだが、「校務」であると考えてよいのだろうか。単なる誤字であるならばよいのだが、現場に関わっている人は「校務」を「公務」と書く人はほぼいないので、それこそ現場との意識差ともとれなくもない。単なる揚げ足取りなので、気にする必要はないのかもしれないが一応。

 さて、校務のIT化について袖ヶ浦高校の永野先生が何か言っていたかが気になるところである。正直授業のIT化は教員のボトムアップであればすぐにでもできる。しかし、校務となると、それは学校の運営に関わってくるものであり、トップダウンによる改革が軸で、外部との連携及び協力が不可欠となる。校務分掌でさえ各地域でバラバラな状態を果たしてまとめきれるかという点においてみると、かなり難しいのではないかと考えてしまう。校務をIT化するという事は揺るぎない統一規格も必要だという事である。学校が変われば転職したのと同じくらいやり方が変わってしまうと言われる現状をどれだけ認識するかが重要な点だ。

 電子黒板についてもでてきたが、電子黒板であれ、電子教科書であれ、授業の中で重要な点は児童生徒にどれだけ内容を理解させるかである。その過程の中で電子黒板、電子教科書というツールに有用な点があるという事にすぎない。児童生徒の理解度を確かめながら授業を進めるには、教員の授業力が高くなければならない。

 生徒の頷き、目線、ちょっとした仕草で授業内容が頭に入っているか、理解ができているかなどを判断するのは教員である。パソコン越しに授業をしていると、生徒の反応が見えづらいということを私自身経験している。デジタル教材を使うことに私は抵抗感はないが、授業として注目させたいものに注目させる技術がより必要になってくることは自明であると考えている。大学などでどれだけの学生が教員に対し目線を向けているかを考えてもらえると理解は早いかもしれない。そういった点も踏まえて電子教材に取り組んでいく覚悟が必要である。

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社会人のための情報教育③

 未来の可能性をつぶさないためのコンピュータスキルと情報モラルの両立

 
 a 知識はスキル スキルは知識

 b モラルはスキル(知識)で補うべし

 c 意固地になるなかれ



 cについてはまさにそのままの意味であるが、教育に関わる姿勢としての意味と、ネット上のやり取りをする上での対応としての二つの意味がある。教育される側となるとどうしても言いたいこと気になることが出てくるので、反論や別の方法があると提案したくなってくる。もちろんそれは必要なのだが、まずは自分の中で一つ受け取ってもらう威勢もまた必要である。

 これは教育する側の姿勢としても抑えなければならないのだが、自分自身が教育をする側であるのならば、少なくとも反論されることや意見を述べられることは当然あると考えてもらわなければならない。そのうえでしっかりと自らの意見を述べるとともに、もし相手のいう事に正当性や合理性があるのならば、それを相手に伝え、今後改めていくことを検討する姿勢を示すのだ。

 自分の意見にだけ固執し、意固地になってしまうことは単に教育活動から見ても望ましいものではない。特に情報教育は日々変化する現状に対応し続けなければならないのので、柔軟な姿勢を示すことが今後の展開につながるのである。

 またネット上のトラブルについてみれば、現在のツイッターでの大人同士のやり取りを見てもらうと非常によくわかる。振り上げた拳をどこに持っていけばいいのかがわからず、結果として自分の周囲にくだをまく姿が至る所で見受けられる。当人たちは自らが正しいとの姿勢を崩しはしないが、周囲からすれば子どものように映るその姿は、単に今後の信用を落とすだけの行動にしか見えない。

 素直であればいいというわけではないが、聞き入れる態度を持ち、意見を反射的に返すのではなく、咀嚼してよく考慮するという判断は必要である。いかんせん、ネット上のやり取りは感情先行型になっているものが目につき、読んでいると気持ち悪くなってくるような気さえする。

 なんにせよ、意固地になって見えるものも見えなくなってしまって状況は情報を扱ううえではマイナスにしかならない。

 

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社会人のための情報教育②

 
 未来の可能性をつぶさないためのコンピュータスキルと情報モラルの両立

 
 a 知識はスキル スキルは知識

 b モラルはスキル(知識)で補うべし

 c 意固地になるなかれ



 bの「モラルはスキル(知識)で補うべし」とは情報モラルを知識としてだけではなく、スキル面から考慮できるように促すことを表している。こういっては何だが、通り一遍の情報モラルなど改めて教授されなくとも知っているという人は多いだろう。講習会でもどこかで聞いたような講義が多く、あまり講習や研修に意味がないといった内容のアンケートを目にしたことがある。

 実質、情報モラルは一般社会における倫理や道徳をコンピュータ技術やインターネットにおいても適用していこうとしたものである。そのため、誹謗中傷などの注意など、改めて言われるまでもないと思われるのは当然である。ただその中で、コンピュータ技術やインターネットが発達したからこそ注目されるようになったトラブルがでてきたのも確かである。

 先日の「DVD-ROMをコピーする」という事例で改めて考えてみる。当然のことながら、この「DVD-ROMのコピー」の利点は借りたものの複製品を作ることが出来るという点である。今では多くの人がレンタルビデオ店などで借りたDVDをコピーしている現状がある。このスキルはコンピュータに慣れた人にしてみれば、難しい部類には入らず、基礎知識だけでもコピーは可能である。

 この「DVD-ROMのコピー」の際に関連する知識として「著作権」が引っかかってくる。「著作権」については、情報モラルでも取り扱われるものであり、ネット界隈でしばしば取り上げられることが多いので添っている方も多いだろう。そして「DVD-ROMのコピー」スキル習得のために自分で調べるほど、「著作権」という単語を見かけることが多くなる。そして、少なからず「著作権」に対しての自らの考えが生まれてくる。この「自らの考え」を持つことが重要である。

 情報モラルについて注意すべき点は、ほとんどの場合が単なる知識となっていないかという点にある。この「著作権」に関してもただ知っているだけの知識では意味がない。例として挙げるならば、著作権によって保護された作品をコピーし、それを許可なく譲渡する行為は「DVD-ROMのコピー」スキルを習得した人からすれば違法行為であると理解している。

 「著作権」に対してどれだけ意識が高いかは人それぞれだが、少なくとも違法行為であると認識している人にしてみれば、通常の感覚をもちあわせるほど、コピーして譲渡するという行為は避けるものだ。ところが「DVD-ROMをコピー」できるという知識だけを持ち、スキル習得まで至らない人が「DVD-ROMのコピー」をスキル習得した人に頼むという現実がある。これは大人に多い傾向である。当然ながら「著作権」の知識を持ち合わせているにもかかわらず、自分でできないからという理由で誰かに頼むのだ。

 情報モラルについての問題は自己責任が基本であるのに対して、知識がないために、もしくは単なる知識としてしか捉えていないために、他者を巻き込んでトラブルとなるケースが非常に多い。いわゆるネットリテラシーにおいても、これは同じである。モラルをスキル(知識)によって裏付けて対処していくことが望ましい。

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