教育徒然

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演出された対等概念

 このところ世間を騒がせている生活保護の不正受給問題だが、外野の動きがあまりにも喧しく我慢できなくなったので、以前の「不自然なまでの対等概念」の補足のようなことを述べていきたい。

 申し訳程度にしか使っていないツイッターだが、togetterなどで面白い話題や興味の惹かれる内容をちょくちょく探したりもしている。しかしその中に目立つようになってきたのが、メディアの露出が多い人物や地域の知名度が比較的高い人達が個人に宛てる喧しいつぶやきである。

 ツイッターそのものの利点として、普段であれば全くもって接点がなく、言葉を交わすことすらない人物同士が繋がることができるかもしれない双方性などがあげられる。その結果表出した「不自然なまでの対等概念」なのだが、それに輪をかけて面倒なのが、著名人による「演出された対等概念」だ。

 よく見かけるのが「○○の前に私は人間ですから」と、職業を加味した人物像を打消し、同じ人間であることを強調したりするものだ。確かに職業ありきで非難されるのは耐え難い苦痛かもしれないが、自分で公開した情報であるならばそのことに責任をもつことも自覚してほしい。自分の立場を明確にし、それを考慮した発言をしているのだから、職業ありきで迫ってくる言葉を予測できないのがおかしい。

 さらにその立場を知りつつ公開の場で穏やかでない言葉をふりまくのも迷惑である。ネットの炎上にもつながるが、著名人の個人にあてた言葉がクローズアップされ、不謹慎であるとの批判が数多くある。「△△さんにあてた言葉であって、他の人にいったものではない」。こんな言動が聞こえてくる。言場を発することそのものを否定するつもりはない。ただ本当にその発言はネット、すなわち公の場でするにふさわしい言動だっただろうか。

 本当に個人に宛てた言葉であるのならば、見えないところで言い合ってほしい。わざわざそれを公の場でみせつけてくれなくていいのだ。そして公開したいというならば、最低限感情的になり過ぎた言葉は暈すなどして知りたい人にだけ限定公開してはくれないだろうか。

 直接のやり取りができると喜んでいるのはいいが、自分の立ち位置を無理矢理自分で引きずり落として、対等だとアピールするのは愚の骨頂である。お願いせずとも対等概念を持ち込んでくることの多いネットでそんなことをすれば、対等ではなく下に見られるのがオチだ。にも拘らず自分を応援してくれる人がいると過信して妙な発言をしてしまえば、あっという間に炎上である。

 炎上が一過性のものであり、気にすることはない場合もある。しかし、始めから公の場の発言であると意識していれば滅多なことで炎上はしないのだ。著名人であれば、それこそ分かっていそうなものだが、ネットを個人のやり取りであると狭窄した視野でしか捉えられない現状は非常に情けない。

 こういったことをどのように伝えていくのかが課題であり、参考とすべき嫌な事例である。
 

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不正アクセスを考える④

さて、不正アクセスの第3段階目について考えてみる。




 ① 不正アクセスをしようという動機が生まれる。

 ② 相手のIDとパスワードを入手する。

 ③ IDとパスワードを入力し、ログインする。

 ④ 相手のIDでログインした状態で、様々な操作を行う。




 実はこの③にこそ、不正アクセスを思い止める重要な鍵があるのではないかと考えている。

 普段、私たちがネット上の何らかのサービスを受けるときには、多くの場合、ログイン作業が必要であり、自分で設定もしくは付与されたパスワードを入力しなければならない。この作業、慣れないうちはひどく大変だった思いはないだろうか。どちらか片方を忘れてしまってイライラしたり、急に「お知らせ」などが表示されて何の事だろうと訝しんだりする経験が思い起こされはしないだろうか。それが回数を重ねるごとに徐々に慣れてきて、いつの間にか入力することが当たり前となっていく。

 では、他者のIDとパスワードを入力してログインしようとした時に、同じようにスムーズにログイン作業を行うことはできるだろうか。おそらく非常に強い抵抗を感じる人がいると思う。またコンピュータ関係が非常に得意な人にパソコンの調子を見てもらおうとして、IDとパスワードを教えたにも関わらず、ログイン作業については自分でやってほしいと言われた経験のある人もいるだろう。

 実は得意な人ほど、他者のID及びパスワードを入力するのを忌避する傾向にあると思う。この理由として以下のものを挙げたい。

 a パスワードの秘密性を重要視しており、知ることによるトラブルを避ける。

 b 自分が入力しないことで相手の権限において作業しているという意識を常に持つ。

 他者のアカウントにアクセスする場合、このような意識を高く持っていなければ、いとも容易く不正アクセスの実行犯へと成り下がってしまう。加えて、パスワードの脆弱性と他者と自分の「情報」、「データ」に対して明確な違いがあることを意識することの必要性が見えてくるのだ。

 他者のアカウントは情報を仕舞った家であり、その人を情報面から見た身体である。それが明確に見える人にとって、不正アクセスは他者を弄ることの不快感を禁じえず、もし自分がされた場合の居心地の悪さが想像できる。明確にわからずとも、他者のアカウントを無断に使おうとしたときの得も言われぬ拒否感は本能的に理解した結果なのではないだろうか。

 ゆえに、最初に不正アクセスしようとするときの拒否感を増大させ、その違和感の正体を知らせることが後の行為を抑制することにつながる。同アカウントに対する不正アクセスの回数が増えれば増えるほど、違和感を持たず慣れによって不正アクセスという行為そのものに疑問を持たなくなってしまう。

 そうなる前に、不正アクセスが心理的にどういった影響を及ぼすのかを教える必要がある。これは、あまりにも抽象的過ぎる概念でもあるので教示する内容としてふさわしいかどうかは分からない。もう少し具体的に教えられるような検討をして、はっきりとした形にまとめていきたい。

 ちなみに第4段階についても同じような心理がはっきりと働くものと考えられる。その違いについては明確に示すのが難しくなりそうなので、割愛する。

 4回にわたって、教育面から不正アクセスを起こさせない可能性を考えてきたが、今後の課題としてより具体的な形にして、授業で実践できるような内容になればと思う。




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不正アクセスを考える③

 では、不正アクセスの第2段階目について考えてみる。




 ① 不正アクセスをしようという動機が生まれる。

 ② 相手のIDとパスワードを入手する。

 ③ IDとパスワードを入力し、ログインする。

 ④ 相手のIDでログインした状態で、様々な操作を行う。




 さて②のIDとパスワードの入手だが、入手方法によって色々考えられることもある。多くは次のような入手の仕方だろう。

 a 推測して適当に入力

 b 相手から聞き出す

 c 機器操作やソフトを駆使しての入手

 まずaについては、当人の意識の差によってかなりの違いがある。イタズラ半分で適当に入力してみた結果、たまたまログインできてしまったということも大いに可能性がある。これはパスワードの管理の仕方に係るものでもあり、意図して不正アクセスしようとしたのでなければ、アクセスされた側があまりにも分かりやすいパスワードを設定したことにも問題がある。

 そしてaのような不正アクセスを仕掛けるケースは、相手のことを何もわからない状態でいるとは考えにくい。何らかの接点があることによる推測、または公表されている情報からの当て推量、最も基本的なパスワードで試すなどに限られる。むしろこういった簡単なパスワード設定しているアカウントでは、不正アクセスの実害を増やしてしまう結果につながりやすく、仕掛ける理由を際限なく増やしてしまう。そういった意味で、これは不正アクセスするものの動機を考えるのではなく、各々の管理意識を高めることが最善であると考える。自衛のための手段として、パスワードをどのように設定するかなどは情報の授業でも行われていることだろう。

 ではbやcについてはどうだろうか。不正アクセスを仕掛けようとする人物が、相手から直接聞き出す、もしくは専門的知識を持っち、IDやパスワードを探るという事はどういった事態なのか。これは既に、興味本位の限度を超えていると思っていい。心の内を覗いてみれば、パスワードを聞き出す、専門的知識による探り出しは、不正アクセスをするという宣言にも似たもので、この行動に至った経緯を考える必要がある。

 これは、相手への執着、もしくは相手に付属する何かに執着していると考えられる。一方的な因縁や思い、金銭の強奪などの明確な意識がなければ、bやcには至らない。であれば、これを生まないための方策にはどんなものがありうるのか。(ちなみに犯罪意識がない人物にとっての方策であり、盗難等の犯罪については然るべき措置に任せるのみである。)

 前回のエントリーで上げた個人の情報が持つ意味について考えさせることが最も近い教育的アプローチだと思われる。もしくはパスワードを設定するという事が、家の「鍵」をかけるのと同じことであるという認識を促すことも有効かもしれない。例え使われずとも誰とも知らぬ相手に、その所在を探られ、複製され、持たれるという事実は犯罪におびえて暮らすのと同等である。こういった認識を定てることが重要なのではないだろうか。

 次回は③について考える。
 

 

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不正アクセスを考える②

 前回の記述で不正アクセスには4段階あると述べたが、その第1段階目について考えてみる。




 ① 不正アクセスをしようという動機が生まれる。

 ② 相手のIDとパスワードを入手する。

 ③ IDとパスワードを入力し、ログインする。

 ④ 相手のIDでログインした状態で、様々な操作を行う。



 
 さて、第1段階の①不正アクセスをしようという動機はなぜ生まれるのだろうか。不正アクセスをする動機として大まかではあるが次の3つを挙げたい。

 a 相手の情報を知りたい。

 b 相手のデータが欲しい。

 c 相手のアカウントそのもの及び、それに付随する資産的価値をもつものが欲しい。

 まずaについては、いわゆるのぞき行為のようなものである。個人情報やその当人に関わる何らかの情報をみたいという欲求から不正アクセスという行為に至る。またbは当人が所有している何らかの価値を有したデータを己が物にしたいという所有欲が生じている。

 この2点に共通していることは、不正アクセスを行う人物にとって、相手の有する情報やデータが周囲の人物にとって価値があろうとなかろうと関係なく、当人のみが価値を理解していればいいという点である。同時に現実世界における物体ではなく、「情報」であることを理解したうえで、その価値と相手が所有しているという事実を認めている。

 知的財産権と個人情報保護という点で、情報教育にとっては非常に身近な話題でもある。権利についての説明や個人情報を大切に扱うといった内容の授業を行うことは重要であり、多くの教科「情報」でも取り組まれているだろう。しかし、もうすこし心情的に踏み込んだ解釈をしなければ、不正アクセスの増加に歯止めをかけることはできないだろう。

 それは、特定の人物が所持する情報・データが価値を持っているという事実が、その情報・データを所持する人物によってのみ管理・保管されなければならないということ。併せて、その情報・データに他者が手出しすることは体の中に手を突っ込んで、かき回すような苦しさを味あわせているのと同じであると理解させなければならない。

 情報・データをコピーし、複製した情報・データであっても不正アクセスした当人が所有できたという事実に満足している状況であっても、本来の情報・データを所有する人物にとって不快になりうるのだ。aやbといった欲求も持つ者に対して、そういった事実を伝えることも情報教育の一端に加える必要がある。

 そしてcについては、なりすまし等の迷惑行為や情報に付随する資産価値を目当てとした窃盗・盗難であり、情報教育というよりは一般的なモラル・道徳的観念に基づく行動に関わる部分が多い。ということで、こちらは情報教育的アプローチとしてはごく一般的な道徳とかぶるので割愛する。


 第2段階については次の投稿にまわしたい。

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不正アクセスを考える①

<不正アクセス>アメーバピグに 男子高校生を書類送検

「ピグ」不正アクセスで中1女子2人を補導

「アメーバピグ」不正アクセス容疑で補導 兵庫の中2、他人のIDで

アメーバピグ、小中生の不正アクセス相次ぐ 8人摘発

 何度見たか分からなくなるほど、学生の不正アクセス事件が相次いでいる。以下の資料の中では平成23年度の不正アクセス事件の被疑者で最も多いのが10代であると明示されている。

不正アクセス行為の発生状況及びアクセス制御機能に関する 技術の研究開発の状況について

 比較的年齢が若い世代に集中するのは利用率との関係もあるので不思議ではないが、それでも現状に対して情報教育でできる何らかのアプローチを考えなければならない状況ではある。さらにいうならば、上記の記事の中でも犯罪を行ったにも関わらず、「摘発されるまで犯罪であるとの認識がない」とある。ならば、なぜこんなことになってしまったのかという原因とそれに対して情報教育としてどんなアプローチをすることが有用なのかを検討しなければならない。




 ということで、まずここでは、不正アクセスに至るまでの段階について書いていくこととする。個人的な意見ではあるが、以下の四つの段階を経ているものと考えられる。


 ① 不正アクセスをしようという動機が生まれる。

 ② 相手のIDとパスワードを入手する。

 ③ IDとパスワードを入力し、ログインする。

 ④ 相手のIDでログインした状態で、様々な操作を行う。

 
 この4段階のそれぞれに不正アクセスを行わない何がしかのブレーキがあり、その中でも情報教育として出来うるアプローチがあるのではないだろうか。具体的な行動理念とブレーキ、アプローチについては別立てしてまとめていきたい。


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知識は栄養。

 デジタル教材について考えていた時に、唐突に思考が飛び、なぜか生徒に勉強させるという事は、木を育てるという行為に似通っているのではないかと思い至った。それについて綴っていく。一応授業を行っている姿に重ね合わさって見えたものである。

 まず地面に若木が生えている状況を想像してほしい。この若木こそ生徒であり、一定の広さの土地に何本もの木が植わっている状態が見て取れる。すなわち学校で学ぶ生徒の姿に近しいものである。基本的に木は成長するために地面から水や様々な養分を吸収する。この地面に含まれる水や養分が知識に当たるものだ。

 地面に含まれる水や養分に様々なものがあるように、知識と言っても色々なものがある。特に学校という地面には、固体化した栄養ともいうべき、教科書に代表される知識が豊富に埋まっている。教科書の知識の中には分かりやすく水のように吸収されやすいものもあるが、あまりにも内容が難しく固体化したままで知識として吸収されにくいものも存在する。

 それを水をまいて柔らかくするように、吸収しやすい形に変えるのが教員である。また場合によっては、不足している養分を地面に撒くように、補足知識を伝える。このとき、出来るだけ偏らないように一斉に伝えている姿は全体指導を行っている姿のようでもある。

 さらに、教員の役割としては伸びる方向の見極めをするような行為に近い。まだまだ小さな若木であり、見えやすい位置にあることから、伸びる方向があらぬ方に偏ってしまう場合には、一つの支えとなるような軸棒を立てて少しばかり調整をかけてやる。この軸棒が曲がっていたり、妨害にもなってしまうような立て方になると、生徒の可能性を潰してしまうと危惧されるのかもしれない。また、あまりにも統一的なやり方で木の生長方向を限定してしまうと個性がないような育て方をしていると指摘が来る可能性も考えられる。

 では、こういった木に対して、デジタル教材を与えるとは一体どういう事態になるのか。私の個人的初見としては、栄養剤を含んだ注射を幹に直接さしてもらうようなものだと考えている。しかも、若木の要請に応えてである。デジタル教材はこれまでの教科書や資料集などに比べると情報量が圧倒的に多く、栄養と考えても非常に濃いものである。加えてネットに接続していることも想定すると、自ら望んで多くの情報を引き出すことも出来る。ゆえに栄養剤の注射と例えてみた。

 これは、地面に撒いた栄養だけを吸収するよりも遥かに吸収率が高く、多くの効果が期待できるだろう。教材に出来次第で、知識を教員がわざわざ分かりやすく説明する必要性もなくなるかもしれない。そう考えると、デジタル教材導入を加速させようとするのもわかるというものだ。

 しかし、ここで一つ問題が発生する。若木の要望に応え望む知識(栄養)を与え続けた結果出てくるのは、好き放題に伸びる幹と枝である。多くの知識を得ることで、成長の限りを尽くすのは喜ばしいことだが、それを形よく調整しようと画策するとなると、これは至難の業である。しかも、若木が望んで手に入れた知識の内容が脈絡のない系統を辿って行ったとなると、それを把握し、間違った点がないかどうかを検証するだけでも多くの時間がとられる。これを一人ではなく、多人数で行うとなると途方もない労力が必要となる。

 これを個性を伸ばしたのだから良い結果であると判断するかもしれない。しかし、その個性を本当に社会は認めているだろうか。結局のところ、いくら個性を伸ばしても、企業ですぐに役立てるような画一的な姿を望んではいないだろうか。それを今一度考えてほしい。また本当に個性を伸ばしていいとするならば、それに対応できるだけに人数を確保してほしい。少人数でならば対応できることも、30人に対してたった一人で全員の要求に応えられるような余裕はうまれてはこない。

 また、この栄養剤投与は一定以上の成長率を有し、同じような成長速度の集団である場合には有効であるが、ゆっくりとしか成長できないものには極めて有害であることも考慮しなくてはならない。多すぎる栄養が毒となって吸収されず、腐ってしまうように、多すぎる情報量はオーバーヒートを起こさせてしまう危険性もあるのだ。

 こういった状況を鑑みたうえで対策を考えていくことが早急に必要である。改めて考えると何故木の成長に例えようと思ったのか自分の思考を疑うが、何とはなしに「知恵の実」という言葉に思いついてある意味納得した。若木はいずれ立派な木へと成長し、新たな「知恵の実」を落とし、後世へと伝える。実を手にするのが一体誰になるのかは分からないが、腐った実とならぬよう手入れをすることもまた周囲の役目である。

 


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教育って誰の為?

 studygiftが話題に上がっている。別にどうでもいいなと思っていたのだが、ふと気になる点があったのでそれを踏まえて今回の騒動を考えてみるに至った。

 まずstudygiftの取り組みそのものは奨学金の新たな形としてみるにはいいのではないかと思う。肯定的意見にもあるように援助したい人が勝手に援助するだけなので、する側とされる側双方にとって損のない話なのだろう。いわゆるSNSの使い方として考えても、やったもの勝ちやアイディア勝ちという点からすればしてやったりというものなのかもしれない。

 否定側にしてみれば、援助される人間がお金をもらうに値する人物かという点が重要なようである。これまで支給されていた奨学金が停止するのは、それをもらうに値する人物ではなかったのだから、今回のような「やったもん勝ち」という形で金をもらうのは許されることではないというものだ。

 この点だけに注目してもかみ合うものではないので、もう少し大きな視点に立ってみてほしい。それがタイトルに出した「誰のための教育」なのかということである。結局のところ支援を受ける坂口さんや中間に入るstudygiftにとってみれば、教育を受けたい個人の目的が叶えばそれで万事問題ない。教育を受ける個人及び自団体にとって損になることは一つもないのだから。

 では支援する側にとってはどうなのか。これは一人の個人が教育を受けるだけが目的で構わないのか。これまた支援する人が個人でそれで構わなければ問題ない。しかし、集団となればどうだろう。ネット上で反対意見がでるように、支援する人を選別したいと思うだろう。これは、集団いわゆる社会性を有した人たちから金を出すという事で、たとえ自分でなくとも社会から出ると考えると何の理由もなく金を出すのは損にしかならないと考える人もいるのだ。

 そういった意味でもし教育に金を出すならば、その成果や功績に対してのみ投資したいと考えるのも当然なのではないだろうか。義務教育とて、ただ漫然と金を出しているだけではない。教育にそれだけの金をかけることが後につながると思うからこそ義務教育は無償で国が行っているのだ。

 studygiftは今後支援の幅を広げようとしているようだが、教育支援を単なる慈善と考えているのであれば、かなり早い段階で失敗につながると思う。奨学金を受けていた人物のツイートで「自分は奨学金の返済を今行っているが、今の学生の助けになっていると思うからきちんと返していく」という趣旨のものがあった。結局のところこれに尽きると思う。確かにある人のツイートの通り日本には無返還の奨学金は少ないかもしれない。しかし、返還されている奨学金が次世代の為になっていることを考えれば、それもまた致し方なしと考えることが出来るのではないだろうか。最もだからと言って現状の奨学金の制度のままでいいとは考えていないが。

 こういってなんだが、今回のstudygiftはプレゼンの仕方を失敗したのではないかと思う。困っている人を助けたいとするのはいいのだが、困っている人と自団体に利する形のメリットしか見せることが出来なかったのがマズイ。活動内容の報告や企業メリットを打ち出しているが、善意の大好きな対象にだけアピールするのではなくネット社会にアピールしたために、社会へのメリットも要求されてしまった。これでもし援助をうける坂本さん本人が援助の代わりにボランティア活動などを行う等、即時的な社会要求や長期的な研究成果で応えるならば事態は変わっただろう。

 むしろそういった社会への還元をアピールしなければ、いくら苦学生がいるといっても今後得体のしれない他人に援助をしてくれるとは考えにくい。下手をすれば何もせずとも金銭をもらって遊んでいる学生を量産してしまうかもしれないのだ。

 ただでさえ、今のネット社会は妙な構成になってきていると思う。家族や地域コミュニティなどへの参加が薄れたぶん、ネット社会への意識が高まってきた。自身がネット以外で関わるコミュニティに所属出来なくなった代わりにネット上にあるより大きな共通認識を抱えた、分かりやすいコミュニティに所属し社会意識を持とうとしている。

 そんな社会の中で教育に関する金を無心しようとするのであれば、社会性を見据えたアプローチをしなければならなかったのではないだろうか。いずれにせよ今後の取り組みを見ていかなければ判断はできないだろう。日本だけではなく、海外へのアピールを考慮も入れてくるかもしれない。いずれにせよ話題には事欠かないだろう。

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困ること

 情報教育に限ったことではないのだが、自分の意見を書くにしても伝えるにしても困るのが言葉の定義である。情報教育を語る上で重要な「情報リテラシー」という言葉がある。しかしコンピュータに関係しないところで定義された言葉であることも事前情報としては知っておいた方がいいだろう。そしてこの「情報リテラシー」と似たような言葉が多くある。

 まずは「情報活用能力」である。1986年の臨教審こと臨時教育審議会で述べられており、現在では「情報リテラシー」とほぼ同一の意味で使われていると思っていいだろう。同じく「情報活用力」という言葉は学究的な意味合いと区別するために用いられたという事なので、一般的な解釈とするならば、これまた同一視していいのではないだろうか。

ということで
 
情報リテラシー = 情報活用能力 = 情報活用力

が成り立つと考えてほしい。ちなみにここではあくまで一般論と考えているので、本当に情報教育関連を専門に扱う人たちからは異議があるものと思われるが、そこまでは考慮しない。

 次に巷で大流行りしている感の「情報モラル」という言葉がある。これは「情報リテラシー」の中でも倫理的な部分を扱ったかなり具体的なものであるが、日常的なルールや規範、慣習・道徳といった内容から派生していることも踏まえて考える必要がある。

 またwikipediaの情報リテラシーの項目の中には次のような記載がある。



「財団法人社会経済生産性本部認定UBA能力試験」のウェブサイトにある「情報リテラシーとは」は以下の記述をする。

1. 情報は様々な形式で表されるため、情報リテラシーは、これまでの文字に代表される印刷物以外の媒体についても対象となる。
 
2. 文字の読み書き以外にも、視覚、聴覚、コンピュータ(携帯機器、ネットワークを含む)に関する能力などが含まれる。

3. 大きくは、情報を収める媒体に注目したメディア・リテラシーと、情報の高速多量の処理が可能なコンピュータに注目したコンピュータ・リテラシーに分けられる。



 現在のUBA能力検定試験のページには上記の内容が見当たらなかったので、以前書かれていたのであろうと推測するしかない。また私の探し方が悪かったばあいもあるので、もし見つけた場合には教えて頂きたい。

 さて、注目すべきは3であり、情報リテラシーは2つに分かれるとされている。それが「コンピュータリテラシー」と「メディアリテラシー」である。この2つも色々と定義があろうが、分かりやすさを重視して情報リテラシーに内包されるものとしておきたい。

 さらに、「ネットリテラシー」という言葉がある。これはメディアリテラシーが様々な情報媒体を含んでいるのに対して、インターネットだけを対象としているものと考えられる。併せてネットリテラシーを理解・実践するためにはある程度の技術力も必要となるので、コンピュータリテラシーの内容を一部含まなければならないだろう。

 加えて、ネット上の俗語として出てきていた「ネチケット」なども知られている言葉に挙げられる。これはネットリテラシーの中に含まれるものだろうが、多くはコミュニケーション時に必要とされるものと考えると完全に同一視はできない。ゆえにメディアリテラシー、コンピュータリテラシー、ネットリテラシーの領域に跨りつつ、情報モラル・情報倫理の基本的な部分が表層化してきたものと考える方がいいのかもしれない。

 というわけで以下の図を作成してみた。かなり大雑把であることも否めず、これが正しいとも言えないが、一つの意見と見てもらえれば幸いである。

図

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情報の受け手



Pixivで「絵を描くのを止めろ!」とメッセージが来た件

pixivをやってると就活で差がつく!誰が描いたかわからないし、上手な嘘で自分の作品だってことにしちゃえ!☆

虚構新聞が「橋下市長、小中学生にTwitter義務化」記事について謝罪

 ここ2,3日の上記3つの内容を見てみると、やはり情報の受け手にも教育の必要性があると感じざるを得ない。1件目は自分のエゴを主張しており、2件目は情報の受け手としても問題あるが、偽ることそのものも非常識としか言えない。虚構新聞については元を確認する手間を怠っている現状に危機感すら抱いてしまう。

 すでに一部生徒には授業で虚構新聞の顛末などを話しているが、今後pixiv関連についても取り上げなければならない題材になるだろうと考えている。ネットの使い方を間違っているというよりもネットにおける自分を拡大解釈ししている節があり、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアニズムが横行している例ともとれる。

 ネットの一般化が進んだために、ネットを使う側の問題点がどんどん炙り出されている。事例を事細かに授業の中で取り扱うことはできないが、少しなりとも何が起こっているかの現状を知らせることも今の情報教育には必要なのではないだろうか。

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情報教育の受け入れ先

 一概に情報教育と言っても、その幅は広い。情報機器の初歩的技術からプログラム構築が出来る専門的知識の習得、日常的に使えるネットワークの活用方に加え、そのネットワークを管理するための技術、話題の情報モラルなども含めれば取り扱うことのできる内容は多い。

 ゆえに情報教育を行う対象にはその内容を選定して行く必要がある。学校では教科書の選定がそれに当たり、社会での情報教育となればテーマによって内容が選定されることになるだろう。以前も述べたが、現在の大多数の社会人は中途半端に覚えた技術と一昔前のネットワークの自由性を過信している節があるので、少ない機会を活かし徹底的に技術に注目した情報教育を行う方がよい。また継続して授業を行うことのできる学校の情報教育ならば、倫理と技術の習得を両輪に行うことに意味があろう。しかし、ここで教育を行う意味が問われる。

 情報教育を果たしてどれだけの人が受け入れてくれるのだろうか。世間一般での情報教育と言えば、それは初歩的な情報機器操作習得と情報モラルが挙げられる。その先の専門的知識については、一般人にはあまり縁のないものと思われてはいないだろうか。

 今は必要がない専門知識とて、将来的に関わりをもつ可能性はある。しかし、それをアピールするためには、安定した受け入れ先を明確にしなければならない。今の教育を受けているのは子どもたちだが、学校に通わせている保護者達が、子どもの進路に立ちふさがる情報教育の受け入れ先に不安が生じれば、わざわざ情報の専門教育を受けさせる意味を積極的に見出せるかは怪しい。

 そういった意味で、情報モラル教育が殊更注目される現在の状況は、情報教育全体から見ればあまり好ましいものともいえないかもしれない。ただでさえシステムエンジニアの職場にブラック企業が多いとの噂が流れている現況は専門知識への渇望を減退させかねない要因の一つともいえる。

 情報モラル重視によって生まれた一般的情報教育への注目度を利用し、専門的情報教育の推進を図らなければなない。これには多くの有用な人材を輩出することで受け入れ先を確保し、情報教育及びその先を見据えた改革の一端となることも期待されているのだ。

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間違いを見つけるのならば

 ある方のツイートの中に「日本の教育の欠陥が表れている」とあった。ツイートの内容は教育について語っているわけではなく、ある人の論理についての言及だったのだが、この言葉はひどく残念に感じた。確かに日本の教育では論理教育が不十分であるように思える。義務教育であっても、中等教育でも、高等教育でも触れている場所は少ないかもしれない。

 だからこそ改善する余地があるのだ。日本の教育をこき下ろし、海外の教育と比べてここがダメだと指摘する声は多い。しかし、日本の教育の良い点を活かしたうえで、良い事例を取り入れることが最も望ましい。否定の言葉を発する時、それは必ず後ろ向きである。振り返ることは必要だが、自ら前を向かねば先へは進まない。

 日本の教育の欠陥ならば、補う余地を見つけ出せはしないのか。個人で取り組まれている動きに参考となるものはないのか。言葉の中に諦めてしまっているような思いがありそうで、非常に残念である。

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授業の「間」

 チーム・ティーチングで行っている「情報」の授業だが、今年は一クラスごとに協力教員が変わる体制となってしまった。全員数学科から人数を割いてもらっている。まあ、メインは変わらないので、基本的な進み具合は変わらない。ただ、2進数の授業に関しては、協力教員の方が専門に当たるので全員に1~2時間程度で教えてもらえるようにお願いした。なので、2進数の授業では、後ろに下がってサポートに徹するのだが、複数の教員が同じ内容、同じ時間数で教えているのを見ることになる。そうするとそれぞれの教員の教え方の違いもでてくるが、それ以上に授業を行っている時の生徒と教員の「間」がくっきりと見えてくる。

 私の個人的な感想ではあるが、うまいと思う教員は生徒に考えさせる「間」のとり方がしっくりくる。教える内容があまり多くなくとも、ゆったりとした話し方で話の「間」が空きすぎず余裕があるように感じ取れる。騒がしい生徒に対して沈黙の「間」を作り、わざと落ち着かない時間を作る。

 これらは、生徒と教員の距離をしっかりとっていることや内容の根幹を理解していることから生まれるものであり、一朝一夕で身につくものではない。「間」のとり方は生徒やクラスごとに変わるもので、教員の作る「間」を浸透させるのが、授業を受けさせる基礎を作る事にもつながる。新人教員であるほど生徒に振り回されまいと自分の「間」を過度に主張するが、一方的な授業となって生徒が内容を理解するに至っていない事例もあるように思える。

 しかしこういった技量は果たして誰かが評価してくれるものだろうか。以前の教員の資質ではないが、こういった経験に支えられる技術は、それぞれの教員が培い、人によって全く違うものである。一部は方法論として語ることも出来るだろうが、実際にマニュアル化できるようなものでもないと思う。高い授業技術を持っているにもかかわらず、内輪でもなかなか出づらい授業の上手さについて語る機会が少ないのは実に残念である。

 

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情報教育はどこへ向かうのか。

 平成25年度から高等学校も新学習指導要領で行われるようになるということで、多くの学校に来年度の教科書見本が届いていることだろう。教科「情報」においてもそれは変わらず、「社会と情報」及び「情報の科学」の2種類が送られてきた。学習指導要領解説で指摘されているとおり、義務教育段階での情報教育の充実と成果を踏まえて「情報A」が解消され、大分専門性を増した内容になっている。詳細については各自で確認していただければいいだろう。

 しかし教科「情報」は今後どのようになっていくのだろう。というのも、このまま高等学校で必履修教科として扱うことが妥当と言えるのかが疑問なのだ。私自身は教科「情報」はあった方がいいと考えている。だが、現在の科目内容のままで構わないのか、果たして時代に即した情報教育と言えるのか判断しかねていると同時に、社会で生きる為の情報教育の実践としてふさわしいものと言えるのかを検討していかなければならないとも考えている。

 そもそも、高等学校で必履修としての情報教育を行う場合の落とし所はどこになるのか。これが今一つはっきりしないことも、情報教育の盛り上がりが欠ける点につながっている。近年を振り返ってみれば、世界史の未履修問題が発覚した時期に、教科「情報」も一部進学校では数学に割り振られ、授業の実態がなかったことも記憶に新しい。新しい学習指導要領においても、教科「情報」がなくなるのではないかとの噂が実しやかに流れていたのを耳にした人もいるのではないだろうか。

 センター試験の科目に「情報関係基礎」が設置されてはいるが、これも他の8教科との兼ね合いの中で引き出されている程度のものであり、受験者数を見ても決して多いとは言えない。「情報モラル」の必要性が叫ばれたことで見直される風潮があるものの、早い段階からの教育が必須であるとの点から主に小中学校からの取り組みに注目が集まり、高校は今まで通りで変わり映えしないものとなりがちである。

 実習としての側面も些か弱い。いわゆる文書処理、表計算、プレゼンテーション等は他の専門教科ですでに行われている。現時点で比較的多いのは商業教科の「情報処理」や「商業技術」、「課題研究」等が挙げられ、新しい学習指導要領においても引き続き実習で行われるだろう。専門教科では資格取得という特性が強く出ていることもあり、知識面でも深度が「情報」よりも一部高く、徹底的に指導しやすい。

 強みとしては情報モラルのネットワーク内情にスポットを当て始めている点にある。しかし教える内容としては「情報モラル」に当たる上、それだけで授業を行うには教育内容があやふやになりやすい。いわばネットワークや情報機器に特化した「道徳」と考えてもらえばイメージが付きやすい。となれば、如何に身になる授業とするのが難しいかが想像できるだろう。

 さらに他教科との連携がしやすいというも特徴ではあるが、これは「情報」の授業というよりは、他教科の内容が授業のメインとなり、「情報」の内容が手段になるという点で「情報」の授業と銘打つには些かの疑問が残ってしまわないだろうか。それで構わないとも考えるだろうが、他教科の教員との連携がうまく取れなければ組みにくい授業でもあり、実施の時間はごく限られてしまう。

 また、デジタル教科書への対応も迫られていることで、教科「情報」も何かしらの影響があると考える方がいるかもしれない。しかしデジタル教科書はあくまで全教科対応を主軸としており、元からある教科「情報」に改めて対応を求めるという事はないだろう。ノウハウの提供という点においてもどの程度参考にしているのかが見えてこない。

 こうしてみると、現時点で必履修としての教科「情報」は他校種、他学年、他教科との狭間にかろうじて存在しているような状態にみえてくる。横断的教科と言えば聞こえはいいが、単一教科としてみれば、浅く広くが定着してしまい、教科としての深度がいまいち掘り下げられずにいる。

 となれば、むしろその特質を存分に発揮させてしまう方がいいかもしれないと思える。すべての教科において情報機器、ネットワークを使う授業の場合に「情報」の単位を設定する。規定数の実習を他教科でこなすことで、一部単位の認定、他の知識面に関しての授業を1単位程度行わせる。また「道徳」および総合的な学習の時間、ホームルームなどで情報機器を積極的に活用させる。専門教科に関してはこれまで通りで構わないが、小中での教育内容に接続できるよう配慮は必要である。

 非常に変則的で実行性に欠けるだろうが、将来的にこういった教科の在り方もあっていいのではないかと思う。浅知恵なりに30~50年後を見据えて、今後の必須教科としての情報教育の形を提案してみた。

 

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授業に臨むということ

 私は規模の小さな学校で「情報A」の授業を行っているので、ここ数年間一年生全クラスの授業を受け持っている。そして各クラスの数時間の授業が終わった後に親しくなった生徒たちから必ず言われることがある。それは「先生の授業はすごく眠くなる」というものだ。この発言をどのように考えるだろうか。

 大抵の人は「授業がつまらない」から眠くなってしまうのだろうなと捉えるだろう。例えばつまらない理由として授業内容が難しいという事例を挙げてみよう。確かに私の「情報A」の年度初めの授業は、あまり面白いものでもないと思う。出来るだけ実習時間を多めに取ろうとしているので、最初のうちに「コンピュータの五大機能」や「知的財産権」、「2進数」、「個人情報」などを扱う。ゆえに詳しく説明しようとするとついていけずにつまらないと感じる部分もある。

 また私の教え方が未熟なせいでつまらなく感じさせてしまうという理由も考えられる。前述したような内容で語句の説明や数学的要素を含んだものは小ネタを挟みつつも知識となるように扱ってやらなければつまらないと感じさせてしまう。また本当に個人的な理由として、私の声質が低く、声の緩急をつけて話すので余計眠気を催してしまうと毎年のように言われている。さらに今年は「簿記」の授業も担当しており、丁寧に教えようとすればするほど眠気を刺激しているようでもある。

 さて、こんな授業をどう思うだろうか。やはり私の授業がつまらないと判断するかもしれない。ただ実際にそう判断できるかは授業を受けている生徒自身を見てからにしてほしい。眠くなりつつも必死で聞いている生徒たちがいる。知識にしようとしている生徒たちがいる。それはなぜか。単にテストで低い点数を取りたくないためだけだろうか。それもまた目的としては至極正常である。だが、それだけでは意味がない。何のために授業を聞かせるのかを今一度考えてほしい。

 まだまだ私自身の授業力を挙げる必要性はある。現在行っている授業も同じ内容であっても様々な点において趣向を凝らし、授業を展開するために去年までとは少し変わっている。その中で決して誤解しないでほしいのは私はおもしろい授業をしようと思っているのではない。分かりやすい授業、もしくは後に知識及び知恵となる授業を行いたいのだ。

 とはいえ、授業で習ったことを示すために即時的な結果を出すことも必要だろう。ペーパーテスト、実技テストの結果がそれにあたる。具体的には「情報」の授業であれば、情報技術の向上及び情報モラルの習得、「簿記」であるならば会計能力の取得、分かりやすく言えば「簿記」資格の取得になる。

 だが、本当に授業を受けた全員、もしくは知識・技術の習得に至ったものが後に役に立つと言えるのか。資格の取得に至った生徒の成果が後に分かりやすくあらわれるときがあるのか。それはこの先の生徒にしかわからないことだ。

 ならば、テストはどのように判断するのか。点数もまた基準ではあるが過信するのではなく、そのテストの解き具合を判断するのが私のやり方である。なぜできなかったのか、その理由を直接生徒に確認する。責めるというよりは今後の授業の受け方をどうするかをたずねるといった行為に近い。

 やりたくもない勉強を無理矢理させられていると思うのであれば、なぜ学校に通っているのか。まずは生徒たちに目的を見出させなくてはならない。留年を避ける為、卒業するということが目的であるならば、最低限課せられた単位を取得することを自覚させる。授業が分かりにくいという文句があるのならば、分かりやすくするよう求めるなり、空いている時間に聞きにいくなり行動させなければならない。目的もなくただ漫然と授業を聞くだけでいさせることこそ無駄な時間につながる。

 生徒自身が目的を持たず授業に臨もうと思わないまま、努力しないままだから分からなくて授業が眠いというのであれば、そんな戯言に付き合う必要はない。しかし目的を見出した生徒のためには分かりやすく、後に知識・知恵となるであろう授業を行わなければならない。そうであれば、生徒はたとえ眠くなったとしても次の時間、または別の機会にしっかり対応しようとする。

 これを読んでつまらない授業を行う教員の単なる自己弁護と捉える人もいるだろう。そんな人たちに言えるのは目的をもって授業を受けてみてほしいということだ。自分の目的が明確でなければどんな授業・講義・講演であっても眠くなるだけだ。そして目的を明確にしたうえで授業の評価を心がけてほしい。

 本当に聞く気がある生徒はしっかり授業に対して注文を付けてくる。教員に改善しようとする気があれば、生徒の言葉ではない行動、目線、態度が自然と見えてくる。それにこたえるために切磋琢磨することが教員にも必要である。

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今回のタイトルはどう書いていいのかわからない。しいて言うなら「時間と情報」

 通常の生活で何らかの情報を見たり探したりするのは日常的な行為となっているが、その中で奇妙に思えることがある。それはどんな情報が信頼・信用されるのかということである。多くは信頼しているサイトや信用できる機関及び人物からもたらされる情報こそが確実なものと考えられているだろう。ネットがこれほど広まる前までは、新聞・ラジオ・テレビが確度の高い情報をもたらすことで、現在においても一定の信頼性・信用性を獲得していた。ゆえに今でもネットを使ってもたらされる情報との比較対象として新聞・ラジオ・テレビの情報が使われている。

 しかしネットでもたらされる情報は今一つ信用性がないように捉われがちである。その理由としてはネットと現実に横たわる隔絶感ゆえ、個と集団との差ゆえ、情報に対する責任ゆえといった点が挙げられるのではないだろうか。そして、その一端として「時間と情報」の関わり及び教育への転用について私の思うところを書いていきたい。

 そもそものきっかけとしてはずっと心に引っかかっていた内容である。それは「ツイッターの炎上はブログなどに比べるとおさまりやすい」「ツイッターでの情報は元が辿りやすく、デマが流れたとしても正しい情報が流れることで訂正されやすい」といった類の言葉である。細部については異なる点がある上、どこで発言・もたらされた言葉だったのかは曖昧である。東日本大震災の悪質なデマが流れた前後のような気もするし、もっと前のツイッターの有用性について述べられていた時だったような気もする。ただそれらしき言葉が誰によってもしくはいつ発せられたものであったとしても、「何か肝心な部分を見落としているのではないか」との疑問が強く残っただろう。

 当時はツイッターを妙に持ち上げる社会に対しての反発心からそのような疑問が生じたのだろうと片付けていたが、現状のネットの状況などを照らし合わせて考えると、その「見落としている」情報がなんだったのかおぼろげながら見えてくる。

 結論からいえば、「ネットの情報は時間の中に沈殿・定着していない」ということである。「時間の中に情報が沈殿する」という表現は些か理解がしにくいと思うが、これが一番状況を表していると考えている。ようは、ある情報を思い出すときに、その情報を知った媒体が無意識に入り込んでいるというものである。例えるなら歴史を思い出すときの世界史の教科書や歴史的快挙を知らせる新聞の見出し、テレビで繰り返し流される決定的瞬間の映像などだろうか。もう一つの側面としては大勢の中に残りやすい共通認識とも言える。ネットの情報の信頼性という点においても結局のところ、ここに終始するのではないかと思う。

 情報の信頼度といえば、書籍が筆頭にあげられるが、なぜ書籍なのか。それは一度「本」としてまとめられ、出版の流通にのり、情報が金銭に変えられたことにあると思う。そして、その本の内容は発行された当時の状況を踏まえたものであり、限定された時間軸の中にのみ存在するものである。もし変わらぬ普遍性をテーマにした内容であったとしても、当時とは状況が違うので今は違いますとの言い訳が通ってしまう可能性があるのだ。

 また一度出版された本は修正が容易でないことも、信頼性の高さに一役買っている。本は出版されれば各自の手元に残り、それを書き換えることはできない。第2版以降で修正されたとしても、初版との比較を行うことが出来るので、結果としてどこを修正したのかが記録される。さらに本はタイトルがついていることで検索が容易になっている。これにより一部情報を抜き出したとしても、タイトルを提示すれば原典に行き着き、著作者が意図する情報が劣化するのを防ぐ効果もあるだろう。こういった状況が積み重なることで、本の内容は時間の中に沈殿し、信頼性を高める。

 新聞についても印刷されているという点で、書き換えのきかない情報の提示につながり、書籍と同じような効果はある。ただ新聞の性質上、最新のニュースを捉えようとすると誤情報が増えることにもつながるので、情報の読み手、受け手が時間軸を把握することが必須となる。ただ情報の記録が紙面で行われているので、継続して内容を把握し見比べることで情報の改変も把握しやすいうえ、新聞という記録媒体は入手しやすさがある。

 テレビ・ラジオについては電波を利用することでまさに今起こっている情報を伝える点で優れているが、情報の保持性という点については疑問が生じるところである。視覚や聴覚に訴えることで情報量が紙面よりも増えるが、情報の伝え方のヴァリエーションが増える分、元情報が霞んでいく危険性も孕んでいる。また情報の記録についても映像・音声なので、大本の放送局はともかくとして、誰でも手に入れやすいものかと言われると、本や新聞に比べれば難しいといえる。ゆえに訂正情報も流しやすく、改変された内容との比較がしにくい点も情報の信頼性という点では低く評価せざるを得ない。

 しかし、放送局という組織の特性から世間への影響は大きく、一度に与える情報量の多さと記録の鮮明さゆえに時代の中に残る情報を提供している。媒体としての特性が個人に対して他者に頼ることのない情報の提供を可能としている点は評価しなければならない。共通認識としても同じ情報を流すことのできる放送局は時間の中に沈殿する情報をもっともわかりやすく提供できる。

 ではネットの情報はどうだろうか。昨今の情報は時間の中に沈殿しているだろうか。個人的な意見としていうならば、ネットの影響力は時間の中に記録されるが、ネットの情報が時系列に乗るほどの影響をもたらしてはいないと思う。

 その理由としてまず一つ目に、共有概念の低さがある。ネットは時間をかけずに情報を拡散性することについては新聞・テレビ・ラジオなどより優れている。各個人の有する情報の出し合いという事も含めてみるとツイッターなどはとても早く情報の提供ができるが、見知らぬ他人が一つのツイートを見たとしても、同じ情報を見たといえるだけの共通項を見出せるかという点において確証をもつことが難しい。なぜならば本当に同じツイートだったのかを確かめるためには最低でも「誰」が「いつ」ツイートしたという情報を共有しなければならないからだ。放送局や新聞社であれば、組織名もしくは媒体名を共有できることで検証できるが、それができない個人のもたらす情報では共有性という点において他の媒体より著しく低下する。

 また二つ目に情報の変遷の不透明さが挙げられる。ネットの情報を見ていて最も困るのが、過去の情報の削除である。ネットの性質上、いつまでも同じところに情報をストックしておくことが出来ず、優先度が低いと思われる情報、もしくは不都合な情報は場合によってす削除されてしまう。一部ユーザーによって保存される情報もあるが、それが本物かどうかを調べるにも手間がかかる。

 これまでネットで炎上した事件なども振り返ってみれば、ほとんどの場合元となった情報は消されてしまっている。ゆえに情報がどう変わったかを個人で確認するのは非常に難しい。加えていえば、デマを流したとしても削除してしまえば証拠は残りづらいうえ、ツイッターなどの少ない上の場合は、解釈を後に解釈を変えた見方を提示することで、情報の確度に疑問を投げかけることにつながってしまう。

 さらにネットではたびたび過去の発言が現在発言されたように取り上げられることがある。元を確認しようとも時間がたっているため削除されたり、確かめるのが面倒だったりするせいで、結局現在と過去が混同されたまま誤認された例も事欠かない。

 以上二つの点から見れば、ネットの情報は時間の中に沈殿しにくい。時間をかけずにいくら広がりを見せる情報であっても、共有を生み出しにくい環境から情報の上澄みだけが独り歩きし、さらに本当にあったかどうかも疑われる情報では信頼性も生まれない。よってネットから情報を得たという認識が薄くなって、記憶に残らない。ネット情報で共有及び信頼にあたる情報と言えばサブカルチャーぐらいではなかろうか。

 そしてこういった「時間に沈殿しにくい情報」が最初に述べたツイッターの「炎上のおさまりやすさ」と「デマの正しやすさ」につながることになる。

 情報が伝わるスピードが速いという特性があっても、共有が薄いゆえに関心を引きとめられず、炎上がそれほど広がらない。情報の確実性を高めようと、情報の変化とともに内容を書き換えてしまっては、情報の責任が薄くなり、デマとなるような事実であっても躊躇いなく書いてしまう。

 つまりネットの情報には信頼性が薄いという特性があるからこそ「炎上のおさまりやすさ」「デマの正しやすさ」があるので、それを過信していればいつまでたっても現状のままだというイライラが反発につながったのだと思う。今後の問題としてはこの特性をどう授業で伝えるかにシフトしていくことにして、今日はこれで綴じたいと思う。

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不自然なまでの対等概念。

 「情報」の授業で、「インターネット」について説明したり、情報モラルを教える場合に必ず伝えていることがある。それは、「ネットで交流する場合、自分がどんな人物であるか示す情報が少ないのであれば、節度を持った態度で相手に接しなければならない」というものだ。これは誹謗中傷を書くことのないよう促しているのと、無用なトラブルに巻き込まれないための第一歩であり、具体的事例と併せて教えている。

 しかし、最近のネット事情を考えると、もっと具体的に踏み込んだ内容を教える必要がでてきたと思う。その理由がタイトルに書いた「不自然なまでの対等概念」である。きっかけはツイッター等のSNSで見かけるやり取りにあった。もともとインターネット上のやり取りでは言葉による応酬が中心であり、相手の見えない気安さも手伝って誹謗中傷が発生していた。またネット上に投稿、掲載された僅かな情報からでは各個人の判断がしにくいことで、対人トラブルに発展する例も珍しくなかった。しかし最近のツイッター等に代表される対人の傾向は少し違う。

 近年は著名人がネットを使った交流活動を行ったりネットを媒体とした活動をする人物が堂々と自己を晒して発言していたりする。こういった人物と直接やり取りできることがネットの利点なのだが、そのやり取りにおいて本当に相手を見て交流しているのかという疑問が生じたのだ。

 これは単に年上だから敬えとか、相手の立場が上だから敬語を使えと言った類のことに留まるものではない。敬語表現はツイッターなどの場合文字数制限があることで敬語を使うと1ツイートでおさまらなくなるという事情はある。しかし文にあらわれる敬意とは敬語表現だけではない。面と向き合わずとも、対峙する姿勢に尊重の念を感じることが出来る。今のネット上のやり取りにそういった尊重の念を感じる機会は少ない。

 一方的な主張、相手のいうことを聞き入れず否定するだけの言動、本当に相手のことを知ろうとしたのか分からない即レス。そこには、やり取りする相手がネットを仲介したことで対等な立場であると勘違いしている節にあると思われる。ネットでは、「同じ人間なのだから対等な立場である」というものではない。ネットの応対は風呂場での裸の付き合いではないのだ。必ずそこには立場の違いが存在する。

 だが、それを無理矢理消し去ってしまおうとする。そして消し去った場合には、自分の我を通すためだけの論調に終始する。そこに相手の意思は存在しない。結局のところ、自分を語りたいだけの為に立場を消し去り、相手が主張しようとすると、それは対等ではないと言ってのける。それが随所に見受けられるようになったと思う。

 これまでの教え方はあくまでトラブルに巻き込まれないような対応、積極的な誹謗中傷を行わせない対応であった。いわば被害者にならないため、加害者にならないためのものであり、ネットを一人でも謳歌できる対応だったのだ。しかし今後は相手の存在を尊重した対応を行えるような指導を心がける必要がある。

 具体的な内容などは「授業提案」で書けるようにしていきたい。
 

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保育体験義務化。

 あまり政治ネタに首を突っ込みたくはないが、案を出した当の本人たちが引っ込めそうな展開もありそうなので疑問を含めて考えてみる。詳細は以下のリンク先から。

親も教育…虐待・モンスター防止へ維新が条例案

保育体験義務化 橋下市長、維新案に否定的

 なんとも言えず大きなため息をついた。実際どうなるかはさておき本題に行きたい。注目したいのは以下の点である。

 ① 保育体験義務化や副読本の配布で虐待やモンスターペアレント防止への効果が本当に表れるのか。

 ② 保育体験義務化による保護者や教育関係者の負担について考慮しているのか。

 ③ 教育機関は「親になる為の教育」を提示し、実施できるのか。


 大雑把に括れば以上の3点である。

 まず①だが、なぜ保育体験義務化と副読本配布で効果が表れると考えたのだろうか。確かに記事にある通り「親になる心の準備のないまま子どもに接し、途方に暮れる親」はいるだろう。核家族化が進むことで、親となる上で一番参考にしやすい、自分の「保護者」が傍にいなければ、自分で試行錯誤するか、他の手本を探すしかない。都市化の影響も進み、孤独な親が増えてしまうことも想像に難くない。ならばということで保育体験義務化なのか。当然それだけはないのだろうが、少々短絡的に過ぎないかとの疑問を感じてしまうのも止められない。

 そもそも保育体験を保護者にしてもらうことで期待できる効果を過大評価していないかと考えてしまう。こういっては何だが保育体験自体は行って悪いものではない。自分の子どもを含めた複数の子どもとふれあってもらい、さらに保護者同士が体験の中でお互いに関わってもらうことでいい影響が生まれるかもしれない。子どもと保護者、教育関係者の結びつきが出来ることで今後の関係性が良い方向に向かうことも考えられる。しかし、それだけで虐待やモンスターペアレントは減少するのかは甚だ疑問である。

 少し話がそれるが、私はモンスターペアレントという言葉が嫌いである。厄介な保護者はいるが、それを一口にモンスターと言ってしまうのは、始めから話の通じない存在として扱ってしまうような気がしてしまうのだ。自分の言葉で教育について話すというのであれば、そういった言葉を持ち出した時点で視点が保護者と教育関係者からずれてしまっているように思える。

 話を戻そう。保育体験の効果は果たして表れるのかが疑問だが、そういった論文やレポートと言ったものはあるのだろうか。YAHOO検索で「保育体験」「虐待」「減少」を調べた結果、参考となりそうなものに、保育体験を中心とした教育プログラムの有効性というものがあったが、2002年のデータであることやプログラム自体が2日であることも考えると今回の提唱につながったものとも考えにくい。虐待や厄介な事例が減少したという実証があるのならば、提案と同時に是非広めてほしいものである。

 さて続いて②である。提出した組織のトップである橋下市長のコメントとして「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない」と言っていたようだが、そんなレベルの話ではない。実施するというのであれば、そこに対しての負担があることを認識しているのだろうか。これは教育関係者側のだけの話ではなく、保護者の負担という点にも関わってくる。

 どんな負担がかかるのかは保護者の場合はこちらから提示しなくとも想像がつくだろうし、関係者側として見れば単なる愚痴になってしまいそうなので割愛する。しかしいずれにせよ双方に対して万全のサポートをするという行政の保障はないのだろうと考えてしまう。ただこれだけは言いたい。義務化するというのであれば、それを果たすだけの体制を整える覚悟と実績を示してほしい。


 そして根本的な問題として③がある。すなわち親が親となる教育を現存する教育機関で行えるのか。また親となる教育を学校で行う理由があるのか。これがどうにもはっきりしない。現存する教育関係機関は当然保護者を支援し、協力することに異論はない。だが、親を親として保護者を保護者として教育するともとれる内容に加え、義務化という強制が果たして受け入れられるのだろうか。

 今後の動きに注目していきたい。

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「使えない人」とは誰を指すのか。

 「アイツは本当に使えなくて困る」
 似たような言葉を聞く機会が身の回りでないだろうか。職場での同僚との会話、新入社員等に対する評価、上司に対しての愚痴などで耳にしたことはないだろうか。他にも新聞や雑誌に踊る言葉の羅列を目にしたことはないだろうか。私はうんざりするほど目にとまり、耳にした覚えがある。こういった内容のことは大概お互いに変わらなきゃいけないといった流れで話が綴じられることが多い。歩み寄り話を聞き頑張って尊重し合わなければ物事は進まないとされる。だが、本当に使えないのはその後の対応を怠っている人であると気が付いているのだろうか。

 なかなか仕事が進まない人というのは必ず存在する。それが新入社員なのか同僚なのか上司なのかは場合によって変わるが、計画性を必要とされる複数人が関わる仕事の場合は、そういった人物がいるかいないかは特に重要である。学校での仕事でもそれは同じである。学校運営上の話から目の前に控える授業に至るまで、多少なりとも計画は必要であり、その中で足並みを乱す人がいれば、周りに負担をかけてしまう。結果として「あの人は使えない」と烙印を押されることになる。

 だが、実際の問題はここからである。「使えない人」をいかに仕事させるかを考えなければ、組織としてチームとしてやってはいけない。すぐに職場の人間が入れ替わるという事は通常であればない。だからこそ「人の使い方」を学び、必要な仕事をこなさせなければならないのだ。大抵これは嫌がってやろうとしない人が多い。他人に仕事を教えるのは余計な手間であり、「使えない人」と一緒に仕事をすること自体嫌がってしまう。正直な話、そういった人程、将来的に「使えない人」になってしまうことが多いような気さえする。

 実際に「使えない人」がいるというならば、その後の仕事でどう活かせばいいのかを試行錯誤しなければならない。対処法を全く考えないことは、自分が思考停止に陥っているだけでしかない。本当に仕事ができる人は、人の使い方を学んでいる人であり、行動を予測して物事を動かしている。「使えない」と言っている人間は周囲の状況の改善を図ろうとしないで、与えられたものを甘受しているだけにすぎない。
 
 これはコンピューターの扱い方と似たものがある。コンピューターは人間が使い方を学んで始めて使用できるようになる。時折思った動きをしない時にいらだつ時もあるが、それは結局自分ができないことを自分で攻めている構図に他ならない。HTML言語を書くときにたった一文字の違いが正確な結果をもたらさない状況があるが、これに対し何故間違っているのかをコンピューターに癇癪を起して問い質している姿を想像してほしい。周りからすれば気持ちは分かるが、結局悪いのは正確に欠けていない自分の所為だろうと言いたくなる。しかも同じことを繰り返すほどにその気持ちが強くなるのではないだろうか。

 なまじ相手が同じ人間だからと思うかもしれないが、自分は仕事ができて相手は仕事はできないと決めつけているのであれば、尚更何をすればいいのかはみえてくる。使えない新人と思うならば、出来ることを見つけ出し、成長させることが後に自分が楽をすることができる。仕事ができない同僚と思うならば、出来うるだけ協力してやって自分の経験値を積んでいけばいい。まとめられない上司ならば、自分で根回しして長引くだけの会議を手っ取り早く終わらせれば、人の使い方を覚える。

 口癖が「時間がない」あなた、本当に忙しいのですか?

 唐突に上記の記事を出したのは内容に同意したためではない。むしろ「それがどうした?」という気分で載せている。先のことを考えず自分の仕事だけを効率よくやるのが後の結果につながるとは限らない。むしろこういった考えこそ教育せずに「使える新人」を探そうとする姿勢に見える。単なる言葉狩りにも思えるような記事に同意し、自分がそうだと縮こまっている様相はまさに「使えない人」を断罪しているようにもみえる。しかし、たかだか「時間がない」と言うことなど単なる愚痴である。それを取り上げ、客観的に批判しているような人こそ全くもって使えない。そんなことに気をとられることこそ無駄である。

 最初は誰しも使える人ではない。だからこそ教育し、成長しなければならない。それは生徒も教員も、他の社会人も同じである。誰であろうと関係なく、如何に動かすか、如何に動けるようになるかを常々考えなければ状況は変わらない。その為の方法論を見出す努力を怠る人こそ「使えない人」である。

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