教育徒然

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情報選別

 今は誰であろうとネットを使えば情報を容易く入手できる状態にある。しかし、その容易さが今後の情報化社会を締め付ける要因となるであろうことを物語っている。

 東日本大震災のSNSの活用は一際目立っていた。比較的被害が少なかった地域では、連絡を取り合う手段として重宝し、被害が大きかった地域では、被災した直後こそ使えない環境であったものの後の情報発信の手段として大きな役割を果たしたと言える。しかし、その中で出てきたデマ情報に翻弄される側面を浮き出しとなってきたのも確かである。

 最近のネットの使い方として、情報の発信・表現に主に重きを置いているが、これだけあちらこちらで情報が発信されていることを考えると、情報の検索・収集についても状況を見直さなければならない点にきていると思う。基本的には情報リテラシーを鍛えるべきだというものだが、事はそう簡単ではない。どう情報リテラシーを鍛えるかという方法論にも係ってくる点であり、今後の社会を見据える上で見過ごせないものがある。

 私たちはテレビや新聞、ラジオ、インターネットに溢れる情報をどう処理しているだろうか。各メディア媒体の中でテレビ、新聞、ラジオ等に関しては大手の会社が取り仕切っていることや一部公共性を維持しようとする姿勢があることで、細部では指摘が違うものの大まかな事実については大体共通した内容である。これにより、細部の違いを意識することで情報の正誤を判断しようとする。

 ところがネットは大手企業は別として、数ある情報は個人から発信されると同時に、公共性を殊更意識したものではない場合もある。よってその内容はバラバラで事実を掌握するためにも最低でも5~10前後の媒体を検証しないと事実すら確認できない。

 もちろん事実のみを書いた媒体もあるが、それですら検証を怠らないようにしなければ、ネットの情報とは信用されるものではない。これを発信者の問題ととるのも確かだが、発信者に責任を求めても無駄とすら思えてくるのが現状なので、情報の受け手を鍛えるしかない。

 では情報の受け手、情報の収集者をどのように鍛えるのかと言えば、情報を漁る癖をつけさせることにある。しかし情報を漁るときも同じ主張だけを漁るのではなく、全く反対の主張も漁り、それを客観的評価をして自分の意見構築につなげる。加えて、自らの意見を構築したならば、「自分の意見」に固執するのではなく客観的事実のみを見据え、自分の意見との相違や後の判断で自分の意見にミスがあるならそれを認めるだけの素直さがなくてはならない。

 自分では情報の客観的評価ができない場合に陥る手段として、最初に自分の主張と合う識者を探して、さも自分の意見を識者の意見であるかのように振る舞うも場合があるが、これがネットで蔓延している。蔓延しているだけならまだしも、自分の意見が正しいと判断したときの押し付けが激しいのも特徴の一つである。これにより本当に正しい情報が蔓延した情報に埋もれてしまう危険性があることに気付けない。

 しかもネットで情報を検索収集するのは、情報を漁る癖を身に付けた人とは限らない。むしろネットに慣れない人たちの中には最初に目にした情報をそのまま信じ込んでしまう人も少なくないのだ。子どもたちであるならば尚更である。途方もない陰謀論や2極化した過激論に嵌まり込んでしまう子どもがいてもおかしくはない。嵌まり込んだことを気付かずに他者を傷つけてしまうことがあれば、それはあまりにも不幸である。

 だからこそ情報選別の能力は早いうちに鍛えなければならない。それ中で学校の果たす役割は大きいが、情報の授業そのものが各教員に依存した教育に留まっているのが現状である。それを改善するためにもさまざまな手段を講じて訴えていかねばならないと改めて思う。

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思考がまとまらない。

 授業の善し悪しについて生徒から色々意見を聞くことなどもあって、それをまとめようと思っていた。しかし、どうやら本格的に体調不良が押し寄せてきた。すでに4~5日書くことが出来なかったので、ようやくと思った矢先の出来事で非常につらい。体調が戻って回復したら色々と書こう。

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看過されたままでいいのか。

 以前にもあったことなのだが、生徒同士の会話の中である単語を聞いた。その単語とはある有名なスナッフビデオの名前であり、それを見たことについて生徒が話していたのだ。2年程前にも同じように生徒がそのスナッフビデオについて話しており、その動画を友人にも見せている現場に出くわしている。

 2年前は生徒指導部長や担任、及びコンピューターに詳しい教員と相談して、一番最初にビデオを見せていた生徒から事情を聴くことになった。その生徒も自分自身で探したわけではなく、学校に関係のないところで見せられたということだった。そこで、その生徒が動画を見てどう思ったかを話してもらうと、不安や不快感、嫌悪感を生じたとのことだった。よって、周囲にもそう感じる生徒がいるかもしれないので、見せまわることはよくないと諭し、もしまたそういった動画を見てしまう機会があれば教員に話してみてはどうかと提案した。本人としても自分に抱えきれない感覚があったために、周囲の友人に見せた側面があり、一部の心のケアはできたのではないかと思われる。

 しかし、事ここに至ってやはり情報は相当低年齢まで浸透していることが図らずも証明されてしまったように思える。2年前でさえ、ネット上にそういった異常な掲載があるのは承知しており、誰でも見ることが出来る環境に対して危機感を持ったのだが、今回の会話をきいてさらにその危機感は募った。

 ただ、その危機感はネット上に危険なコンテンツが溢れていることではない。正直ネットに様々なものがあるのは当然の事であり、その規制をしても何ら意味はない。問題はその危険なものに対して、対処すべき大人が中身を知らないままに無関心なことであり、また逆に中身を知らないまま、むやみやたらに積極的対応をしようとすることである。

 まず無関心であることは以前から指摘している通り、ネットの事情をよく知らない大人たちに子どもは辟易していると言っていい。相談しようにも知らないのであれば初めから候補に入らないのである。また実態を曲解し、ネット事情を規制したがる大人に対しても子どもたちは否定的になる。自分たちが楽しんでいるものを規制して自由に使えなくさせてしまおうというのであれば、反発が起きるのは当然である。だが、しっかりと良い点と悪い点について話ができる大人に対しては、自分の考えや感じたことを話すことが出来るのだ。

 だからこそ、大人は自ら体験してネットの良い点悪い点を自分なりに子どもたちに話さなければならない。一番重要な点は、子どもの体験をフォローするための知識を取り入れていると伝えることなのだ。ネットについて何も知らないと開き直っても構わないが、それならば分からないから教えてほしいと子どもに請ってでもいい。大人がネットに向き合って触れていくという姿勢があると知ってもらうのが、現況を変える最大の対処である。

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現場の教員はどうしたら資質向上するか。

 授業が始まってまだ間もない中で、ある生徒とのやり取りがあった。

 数年前と比べると大分落ち着いた学校となったが、個々の生徒を見てみるとまだまだ落ち着きのない生徒がいることは事実である。自主製作のプリントを使って、学習内容を説明していた時なのだが、椅子にまっすぐ座らず、絶えず横を向いている生徒がいた。この態度のままでは授業に差し障りが出るであろうと考えたので、まっすぐ前を向いて座りなおすように注意した。その時は指示に従ったが、すぐにまた同じような座り方になり、その後、周りの生徒と授業に関係ないことを話しだしてしまった。

 集中力が持たないという事もあっただろうが、あまりにも話し声が大きくなりだしたので授業中に約3回注意をする結果となった。そして、授業終了後にその生徒と喋っていた2人を呼んで指導をした。それは、授業を受けるかうけないかは自分たちが決めることだが、周りの生徒にとって邪魔になる行動を続けるようであれば、より厳しい指導の対象になるということ。またそれと同時に、今後も学校生活を続けるというのであれば何のために学校に来ているかを考え、しっかりと授業を受けろというものである。

 こういった経験は底辺校で指導する教員にとっては日常茶飯事であろう。もちろん経験自体は教員の資質向上につながるであろうが、重要なのはこの後の他の教員との話し合いだと私は思っている。

 こういったやり取りがあったことを、授業後すぐに担任に報告した。この報告の意味するところは、担任にどうにかしてほしいとの意味ではない。授業中にこういったやり取りがあったので、もしかしたら今後何かあるかもしれないので留意してほしいというものである。また他の教員とも同じようなことがあった場合の検証事案とすることもでき、情報を共有して今後につなげるという意味合いもある。

 もちろんこの情報共有については担任もよくわかっている。それについて「(その生徒のことで)面倒をかけて申し訳ない。」と言われた。それで担任との会話は終わっている。

 ちなみに、同じことを副担任にも話している。その時、副担任からは「いいんじゃない?(年度の)始めに注意しておく方が今後の授業もやりやすくなるし、アイツ(生徒)も注意されなきゃわかんないから」と言われた。正直私は副担任にそう言ってもらえたことでほっとした。担任との会話では、自分のやり方に対して肯定してもらえたのだろうと思えたのだが、もう少し何か言ってほしいとの思いがあったのだ。

 ようはどういった指導をすれば良かったのかは、その場ではなかなか判断できない。私自身、学校に来たばかりの時より大分指導できるようにはなったが、まだまだ不安は多い。それを他の教員と話すことで、今度もまたどうすればいいかを一つ一つ考えられるようになった。教科指導についてもそれは同じである。

 多科目を有する教科では、これまで教えることのなかった分野の科目を新年度になって突然教えることになる場合がある。自分自身教えたのことのない科目があるので、いったいどうやって教えるのかを知るために同僚に授業を見せてもらえないかと頼んだことがある。だが、準備が整っていないからという事で今日は勘弁してくれないかと言われた。まあ、あまり見られたくないのだろうという意思が伝わったので、それ以降頼むことはなかった。

 これは、教員自身が授業に自信を持てないことに起因するものだろうと思っている。自分の指導する授業がいいものなのかは自分だけでは判断が付かない。例外的に研究授業などでしっかり判断されるときのみ万端の準備をおこなった対外向けの授業を行う。普段の授業と差異がある場合には、結果として自分が行ってきた授業内容が普段生徒たちに伝わっているかどうかが分からなくなるだろう。

 もともと年間を通して見られることを想定した授業を行っている教員は、授業に自信を持ち、例え批判されたとしても生徒とのやり取りや他の教員との意見交換をすることで授業力を身に付けている。そういったことの繰り返しで「教員としての資質向上」を自ら促しているのである。

 一つの小さな学校の中に限られた同僚では資質は向上しないという指摘もあるかもしれないが、そんなことは決してない。むしろ毎年一定の生徒が変わる学校はそれだけで環境が激変する。教える内容が同じであっても、教え方にクラスごとの違いが必ずでてくる。それを知りえる者同士が互いに話し合うのが資質向上へつながらないわけがない。

 特にまだまだ経験が浅い教員にとっては自らの指導に対して懐疑的な面が少なからず見受けられる。それを多くの人に話し、相談できる環境を作ることが現場の教員の資質向上につながるであろう。 

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発売されるようです。

 以下の書籍が発売されます。

保護者のためのあたらしいインターネットの教科書―おとなの知らないネットの世界

 インターネットユーザー協会で進められていた「大人のインターネットの教科書プロジェクト」です。有志で原稿を書くということだったので、私もいくつかの項目を書かせて頂きました。もっとも私は編集には参加しているわけではなく、原稿を投げただけなので実際どういった仕上がりになっているのかは分かりません。ですが、プロジェクトに携わった皆様の一つの形としてこういった本が出来上がったのはとても喜ばしい限りです。

 このプロジェクトに参加させて頂きありがとうございました。

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「教員の資質向上」につきまとった違和感

 ここ数日「教員の資質向上」について考えていたのだが、どうもすっきりしない違和感を常に感じていた。一体何が腑に落ちないのかを突き詰めて考えてみた。

 そもそも「教員の資質向上」を掲げているということは、現在の教育現場そのものが複雑な事情を抱え、対応が難しくなっていることを物語っている。それと同時に、現職の教員では乗り切れない場面があることを示している。変化する時代の波に教育が乗りきれてないことは確かであり、多忙を極めた教員がパンクしている姿もよく見受けられる。だからこそ、「教員の資質向上」がテーマとしてあがっているのだ。目指すべき今後の教師像として、具体的に以下のリンク先で色々と述べられている。

資料1 基本制度ワーキンググループ報告(案)

 一見したところ納得できる部分も多いが、どこまで現実的に対処できるかは今後の経過を見なければ判断はできないだろう。しかし私が感じた違和感はそういった「教員の資質向上」としてこうあるべきだと示された事例にあるのではない。当初は、「現実的な計画ではない」と感じたのかと思ったが、よくよく考えると全く違う点にあった。

 私の感じた違和感とは、「目指すべき今後の教師像」に近い教員たちが全く目立たない点であった。教育を取り巻く環境は変わり、対応が難しいと言っても、教員の中には学校生活の様々な場面で活躍できる人物がいる。それこそ「学び続ける教員像」であり、日々研鑽し続けているのを確認できる。しかしそういった人たちは正しく評価されているだろうか。

 生徒たちや保護者、地域が正しく評価していればいいという話ではない。目指すべき教員を掲げておきながら、本当にそういった教員がいるかどうかを判断できなければ、いくら資質向上と言っても本当に向上しているのかもわからないままである。

 これには「教員は評価されるのを嫌う」という論調もあり、評価そのものを教員が忌避しているから判断できないとされる時もある。しかし実際は評価されたくないというより、本当に評価できるのかという不信感からである。生徒たちからとても評判のいい授業を行ってはいるが、部活動ではあまり目立つ成績を残すことはできない教員と授業そのものは一般的だが部活動で全国大会に導いた教員を正しく評価してくれるだろうか。またその評価に納得できるだけの説明をしてくれるだろうか。そんなことが随所にある。

 いずれにせよ教員の資質向上というのであれば、まずは現場を見渡して目立たずとも学校教育に尽力している人を当人の負担にならないよう舞台に押し上げるべきである。

 

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やはり教育が大事である。

 先日の授業提案で違法ダウンロード刑事罰化の流れについて取り扱ってみようと思ったのだが、先ほどある記事をみて、やはり正しい知識を教え伝えなければならないと感じた。その記事とは以下のものである。

ある日突然犯罪者扱いに? 無許可ダウンロードの罰則化が引き起こす問題

 先日の授業提案では一部記事を引用して生徒たちに紹介するとしていたが、上記のものは授業で扱うには適さないと判断されるだろう。もしくは記事そのものに赤書きの注釈をつけて、誤解しないような説明をつける方式とするならば適用に値するかもしれない。

 もう少し何とかしてほしい点はいくつかある。

 ① 将来的に親告罪でなくなるかもしれないとの憶測はつける必要はない。親告罪についてもう少し言及しているならば別だが、正しい知識を伝えるというよりは不安を煽るために付け足したとしか思えない書き方である。

 ② ツイートした内容をそのまま記事にしていることに違和感がある。ツイッターの発言は確かに公開されたものではあるが、ツイート内容の真意を改めて本人に確認したかの旨を記しておくなどはしてほしい。140文字だけではどう解釈していいのか判断に迷うものも多く、些か心許ない。

 ③ 記事そのものが正しい知識を伝えることを主題にしているのではなく、不安を煽る書き方に終始しているように思えてならない。ツイートの引用にしても極端な事例としての小倉弁護士の発言を強調したやり方は好ましいものではない。起こりえない話ではないが、冷静さをもった判断ができるような書き方はしてほしい。

 ④ 時間があれば、この記事に関してのツイートも見てもらうのがいいだろう。冷静な判断をしている人がどれだけいることか。ネットにもマスメディアにも言えることだが、発言や記事内容に関してもう少し考慮してから書き込んでほしいものである。

 こういった点から見ても、正しい知識を伝える教育が必要である。善悪の是非はともかくなぜこうなったのかを考える機会として先日の授業提案は実施したいと思う。

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授業提案 2

 今回の標題は「『無許可ダウンロードの罰則』にまで至った経緯と今後のユーザーの在り方について」である。

 授業内容

 ① 著作権の基本的な内容提示。

 ② インターネット上の著作権物の扱いについての現状を確認。

 ③ 生徒自身の著作権についての意識を事前アンケートなどから発表。

 ④ 無許可ダウンロードの罰則成立の流れを提示。

 ⑤ 自らに及ぶかもしれない可能性の列挙。

 ⑥ 今後の自分たちのユーザーの在り方を考える。

 メリット

 a 法律改正が行われる現状を扱うことで、実社会の認識を促すことが出来る。

 b 著作権そのものについての理解を深める機会を得られる。

 c 現在学生に横行する無許可ダウンロードの現状を改めて意識させることにつながる。

 注意すべき点

 α 著作権だけに限らず知的財産権についての理解も促す必要がある。

 β 無許可ダウンロードの善悪の是非については言及しない。

 γ 正しい知識を習得させたうえでのユーザーの在り方を考えさせるものであり、犯罪であることを煽るなどしてむやみやたらにに不安を与えてはならない。

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今年度の「情報」スタート。

 今年度入学した学生たちに対しての授業が始まった。教科「情報」もまた最初の授業を行ったのだが、どうやら前途多難のようである。毎年のことではあるが、基礎的能力のバラつきが目立ち、同時に情報技術スキルの有無においても相当な開きがあるように思われる。出来うるだけ個々の能力を伸ばしてやりたいとは思うのだが、如何せん30数人をカバーする余裕が出てくるとも思えない。

 もっとも4月~5月にかけては情報に関する知識を重視した授業を行うこともあり、徐々に生徒の特性を見定めていきたいと思う。またスマートフォンを所持しているかどうかなども含めて、実態調査を毎年行っているのでそちらも参考として、授業内容に反映させていく。いずれにせよ、高等学校で勉強する意味を見つけ出させる生徒との戦いともいえる怒涛の日々が始まった。

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教育は高度情報化社会に何を求めるか

 前回は社会が教育に求めるものとしたが、今回は反対の視点から考えていきたい。前回のエントリーで社会が教育に求めるものは「情報の制御」と「オリジナル情報のデジタル構成化」と挙げた。(ちなみに「オリジナル情報」とは新生された情報に通ずるものである。)これを踏まえて、教育は社会に一体何を求めるのか。

 「情報の制御」にせよ「オリジナル情報のデジタル構成化」にせよ必要とされるのは、情報を扱うための「情報機器」と情報を扱う場の「インターネット」である。これが整備されなければならない。もっとも全国的に見れば大分普及も進んでおり、今後の進行状況なども踏まえれば遠からず達成されるだろう。

 しかし環境整備だけが行われても、そこからが進んでいないのが現状に近い。まず教える側である人材の明確な基準が曖昧である。教科「情報」を教えられる教員はいるが、それはあくまで知識面が重視されたものであり、高度情報化社会が求める人を育成できる技術を有しているかは分からない。ゆえに知識を備えつつも、「情報の制御」手法や「オリジナル情報のデジタル構成化」の経過を披露できる人材を教育は欲している。

 さらに十分な受け皿を用意することが早急に求められている。教育を受けた人物は、その後社会に進出することになるのが当然の流れである。その際、教育の成果を正当な形で発揮できるだけの環境が社会に整っているといえるだろうか。システムエンジニアなどの専門職においては、仕事に見合った形での報酬になっているかがたびたび話題にされるなど、笑い話にもならないような状況のまま放置されているといったことはないのか。

 前回も取り上げたサブカルチャーでは、個人の活動がネットにおいて広く認知されている。これに対し、社会に活かすはずの技術が正当な対価とならないのは教育する側にとってみれば、詐欺を行っているような感覚になってしまう。

 こういってはなんだが、個人活動レベルを意識した教育ならば、今のままで対応できてしまうのである。そこまで高度なことを教えずとも、一般活動レベルの中である程度対応でき、それに対し、最低限の知識を教えるだけで事足りる。情報モラルについても、今の子どもたちが大人となり、環境整備が進むようならばそこまで意識されるものでもなくなっていくと思われる。

 しかし、それでは困るというのが現状である。それは多くの場合、子どもたちがインターネットに触れることで子ども自身もしくはネット社会の双方に害があるのではないかという懸念がそこに存在しているからに他ならない。将来的にもこのまま情報モラルが育たたなければ、今のネットが抱える問題点をそのまま持ち上げることになってしまうとの憂慮がある。だからこそ教育で子どもたちに情報モラルを植え付け、正しい使い方ができるようにとの要請があるのだ。だが、それは単なる教育への押し付けになっていないかを考慮しなければならない。

 教育面からは環境整備と人材の充足などが行われることで取り組むを教育内で多様化させ発展させることはできるだろう。しかし高度情報化社会自体の自己把握と周知に取り組まなければ、いくら教育に任せても正常な方向へと進むことはない。

 ネット社会はスピードや効率が肝になるとよく言われるが、秩序ある高度情報化社会に向かおうとする流れは決して早くはない。国や政府や企業のせいだと責任転換する声も聞かれるが、実際にはネットに接する人たちの個々の対応こそが最も必要なのだ。直接的に関わる人たちはもちろん、間接的に関わる人も寛容と理解する努力を持ってもらうことを望む。

 ということで教育から高度情報化社会に求めることは、「情報機器等の環境整備」、「教育人材の充足」及び「高度情報社会への理解と周知によるネット社会の安定」である。




 

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高度情報化社会は教育に何を求めるか

 1990年代半ばから急速に生活に根差してきたインターネットが示すように、現在は高度情報化社会という言葉を体現するような形態を為し、すでに20年近くが経過しようとしている。情報機器の発展に伴ったサービスの在り様も多様化し、我々はその恩恵を受けて生活している。教育現場もその例外ではない。しかし、ときに公教育としての性質上も含めても、その反映のスピードが遅いと感じられる。教育が失敗しては困るとの判断から慎重に事を進める他ないとするのは確かなのだが、もっと大局的見地も必要とされる。では実質何をどうすればいいのかを少しばかり考えてみたい。

 まず現在の高度情報化社会に生きる人たちは何を教育に求めているのか。一般的な見地から探ってみれば基礎的な情報技術が身についているであり、一例としては以下のようなものが挙げられる。

 ・ オフィス系ソフトによる事務処理能力。

 ・ プレゼンテーションソフトなどを使った表現力。

 ・ ネットワークを利用した情報収集。

 例示した内容をいともたやすく思いつくのは、よく使われる機能であると同時に教科「情報」でよく扱われる題材に通ずるからでもある。言うなれば上記の例はあくまで情報を整理するための補助として使われることを前提としたものなのだ。しかし、社会から教育への要請はこれではすまなくなった。情報化が進んだ結果、可視化された莫大な情報量の制御と新情報のデジタル化が課題となり、これに対応するための教育が今求められている。

 インターネット上には今や情報が溢れている。これは公的機関や企業を代表とした集団によるものから子どもや大人まで含んだ個人に至るまでが様々な手段をもって情報を発信している。これにより今までテレビやラジオ、新聞と言った情報伝達媒体に頼りきりだった状況がかわり、真偽入り混じった多種の情報が流れ出るようになった。これに対して情報を見分ける力、もしくは誤った情報の伝え方をしないよう自ら情報が制御できるような能力を育成することが必要とされている。

 さらにはオリジナルの情報を生み出し、自らデジタル化することも課せられている。多くの情報がパソコンなどの情報機器で扱われるようになったことで、既存情報との比較が容易になり、オリジナルの情報を要望されるようになった。そして情報機器の最大の利点である伝送速度においてアドバンテージを持つネットに流すためにはデジタル情報へと変化させる技能が必須となったのだ。

 そして絵や写真、文字やプログラムか関わらず伝えるための手段として必ずデジタル処理される。このデジタル処理の作業はソフトウェアによって変わるため、特定のソフトウェアスキルに長けているか、全くのオリジナルソフトの構築ができるだけの能力を有しなければならない。

 この状況を踏まえて考えてほしい。前者の情報の制御については津田大介氏などを代表するメディア・アクティビストへと連なるなるのだろうが、一般的な感覚としては情報モラルや情報倫理などがわかりやすい。加えて後者のオリジナル情報のデジタル構成化は、プログラマーなどにつながる流れではあるが、もっと簡単には創造力と様々なソフトを使いこなす応用力と捉えてもらってもいいかもしれない。

 ということで、「情報の制御」及び「オリジナル情報のデジタル構成化」が高度情報化社会から求められているものだと私は考えている。ではこの二つの能力が効果的に育成できるような教育を行うにはどうすればよいのか。いずれにしても段階を踏まえた学習が重要である。

 「情報の制御」に関しては近年情報モラルが注視される事態が相次いでいることで、早い段階での取り入れが進んでいる。その内容はまだ未熟であるが、導入の動きそのものは歓迎できる。ただ直近の課題として、小中高の学校間教育内容をどれだけ踏襲できるかがあげられる。また「情報の制御」を掲げる以上、汲み上げる情報量が多いにこしたことはなく、その環境を整えられるかも留意しなければならないだろう。

 「オリジナル情報のデジタル構成化」については、手が付けにくい状況にあることを考慮しなければならない。もともとオリジナルを考え出すことが苦手ではあるのだが、昨今のネットのサブカルチャー関係を見てみると、色々とチャンスは転がっているようにも思える。公教育として取り入れるには難しいサブカルだが、発想の新しさを見るという点で教育する側の観察も必要であろう。

 デジタル構成化に限った話ではプログラム言語の学習も視野に入れなければならない。しかし以前も取り上げたが、初等教育段階で取り入れるかは論議される必要があろう。もし受け入れるのであれば、高等学校における教科「情報」を普通教科として扱うよりは、専門教科として扱うことを検討するのではなかろうか。

 もしくはプログラム言語まで扱わずとも、ソフトウェアの応用力を高めるというのならば、サンプル品程度でも構わないので、多くの教育用ソフトウェアの開発が望まれる。何にせよ情報機器を扱うのであれば、経験や場数が物を言う現状がある。

 以上が現時点で私が考える高度情報化社会が教育に求めるものである。書く気がおきれば、近いうちに「教育が子ど情報化社会に求めるもの」を書くようにしたい。

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バカ発見器をどう使うか。

 バカ発見器と揶揄されているツイッターだが、生徒の使用率も徐々に高くなってきている。しかし、よくわからないまま使っているのだろうという行動が見え隠れする。フェイスブックにしてもミクシィにしても使われる媒体は様々あるが、そこで何かしら大きなトラブルがないまま使い続けているの大人も同じだが、使うことによる危うさを感じるのは子どもたちである。

 一部の部活動ではSNS禁止を指導するなどの措置が取られているが、そのままでいいだろうということではない。実際私の授業では炎上の例やネットで話題になったツイートなどの概略を話している。もちろん個人情報に関わることは一切口にしていないが、その顛末などを話すときは、なんでそんなことをするのかという呆れ気味な態度で取り上げている。生徒自身からも、そんなことをするのは変だろうという感情を引き出すことが出来るのだが、それに加えて、なぜそんなことになったのかも、一部推測しながら話すことで、考えさせることの動機を与えられるのではないだろうかと思っている。

 事例を出すという意味では、ツイッターやブログの炎上例は宝庫である。震災の時に役立った例や面白い受け答えなどもネットで起こっている現象という意味で見れば、数多く存在している。これらは、教科書にそった教材にはなりにくい話だが、ネットの現状を伝える小話として取り扱う分には意味がある。

 ツイッターに全く触れることのない生徒もいるなかで、蔑称としての「バカ発見器」の意味を伝えることにどれだけ効果があるかはわからない。しかし毒も使いようによっては薬となるので、使い方を誤らぬよう注意しながら事例としてつかっていきたい。

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これを使わせてくれればいいのに・・

 今後はインタラクティブツールiP−03Pがあれば黒板として使うにも十分な機能を持っているといえるだろう。

もしくは



こちらのものがあれば十分対応できる。

 何とも技術の進歩は素晴らしい物である。しかしながら導入までに時間がかかるのが難点である。

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果たしてこれで大丈夫か。


 まずは以下のリンク先の内容を確認してほしい。

一つのIDで7人の自分になる

もはや名刺より重要!?シゴト力を高めるSNSアイコン術

 今やSNSといえばネットを代表する便利なツールの一つとして確立している。しかし、自分を知ってもらうという対外的性質を有しているがゆえに、自分を判断される材料として使われしまっている。上記のリンク先はまさにその使い方の典型である。もちろんその使い方が悪いというわけではない。ただその分妙なところに注意を向ける必要性が生まれていることを自覚しなくてはならなくなった。

 普段の人間関係の中で、顔の使い分けなどよくある。仕事の顔、趣味の顔、昔なじみの前での顔などいくらでもあるだろう。だが、それは場面場面で変わっているだけにすぎない。わざわざ使い分けようという意識からくるのではなく、自然とその人の前でそういった話し方やになるものでしかない。

 だが、ネットで顔の使い分けを気にし始めるのは明らかに行き過ぎた行為である。精神的に成長した人間であり、人間関係の構築が出来ているのならばそもそも気にする必要もない。むしろお互いに踏み込まないほうがいい領域であれば、わざわざ首を突っ込まないという配慮ができる。困った人からの対応を避けるための機能としてならば大きな意味をもつが、あまりにも顔を作り過ぎるのはそれこそ困った人と受け取られるのではないだろうか。

 また最近いわれるソーシャル就活なども方向性がずれてきているように思う。あくまでもSNSに描かれる人物像はネットを介して知りえるものでしかない。しかもわざわざ就活の為に使われることを承知の上で描かれた人物になんの魅力があるのか。

 SNS上に描かれた人物をわざわざ検索して調べるなど、企業の人事が真剣にやるものではない。また、設定する側もアイコンで印象をよくするなど考えているようでは、個性などどこにも存在しない。最近のネットはそれぞれが個性を生かして自分のやりたいことをやる場として存在する一方で、不本意なまでに他人の押し付けを見せつけられる場という側面が顕わになってきている。

 どちらもネットの使い方として間違っているわけではないが、他人に振り回されるだけの存在にならないよう子どもたちに学んでもらわなければならない。自己主張と他者の受け入れがバランスよくできなければ、ネットというツールは使いこなせない。
 

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人と人の関わりこそ教育。


 「書店が果たさねばならない役割がある」――ジュンク堂新宿店“最後の本気”

 この記事を読んでここに教育が息吹いていると思った。自分の思考にも関わらずあまりにも直感的にすぎて、なぜなのかがよくわからなかった。しかし、確実に教育につながるとの確信めいたものがあったのでそれを記してみる。

 リンク先の記事はITメディアによるものだが、Yahooに転載された記事についたコメントに以下のようなものがあった。



本を選ぶ時、ネット通販は簡単便利だけど偶然を呼び込まない。
本屋での店頭買いはお目当てとは違う本を買う偶然がある。
本屋って本が好きな人の五感を呼び起こす、そんな場所。




 そして、ジュンク堂新宿書店の店長の言葉がこうある。



「『こんな本があります』という提案型の売り場作りや、実際に本を見て選んでもらえるのは、ネットではない、リアルの書店だからこそ。それを求めている方もいらっしゃるんだなとつくづく感じ、その思いをジュンク堂の他の店舗にも共有しました」




 この二つの言葉に私は大きな意味を感じたのだと思う。授業にも通ずるものがあると。

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授業提案 1

 「授業提案」は実際に授業と出来るかは分からないが、一つの構想として思いついたときに書き記していきたい。

 今回の標題は「インターネット上における表現行為の実施と反応について」である。
 
 
 授業内容 

 ① 授業で一つの内容について賛否を募り%で提示。加えて特徴的意見の抽出。

 ② 結果をまとめたものを教員が動画にする。

 ③ you tubeかニコニコ動画なので動画を投稿。

 ④ 一定の期間をおいた後、再生数やコメントなどを確認。

 ⑤ どういった反応があったのかを改めて授業内で考える。

 ネットを授業で使うのがいつまでも情報の検索だけとはいかないので、実際に表現行為をしてみようというものである。どうしてもネットで発信というと各自によるものと考えがちになるが、集団で意見を出しあうような過程であったり、まとめた内容を載せるというのも面白いと思ったので一つの構想とした。

 メリット

 a 実際に投稿した経験がなくとも自分たちの意見であるとの実感が出る。

 b 教員による投稿なので、プライバシーに配慮できる。

 c もし外部によるコメントあった場合、意見の現実感がます。

 d 生徒自身もしくは家庭での確認ができる。

 注意すべき点

 α 生徒自身、もしくは外部による荒らし行為。

 β 反応の有無。

 γ 抽出意見発表について各生徒への配慮。

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