教育徒然

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違法ダウンロード刑事罰化と学校

 まあ、タイトルに書いた通りなわけだが、今後何かしらの方策なり、状況把握なりしていくつもりなのかが全く見えない。「フィルタリングが設置してあるので大丈夫」ということにならないのは分かっていると思うのだが、まず一部の教員しか違法ダウンロード刑事罰化を知らないという事実もある。興味がなければ知る由もないのだろうが、これだけICT化を進めようとしていながら、著作権法の大きな動きであり、ネット上では大きな物議を醸しているというのに周知徹底を図ろうという動きがなかなか見えてこないのは懸案事項ではある。

 結局は針小棒大で大したことなどできはしないというのが大勢の見方であり、収まるところに収まるのかもしれないが、少なくとも教える側として把握しなければならないことは多い。動画サイトの使い方、流通しているファイルの違法性なども知っておくべきである。しかし、それを認識していない大人が多いという現状は少しばかりため息をつきたくもなる。

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心の距離と情報モラル

 では前回のエントリーからの続きという事で、ネットにおける具体的な「心の距離」を事例とともに考えてみよう。

 1 事故現場の写真を撮ってネットにアップ。他者の意見を見るとともに自分でその事故について意見。

 2 有名人とのネットを通してのコミュニケーション。実際にあう友達と同じような会話。

1の事例は「心の距離」がより遠くなったものとしてあげてみた。なぜ目の前で起こったことに対して写真を撮り、さらにネットにアップする必要があるのか。このときめったに起こらない出来事に対して興味関心を引き、それを他の誰かと共有したいという心理が働いているものと思われる。この時点で目の前の事故の情景から一時心は遠のいている。当事者ではない場合、ごく自然の事と言えるかもしれない。

 しかし一部の話として「事件・事故現場を野次馬が一斉に携帯電話で写真を撮る」という状況が常態化しているというが、そういった状況が見えてくるのも異様ではある。事件事故そのものから「心の距離」が遠くなるのは客観視していると捉えられなくもない。ゆえに冷静な判断ができることもあるので、悪いことばかりでないが、正しい距離を保てているのかと言えば少しばかり考えざるを得ない。むしろ目の前の事件・事故よりネットでつながる人たちとの距離しか考えていないのかが気になるところである。

 では2の事例はどうだろうか。これはツイッターが広まったことでより顕著になった例ではある。いわゆる「心の距離」が非常に近くなった事例と言えるだろう。普段言葉を交わすこともないような人同士がネットを使うことで何気ない対話等のコミュニケーションをとることが出来る。SNSやネットならでは特徴と言えるかもしれない。よい方面で捉えられることもある一方、急激な距離の縮め方がトラブルを生むことも多々あるので注意は必要である。

 最も多いのが、互いの意識の違いから生じるものだが、執拗なストーカー行為や陰湿ともとられなかねない行動に至ってしまうことがある。実例については、最近のアイドル事情などを見ればよくわかるであろう。一昔前とかわらない行動と変わらないかもしれないが、情報収集や情報拡散という意味では、さらに悪質なものになっていることは否めない。

 ではこういった「心の距離」のとり方を「情報モラル」で扱う場合、どのように取り上げていけばいいのだろうか。私が提案したいのは、事例で構わないので、とにかく一つの事案に対して双方からみた互いの意見・主張について必ず取り上げるということである。以前にもあげたことだが、一方の「心の距離」だけが取り上げられることが多いので、最低限当事者同士の考えを明記しておくことが望ましい。

 何せ大人でさえネットにおける「心の距離」の測り方を間違えている例が後を絶たない。子どもであれば尚更どのように対処していいのか分からない。「暗黙の了解」や「行間を読む」というのは非常に大切なことで、現在にも通ずることではある。しかし過剰な「空気を読む」行動であったり、「集団に合わせる」という行動が助長しかねないのも確かで、少なくとも相手はどう思っているのかの実例を出すことも重要である。何せ直接対面ではないのだから、もう少しネットにおける「心の距離」が測れるようにならないうちは、はっきりとした意思表示を分からせることが必要となってくる。

 出来ることならば、今後のネットで起こった事例で「心の距離」の測っていきたいと思う。

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何故情報モラルを教えるのか

 以前より情報モラルを教えることについて色々と書いてきたが、もう少し俯瞰から眺めたみようかと思い、そもそもなぜ情報モラルを教えなければならなくなったのかを考えてみることにした。その思考の起点としたのが、「子どもたちに情報モラルを教える理由」である。

 ではこの「子どもたちに情報モラルを教える理由」だが、まずは子どもを教育対象としぼり、子どもがどういった存在であるから情報モラルを教えるのか。一応これについては、以下の3点あげておきたい。

 a 子どもを保護対象と捉え、事前に知識を与えることでネット社会のトラブルから守るため。

 b 子どもを成長因子と捉え、正しい教育を行うことで今後のネット社会に正しく対応させるため。
  (子どもを成長因子と捉え、間違った知識を得た状態でネット社会に対応させないため)

 c 子どもを障害要因と捉え、以後の影響を踏まえたうえで誤った対応をしている現状を把握させるため。

 この3点を周囲の要望と子どもたちの受け止め方としてみれば、aが保護と自衛、bが予防と対応、cが対策と自戒と当てはめることが出来ると思う。ではなぜ、これらを行うことが求められているのかと言えば、「ネットを使う場合には注意しなければならない」という前提がついていることに他ならない。

 しかし、なぜこれほどネットは注意しなければならないものになったのだろうか。その中でも、これまでにも何度か取り上げてきた、誹謗中傷や、暴言・不用意な発言等は誰でも遭遇しうる案件である。それこそ、年齢に関係なく誰でも発しうるものであればこそ、誰であっても注意しなければならないものでもある。

 そもそも現実のコミュニケーションであれば、言葉遣い等に気を付けるよう教育されているにも関わらず、ネットでの発言となると途端に言葉が荒くなったり、態度が横柄に見えるのはどこに原因があるのか。こういった話になると、必ず出てくるのがネットの匿名性であるが、一般的に知名度が高いと思われる人物でさえ、ネット上の言動には思わず嘆息をつきたくなるのが実状である。となれば、それ以外の理由を探る方が妥当である。

 ここで思い至ったのが、よくテレビなどで見る磨りガラス越しの会話や車中で見かける恥ずかしい行動である。彼らの行動を少し思い出してほしいのだが、たった一枚のガラスやドア一つ隔てただけにも関わらず、突然舌が回るようになったり、普段外でならしないような行動を大胆にやったりしてしまう。実際ネット上の行動とは画面を隔てた行動であるということも併せて考えると似たようなものなのかもしれない。

 そして、それが意味するものは、「心の距離」ともいうべき各個人が認識する曖昧な空間把握である。もともと人の心とは分からないものではあるが、このネット社会になったことで、さらに分かりにくくなったのかもしれない。断っておくが、何もここで宗教的な話をするつもりではない。だからといって実証を取っているわけでもないので、十分に検討されたものでもない。あくまで一つの仮説、可能性の話として考えてもらいたい。

 さて、この「心の距離」であるが、いわゆるパーソナル・スペースとの関わりが深いのだろうと思う。実際のパーソナルスペースの中では現実における物理的な距離も表されているが、ネットの中では存在しえないため、より心理的・精神的な距離が直接関係してくる。特にコミュニケーションを取る際には、いっそう鋭敏になり、大きく影響されるものと考えられる。ちなみにコミュニケーションとパーソナルスペースの関連性という論文もある。もっともこの論文はコミュニケーションによる物理的なパーソナルスペースの距離について言及しているので、ネットにおける事例とはまた別ではある。

 ではネットにおける具体的な「心の距離」を考えていこうと思ったが、少し長くなったので今日のところはこれまで。
 

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拡張ツールがもう少し融通がきけば・・・

Boogie board rip

 最近手に入れてガシガシと使っているところ。前々から使ってみたいとは思っていたけれど、いざ使うとやはり書き心地が違うなと実感。これまでの電子メモに感じていた違和感は何より字のトメ・ハネ・ハライが単なる線で構成されているために生まれてきたのだと改めてわかった。昔取った杵柄というわけではないけれど、震える線に決まらぬ終わりでは、字の重みが全く伝わらず、ため息をつくばかりであった。

 それに比べてこのブギーボードで書いたときの感覚はようやくあるべきところに落ち着いたという安堵感がある。拡張ツールでパソコンに投影したときには多少の違和感はあるが、許容範囲に収まっている。これで投影された画面を横にしたり、見やすいようにホワイトボード風に変えることが出来れば、黒板の代用として十分な働きが出来る。誰か似たような形のものを作ってくれないかと願うばかりである。

 なんだかんだ言って黒板にいろいろ書くのは骨が折れるものである。電子黒板の導入よりはこちらをもう少し改良すればプロジェクターを使ってあっという間に便利ツールとして使えるのではないかと思う。

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面白さを理解できるか

 情報モラルが大事だといくら叫んでも、今一つ伝えきらない気がしていた。それは生徒たちに対してではなく、大人たちに対しての方が強く感じる。確かに大事だと分かっているのだろうが、どうも噛みあっていないようで歯がゆさが拭いきれないのだ。特に子どもたちを守るために情報モラルを教えるべきと考える人ほど伝えるのが難しい。

 それが何故かを考えて、ようやく「ああ、この人ネットを危険だと考えているだけなんだ」と思い至った。確かにネットには危険な内容は多い。一部の炎上やコミュニティの落とし穴の事例を数点見ただけの人間だと、子どもにネットをやらせるのは危険だと考えるのは致し方ない。そもそもネットを限定的にしか利用できないのが大多数なのだから、危険な点を前面に出されれば、「子どもを守るために情報モラルを」と叫ぶのも無理はない。

 しかし、「子どもを守るための情報モラル」とは利用法を制限しているという側面も認識しなければならない。むしろ足枷をつけて、やりたいという欲求にも蓋をしているとも言える。それを象徴しているのがフィルタリングである。勘違いしてほしくないのは、私は別にフィルタリングを批判したい訳ではない。フィルタリングはネットのことを何もわからない子どもたちにとって非常に有効な情報の与え方であり、今後のためのトレーニング場として捉えれることができる。とはいえ、そのフィルタリングが何を遮断しているのかを知ろうとしないのは怠慢である。

 そもそも子どもは当初ネットに対してそれほど強い欲求を持っているわけではない。周囲の環境や自らの知りたいという欲求が出てきた時に初めてネットというものをツールとして利用する。そして其処に溢れる様々なものに興味をそそられれば好奇心からさらに奥へと進むのだ。その好奇心に一定の歯止めをかけるのがフィルタリングである。本来であれば、もともとが制限された環境によって止められるものだが、ネットの場合には当人が追及をやめない限り止まることはない。もちろん限界点もあるが、そこに到達するまでに補って余りある情報が存在する。

 だが、子どもはネット以外からも様々な経験によって成長するのが望ましいので、あまりネットだけに集中するのが好ましいとは言えない。それを果たすために疑似的な境界であるフィルタリングを使うことが重要なのだ。分かり易い例でいえば「テレビゲームばっかりしてないで勉強しなさい」だ。この場合のテレビゲームがネットであり、勉強しなさいと釘をさしている親がフィルタリングだ。そう、実際に言えば保護者が管理できればフィルタリングは必ずしも必要ではない。しかし、際限なく広がるネットについていけないことからフィルタリングを導入するのが当たり前となって、そこに任せるようになってしまった現状が存在する。

 では、なぜ子どもがそれほどネットに集中するかというと、それは単純に面白いからである。これまでの娯楽の主流となったもの自体がネットには散在し、同時に知識・知恵そのものも存在する。ゆえにその面白さから逃げられなくなる。そして、今は新たな楽しみ方としてのサブカルチャーが盛り上がっている。そこに自ら進むのは止められない。

 だが、フィルタリングに任せ、楽しみの場としてのネットを見つけていなければ、子どもたちが何を楽しんでいるのかが見えてこない。そして断片的に聞こえる負の側面を聞き続けることで、両者のネットへの理解についての認識差が浮き上がってしまう。そして保護者の規制と子どもの反発が際立つ構図がはっきりする。そしてこの保護者の規制こそが一般に考えられる「情報モラルを教えるべき」という態度だ。

 だが、ネットを出来る限り活かし、楽しもうとしている人達にとってみれば、子どもたちがネットに触れているのが、何も知らない中、興味津々で崖っぷちを覗こうとしているのを目撃しているようなものである。あまりにも無防備な態度に、「ここは危険だから注意しないと危ない。手すりのあるところからまずは見なさい」と教えようとしている。それが、ネットを楽しんでいる人たちが考える「情報モラル」である。
 
 この「情報モラル」の認識の違いが今の歪な「情報モラル教育」にあるのではないだろうか。どちらが正しいというものではないが、少しは楽しまなければ、ネットを扱えないのではないかと思う。ネットに興味のない人ももう少し踏み込んでネットのサブカルでもなんでも面白がって欲しい。

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どこまで信じてもらえるかは微妙。


漫画を「読めない」子どもが増えてる。間を想像して話を読み進めることができない

 実際、どのように周囲が思うかは微妙なところだが、多くの底辺校では実感している節があるのではないだろうか。私自身、高等学校で情報を教えているわけだが、教室には漫画の類がほとんどないのが現状である。その理由として他の携帯電話や携帯ゲーム機といった影響も上げることはできる。しかし、それだけではないことも実感として感じることが出来るのだ。また漫画だけでなく、ストーリーを追えてない様子は至る所で確認できる。

 授業や普段の生活の中でも、連続した出来事をしっかりと示さないと、どうしてそうなったかを納得させることが出来ない。映像といえど場面転換が行われたときに、時間軸や人物の背景像が追えずについていけなくなってしまうことが多々あるのだ。 これが、文字でストーリーを追う小説となると、一部の生徒にとってはかなり難易度が高くなる。とにかくなぜそうなったかが理解できないのだ。

 そういった点でネットの映像やツイッターは入り込みやすいのかもしれない。単発的な映像と、言い切り型の内容は物語の前後を追わずに条件反射で行動出来てしまう。それが利点と捉える人もいるかもしれないが、能力的に限定されているから、それしか楽しめないというのでは大問題である。ネットの双方向性とスピードの速さにマッチしてしまったことで、深く考える作業が身につかなくなってしまえば、ますます短絡的な行動が増えるばかりとなる。

 なぜそうなったのかの背景を探るのは難しい。しかし、それを改善しなければならない状況に来ていることは確かだ。すぐできるではなく、のんびり、じっくりやろうという姿勢も打ち出さなければならない。誰もが早ければいいというのではない。それぞれの時間の流れ方があるのだから、それを見極めて行動してほしい。

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情報モラル育成は予防と対応

 先日書いた「情報モラル本に足りぬもの」に対してさる筋からある意見を直接頂き、製本することの難しさを再認識したのだが、その言葉の中にふと気になることがあり、それを考察したことについて書いてみようと思う。

 さて、その気になったことについてなのだが、まず頂いた意見を掻い摘んでまとめてみる。



 ・ 情報モラル教材はネットの初心者向けというのがコンセプトに近い。

 ・ 状況の変化は認識。情報モラル育成が高校生では遅いかもという疑問もある。

 ・ リアルさを追求することも必要かもしれないが、暗部の強調表現になることが不安。

 ・ 「教材」という括りであるがゆえに「無難」から外れることが難しい。

 ・ 提案されたような内容についても検討したことがあるが、実現には至らなかった。



 以上のようなものであった。

 そして、この中で最も考えさせられたのは、今回のような情報モラル教材は「初心者」が対象の中心になっていると示された点にある。確かに他の点も併せて考えると、どうしても初心者向けとなるのは避けられず、どうしようもないかと思ってしまう。だが、ここで思いついたのが「果たして情報モラル育成が初心者向けを中心としていいのか」ということだった。

 ただそうなると「なぜ情報モラル育成が初心者対象に傾くのか」を考えねばならなかったのだが、ようやくここにいたり、一つの可能性にたどり着くことが出来た。それは「情報モラル育成とは、今後を見据えた予防接種」であるというものだ。

 なるほど予防接種であるならば、情報モラル教材の在り方として非常に納得できる。初心者向けであることも、強調しすぎた内容に不安も覚えるのも副作用を怖がる心境に近いものであると考えれば受け入れられるというものだ。と同時にいわゆる感染者もといネットの経験者にとって効果が薄いのではないかという疑問点も内包してしまったことになる。

 また、高校生にネットの初心者が多いかは疑問の残るところだが、ゆとり教育の批判に対して「学習指導要領は最低基準」と銘打たれた影響が今も残っている事を考えても、情報モラル教材の初心者向けは免れなかったのだろう。とはいえ、これにより今後の社会に向けた安定的な情報モラル教育が形として、一つの枠組みが成されたことは歓迎すべきである。

 で、あればこそ、もう一つの要請である、ネットに慣れ親しんだ人たちの声にもこたえる必要がある。こちらは予防というよりも現在のトラブルへの対応・対策と捉えなければならない。また、ネットに触れ、様々なことに悩む児童生徒たちを支援する形と言えるかもしれない。

 ちょうど今日、違法ダウンロード刑事罰化について大きな動きがあったわけだが、こういった事態は子どもへの影響が大きいことも予想でき、情報モラルで取り扱わなくてはならないだろう。また、自分の行動が違法かどうか迷い悩む児童生徒もでてくることすらあり得るのだ。

 これは予防ではなく、対応・対策である。実質的に知る人でなければ説明できず、なぜかという背景も伝えづらいのが難点ではあるが、それこそ待ったなしの現実が進んでいる。先日取り上げた「誹謗中傷」もすでに受けた人物が、予防のための教材でトラウマを引き起こしてしまっては問題があるかもしれない。

 しかし、現在ネットで「誹謗中傷」の被害にあう生徒がいれば、どうしたらいいのかという対策を知りたいと思うのもまた道理である。ネットのトラブルに対する子どもたちの相談件数は子どものネット・ケータイトラブル相談のためのこたエールなどを見てもごくわずかである。にも関わらず不正アクセスの補導・逮捕事例は後を絶たない。

 これをどうにかするためにも、周囲の大人の確かな知識とネットへの理解が重要なのだが、情報モラルの初心者レベルで止まっていると、相談もされないのが実情である。だからこそ、児童生徒の自衛も含めて、多少突っ込んだ内容の「情報モラル本」は必要だと思う。教材として扱うことはできないかもしれないが、今後の可能性も含めた対応は必要不可欠なのだ。

 予防は、対象となる事例が蔓延するほど効果が薄くなる。それを見越して、いつ、どの段階で、どの程度の抗体を持たせるかが課題である。

 対応・対策は予防がなされている場合は、いざ事態が起こっても、失敗した事例を教訓として昇華させることも可能であり、傷も浅く、完治も不可能ではない。

 情報モラルは予防と対応・対策の両輪で回すことを常とした実践を行っていきたいものだ。

 

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情報モラル本に足りぬもの

 この時期は来年度の教科書の見本が出そろい、各々の学校が教科書や副教材の選定作業で忙しくなる。教科「情報」もまた同じであり、気付くと手元に情報モラルの副教材が集まったので、どこをどのように使おうかと思考をめぐらしていた。どの教材に関してもそれぞれに特色があり、見ていて面白い点もあるのだが、切り口は大体似通っている点は否めない。また何冊か読む中で、何かが足りないという感覚も拭いきれなかった。では一体何が足りないのかを探っていこう。

 使用した教材は以下の3点である。




実教出版 「事例でわかる 情報モラル 改訂版

教育図書出版 第一学習社 「ケーススタディ情報モラル

日本文教出版 「見てわかる情報モラル


* 補足:この3点見本として渡されたものである。ただ第一学習社については、2年程前のものであり、最新の中身については確認できていない。



 
 さて、これら3冊の内容に共通するものとしては情報モラルについて事例紹介がなされていることと、分かりやすい説明の例として4コマ漫画で表している点が挙げられる。若干コマの並べ方が違う程度で、見開きの左上に4コマ漫画が掲載され、それ以外を詳細な説明にあてている。

 そして、この事例を分かりやすく述べるための4コマ漫画にこそ一致する点がある。全く同じ内容というわけではないが、「誹謗・中傷」について書かれている例を取り上げたい。「誹謗・中傷」を取り扱う時の4コマは大体次のような流れであることが多い。

① 自分の気に入らない人物がいる。もしくは気に入らない出来事があった。

② ネット上の掲示板やブログ等にその内容を非難交じりで書く。

③ 自分が書いた内容に対して周囲または直接誹謗中傷した相手からのアクションがある。

④ 周囲のアクションの結果、自分の行動を反省。もしくは書かれたことで取り返しのつかないことが起こる。

 こういった形である。似たような4コマ漫画としてインターネットユーザー協会(MIAU) 「インターネットリテラシ読本「“ネット”と上手く付き合うために」」の中にも掲載されているものがある。これはテーマが誹謗中傷ではなく「ネットは匿名ではない」という題にそった内容であるが、流れとしてはほとんど同じような形になっている。

 これに何か問題があるかというと別に問題があるわけではない。ただ如何にも教本的な内容であり、自己意識を高めて「誹謗中傷を行わないようにしましょう」という指向が見える。分かりやすくしようとした結果であり、ネットに初めて触れるものにとって必要な知識を伝えるための方策として最善であろう。道徳的内容としての側面を持つ「情報モラル」であれば、この取り扱い方にも納得できる。

 では、これで「誹謗中傷」を扱う内容を終わらせていいのかというと疑問が残る。「誹謗中傷」に限らず今なぜ世間で情報モラルを扱ってほしいという要望が出ているのかをよく考えてほしい。ネットについてよく知らない人たちのネットに対する危険思想だけで「情報モラル」を扱ってほしいというのではなく、ネットをよく使っている青少年たちでさえ「子どもたちには情報モラルを学ばせるべき」と言っている理由はどこにあるのか。

 それはよく使っている人物だからこそ出てくる「ネット上の不快な行動をやめてほしい」という苦情にある。ようは「情報モラル」を弁えない人物が自分たちに迷惑をかけることに怒り、呆れ、苦しみ、悲しみを覚え、その行動をやめてほしいのだ。そしてネットをよく使っている人物にとって、「他人の迷惑をかける人物」は「他人がどう思っているかを考えない人物」だと考えている。ゆえに「情報モラル」で取り扱ってほしい内容とは、「ネットをよく使う人物が、迷惑行動を行った人物に対してどう思っているか」であり、それを具体的に伝えてほしいのだ。

 そうなると話の筋が大分変ってくる。本当に何も知らない初心者向けに今の情報モラル事例集を渡すのは問題ない。しかしネットを使う人物では当たり前の内容を第三者視点で語られているようで、物足りなさを感じるのではないかと私は思うのだ。ゆえに今の4コマをそれぞれの立場別に描いた描写を入れるのが今後の在り方としてふさわしいのではないだろうか。先ほどの「誹謗中傷」の例で見てみよう。

 
① 自分の気に入らない人物がいる。もしくは気に入らない出来事があった。
   → これは誹謗中傷を行う側の感想である。

② ネット上の掲示板やブログ等にその内容を非難交じりで書く。
   → この行為によって誹謗中傷を行い、加害者の立場となる。

③ 自分が書いた内容に対して周囲からのアクションがある。
   → 加害者の視点であり、被害の可能性について初めて気づかされる。

④ 周囲のアクションの結果、自分の行動を反省。もしくは書かれたことで取り返しのつかないことが起こる。
   → 加害者の反省。もしくは加害者の心の動揺について。

 こう見るとやはり一方的な視点で構成されている。一部に被害者のことについて書かれているが、もう少し被害者がどう思っているかを強調してもいいのではないかと思わされる。そこで次のような対比4コマ漫画で「誹謗中傷」を表してみよう。


 誹謗中傷を行う加害者側

① 気に入らない行動をされる → ② 誹謗中傷を書く → ③ 周囲のアクション → ④ 被害者の様子

 誹謗中傷された被害者側

① 何らかの行動を行う → ② 陰からの妙な目線 → ③ 誹謗中傷されたことを知る → ④ 被害者の落ち込み・悲しみの描写



 このようなそれぞれの立場で何が起こり、どう思われるか、視点を限定することで、より情報モラルの意義を感じ取ることが出来るのではないだろうか。

 また不正アクセスの取り上げ方にも同じようなことが言える。大抵の場合、不正アクセスの事例説明は、たまたまパソコンの周囲に貼ってあったパスワードを友人が見つけて、悪戯を仕掛けられて迷惑するといった内容になっていることが多い。これは不正アクセスの被害者側の視点が主であり、困惑や被害を強調され、パスワードの管理などについても言及されるものである。

 しかし、不正アクセスはもっと加害者の視点をクローズアップする必要がある。以前のべたように不正アクセスをする段階は4段階に分けられ、その葛藤などを書くことが望まれる。



不正アクセスの被害者視点

① ID・パスワードの放置 → ② 作業の続き及びログアウト → ③ 別日にログイン → ④ 不正アクセスの被害発覚

不正アクセスの加害者視点Ⅰ

① 放置されたパスワードの発見 → ② ログインできるかどうか試す → ③ ログイン成功 → ④ 成功したことへの不安・葛藤

不正アクセスの加害者視点Ⅱ

① 放置されたパスワードの発見 → ② 別場所で確信をもってログイン → ③ データ改ざん・コピー → ④ 被害者をバカにする態度



 こういった比較4コマ漫画があってもいいのではないかと思う。現在特に問題となる著作権の話についてもそれぞれの立場の視点を独立させることでより充実した内容になるのではなかろうか。炎上やステルスマーケティング、フィッシングなど取り扱える事例が多い分、被害者、加害者または第三者視点と立場は変わるだろうが、それを明示することは重要だと考えられる。しかしそういった事例を出している本がなかなか見当たらないという事は、あまりやってはいけないということなのかもしれない。そういった点はいくつかのサンプルを通して調べていきたい。

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ネットの言動は軽視されているか

 ネット上には個人の言動・意見が溢れ、様々な考え方・思想が洪水のように流れ出ている。その中でどうも奇妙な感覚に捉われることが増えてきた。その感覚とは、「ネットの意見が世間に反映されていない」と叫ぶ人達を見た時に湧き起こるものである。どうもその言動・行動に対して妙な違和感を自分の中に認めることが出来るのだが、いったいそれは何なのだろうか。

 最近の話題だが、違法ダウンロード刑事罰化について活発に議論されている。その内容についてはさておき、一部の言動に「ネットの声を無視している」との声があることは確かだ。この「ネットの声」の「ネット」が誰のことかを最も大きな括りで考えれば「インターネットユーザー」の事を示していると言っていいだろう。では「ネットの声」の「声」は何になるのかを考えると、「刑事罰化導入に対する反対」ということになろう。

 実際にそういった意見はよく見かけるので、何となくそうだと納得してしまうが、それでいいのだろうか。確かに大多数の意見として「刑事罰化反対」もあるが、少数とはいえ「刑事罰化賛成」の意見があることも事実だ。見識の浅さや権益を守るためだとの批判もあるだろうが、そういった声もあること自体は否定できない。となれば、「ネットの声」とは多数派を代表した意見である。

 しかし、ネットにおける多数派の意見というのは非常に曖昧なものである。なぜならば多数派を構成している「数」が曖昧であり、さらに意見そのものの束ね方が雑であるからだ。

 いくらネットで多くの人が同じことを述べていると言っても、どういった範囲の中でどの程度の人数がいるのかを明示していなければ多数派を強調しても意味はない。統計学に基づいた信頼できるデータを出すぐらいであれば信頼もできるが、出典不明な独自データで多数派というだけでは内容の信頼性は薄い。

 またいくら多数派を形成していたとしても、その意見そのもののまとめ方が大枠でしかまとまっておらず、細かな意見の調整がなされていないと、たちまち多数派の中に少数派の個人が乱立しているだけの烏合の衆となっていることが露呈する。

 こういった点がクリアされていれば、ネットの声も世間に届きやすい。刑事罰化についてはインターネットユーザー協会(MIAU)や日弁連という「団体」が核となって意見を集約し、分かりやすい意見の提示を行っているので、抗弁が通っている。

 そういった意味で考えれば、「ネットの言動は無視されている」というより、ネットという薄弱な糸で繋がれた状態を強固な鎖で括られたと勘違いした個人の集まりであり、意見をまとめる手間を軽視した烏合の衆なので、全うな団体からすれば相手にされないというのが事実なのだろう。

 加えてしっかりと意思を表明する個人は、分かりやすい言動であるほど、人をひきこみやすい。意思の善悪はともかくとして、その意見・人物を核とした集団を構成すれば、烏合の衆の中身である散在した個人に対する多数派をあっという間に築くことが出来る。

 少し機転の利く人物ならば、ネットではこんな声が上がっていると言って、一部のネット上の意見を多数派と見せかけて利用することぐらいは思いつくだろう。このような事例を出すと、すぐに「マスコミ」や「政府」、「他国」という対象を持ち出してしまいがちだが、そんな人物ほど気を付けるべきである。その叩く体制を限定していることこそ、ネットの内部誘導に乗せられている可能性があると気が付けばよいのだが、どっぷりと嵌り過ぎると抜け出すのが難しいのが現状である。

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思考を辿る

 日々授業を行っている中で、重要だと思っていることがある。それが生徒の「思考を辿る」という行為だ。生徒たちが授業内容を理解しようとしても、なぜか行き詰ってしまう。その理由を探るためには、どのように考えてその行動にいたっかのか、どうしてそこで詰まるのか、それを順を追って解きほぐしていく必要があるのだ。

 しかし、この「思考を辿る」行為が必ずしも重要ではない場合もある。では表計算ソフトExcelを使用することを想定した以下の問題と正答、誤答を見てほしい。




問題 : もしH5がK10を超える数値の場合、「○」を表示、そうでない場合は「×」を表示する関数を書きなさい。

誤答 : =IF(H5<K10,"○","×")

正答 : =IF(H5>K10,"○","×")



 実際に情報処理の授業の中でありがちな誤答である。この誤答を「思考を辿って」見てみると、問題の中で特に重要なのは「H5がK10を超える」という部分である。それを不等号で表すことが出来ているかを確認し、なぜ不等号の向きを間違えたのかまで追っていく。単なるケアレスミスで間違えたのか、それとも不等号の意味が分からず、適当に入れただけなのかまで追っていくと次のミスを防ぐことにつながる。

 とはいっても、そこまでせずともミスしたかどうかを見分けることは思考を辿らずともできることだ。単に正答と誤答を比べてどこか違うかを確認し、それを訂正するだけで事足りる。加えて、例示したような不等号のミスならば合理的な説明で納得するかもしれないが、全角文字と半角文字のミスで起こるエラーなどは実際に見分けなわければ分かりにくく、時間もかかる。さらにいえば、Excelであれば、わざわざ関数を記入しなくとも「関数の挿入」を使えば細かな記号の入力を省くこともできるので、そういったミスを気にする必要もない。

 にも関わらず私は授業の中で徹底的に関数を記入させることを第一とし、ミスをした場合の「思考を辿る」作業を行おうとしている。その理由を考えた時にデジタル教材への不安が見えてしまったので、それを書き記す。

 はっきり言えば、デジタル教材もしくは情報機器の使用により、決められた手順を追う作業に疑問を持たなくなり、自由な思考の幅を狭めることにならないかということだ。こんなことを言うと反対意見が聞こえてきそうだが、もちろんその思考を狭めるのではないかと思い至った根拠はある。

 まずデジタル教材、情報機器がいいという根拠はどこにあるのだろうか。これには①情報量の多さと②現実に縛られない自由さがあるのだと思う。言うなれば紙の教科書上で再現できなかった視覚・聴覚に訴えつつも、現実では簡単にできないことも画面上であれば何でもできてしまう。これがデジタル教材・情報機器の利点である。

 だが、これを鵜呑みにしてしまうのはまずい。なぜならば、多様な情報量を扱うための基本的な思考力と制限された状況であることを理解し、その中で自由に振る舞う応用力があって初めて、デジタル教材と情報機器は活かされるのだから。そして基本的な思考力と応用力を身に付けるためには「思考を辿る」行為が最も重要なものだと考えられるのだ。

 教育を語る中で「過程が重要である」と聞いた人も多いだろうが、これは単に頑張ったかどうかを判断するための言葉ではない。「過程」をよく確認することで、次につなげるための礎とするからこそ「過程」が重要なのだと考えてほしい。

 最初に挙げたIF関数の事例で見てみよう。不等号のミスによる間違いが判明したが、その理由がケアレスであるだけならばいい。しかし不等号の意味がよくわからないというのであれば、そこから教えなければならない。この不等号の意味を基礎とするならば、いくら繰り返したところで最終的にはよくわからないままで身についてしまうのが常であり、応用した場合のミスが多発することが予想できる。

 さらに情報機器を使った場合に出てくる問題は、過程を考慮せず結果のみが提示される点にあるのと、複数経路による過程を提示できるかという疑問点にある。問題解決のスピードに定評のある情報機器だが、それは人間にとって問題を考慮する経路の長さを麻痺させるのと同義である。経路が長いほど人はミスが多くなり、別の答えに行き着きやすい。ゆえに、思考を辿らなければならず、別の可能性を少しずつ潰すことにつながる。

 また、別の可能性を潰すとともに新たな過程を思いつくこともあるだろう。何かが間違っても偶さか正答に辿りつき、別の経路があることを発見することにもつながる。それを情報機器が認めることが出来るだろうか。人が教えればいいと思うかもしれないが、スピードに優れた情報機器が示した正答と見比べることに慣れてしまえば、いくら応用力があったとしても自ら可能性を潰してしまうのではないかという不安も生まれてくる。

 生徒自らが根ざした太い幹がなければ、多くの情報量であっても付け焼刃にしかならない。自らの置かれた枠を知り、その中でできる自由行動を理解し、さらに突破する応用力を身に付けるためには、数々の思考を辿って状況を追わねばならない。果たしてそれが今提案されている情報機器・デジタル教材でできるのかが問われていくのだと思う。


 一応ここまで書いては見たものの、書きたいことをうまくまとまられなかったとも思うので、まとまった時にでももう一度書いてみよう。


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ネットカルチャーを話したがっている子どもたち

 様々な動画サイトを見て色々な動画を漁り、面白そうなものを授業で見せたりしている。そうすると、生徒たちの反応が思いのほか大きい。ボーカロイドやゲームの実況、子どもたちが見るには少し危険な動画など多くの話題を提供しているネットなのだが、それを話す相手が友人しかいない状況というのが実態である。自分たちの世代を思い出しても、趣味の話で大人と盛り上がることというのは少ないのかもしれないが、それでも関心を持ってもらえないというのは子どもたちにとって非常にさびしいことなのだろう。

 たとえ知らなかたっとしても興味を持って聞いてやり、その系統につながるもので別のものがあると紹介してやるとますます色々なことを聞いてきたりする。最初から知らない、分からない、興味がないとしてしまうと拒絶されているようで、その人から遠ざかってしまうという点もあるようだ。ゆえに色々な動画、音楽を休み時間中にふと流してやるとせきを切ったように話しかけてくる生徒がいることも事実である。

 どうにかもう少し大人たちは、純粋に楽しむという面でネットの興味を持ってほしい。特に子どものいる大人は分からないならば、子どもたちに聞いてみてはどうだろうか。遊び場を自慢したくて話してくる子どもはたくさんいる。その中でどう対応するかをゆっくりと判断してみてはどうだろうか。

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情報教育を習熟度別に行うことができるか

 現在の情報教育の中で非常に頭を悩ましているのが、各個人の有する技能の個人差だと思う。私の教えているクラスでも下はアルファベットに苦労している生徒からブラインドタッチ一歩手前までできる生徒とその差は歴然としている。これが本当に一部を切り出した結果であればいいのだが、全体を通してみるとあまりにもそのレベル差が様々で対応が難しいという事を経験している教員も多い。

 実際問題として、これだけ差が生じていると、数学などのように習熟度別で授業を行うことが望ましい。しかし小規模校のパソコン室の設置状況などを鑑みると、1~2のクラスを複数に分けて授業を行うことはほぼ不可能である。ならばタブレット端末になれば、生徒全員が所有し、それが可能になるかというと果たしてどういった結果になるのかが見えてこない。

 というか情報の授業をタブレット端末で行っている姿が想像しにくいのだ。キーボードで打ち込むさまを見てきたせいもあるのだろうが、画面のキーボードを叩いている姿は打ち辛さしか見えてこない。タブレット端末が普及することで、通常のキーボードを使う機会が減り、情報の授業も様変わりするのだろうか。そういった点が見えてこないのも今後の情報教育に懐疑的になる要因となっていないかを考える必要があるだろう。

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違法ダウンロード刑事罰化の子どもたちへの影響


『違法ダウンロード刑事罰化』について、議員向けの反対声明を発表しました。

 インターネットユーザー協会(MIAU)から上記の声明が出された。その中で「摘発されるのは理解していない子どもたち」という内容があったので、少し触れたいと思う。なお、違法ダウンロード刑事罰化の是非について問うつもりはない。あくまで子どもたち及び教育の影響等に限った内容を述べていきたい。




・摘発されるのは理解していない子どもたちです

2010年の著作権法改正で、違法にアップロードされた音楽・映像ファイルのダウンロードが違法とされました。権利者側が違法ダウンロードの主体と見なしているのは主に中高生ですが、その約半数が未だ、ダウンロードが違法になったことを知りません[*1]。このような状態で罰則をつければ、多くの「違法になったとは知らなかった」子どもたちが摘発の対象となります。子どもたちに教育を受けるチャンスを与える間もなく刑事罰化へと進むのは、あまりにも拙速であると考えます。




 さて、これをどのように考えるべきかが少し迷うところである。この内容に沿った違法ダウンロード刑事罰化によって摘発される子どもの状況を考えてみる。

 ① 自由にネットにアクセスできる環境がある。

 ② データをダウンロードできる技術等を知り、実行できる能力がある。

 ③ 違法ダウンロードであることを知らない。加えて刑事罰化されていることを知らない。

 そして、これを踏まえて以下の疑問を呈したい。

 A 子どもたちが自由にネットにアクセスできる環境が整備されていることは問題であるか。

 B ダウンロード技術の習得は子供たちにとって容易であるか。

 C 子どもたちが違法ダウンロードを認識できるか。また刑事罰についても理解できるか。

 では、まず①及びAについて見てみよう。ハッキリ言ってユビキタスコンピューティング及びユビキタスネットワークを目指す以上、ネットワーク環境が整っていくのを止めることはできない。であれば、子どもが使う環境あることもごく自然であり、①の条件は達成され、Aについても問題とされないと結論付けられる。

 ただし、全く制限がないということにはつながらない。これは子どもであるゆえに保護者及び周囲の大人からの制御を受けていることを考慮する必要がある。子どもが使用できる情報機器に制限がある場合は、自由なアクセスが認められない。ただし、このネットワークの制限・制御は周囲の人物のネットワークや情報機器に対する認識に大きく左右されてしまう。

 これ故、アクセス制限の差がついてしまっている現状が存在する。そう考えると、違法ダウンロードの責任を子どもたちだけに追及してしまうのは不自然である。設備ではなく周囲の認識・認知度による環境差が、子どもたちの違法ダウンロードを生み出す危険性を見落としてはならない。

 次に②とBについてである。これは前提としてどこからをダウンロードと定義づけるかにもかかっている。例えば動画サイトで動画を見るだけでもデータはパソコン内にダウンロードされていると考えるのか、専用のソフトなどを使って別の機器で再生できるようなファイルとして形造られたときのみダウンロードと考えるのかなどの区別がある。

 前者のタイプで考える場合、動画サイトにアクセスしクリックする能力があるならば誰でも対象となり得るものであり、子どもでも簡単な作業である。また後者でも、最近の公式プレーヤの中には初めからダウンロードとファイル化の機能が付いているものも存在している。となれば、子どもたちがダウンロードするための条件と問題を両者ともクリアしていると考えていいだろう。

 最後に③とCについて触れていきたい。子どもたちへの直接的な教育としてはこの点が最も重要である。果たして子どもたちは正規か違法かのダウンロードの区別をつけることが出来るのか。直接的な経験として言えば、高校生であっても自分たちが適切なダウンロードを行っているかどうかの区別をつけることができない生徒は存在する。というよりむしろダウンロードとは一体何なのかを分かっていない生徒も確実にいるのだ。

 これは大人であっても例外ではない。同じ教員であってもコンピュータ上の専門用語であると分かった時点で、もう訳が分からなくなってしまう場合さえあるのだ。そんな中で果たして小中学生から高校生、もしくは大学生まで含めて違法ダウンロードの認識を広げることが出来るだろうか。これは今後の情報教育の体制にかかってくるのは間違いないのだが、難しいというよりも①やAで挙げたように大人の認識がどこまで広がるかにも大きな要因となってくる。

 大人が違法ダウンロードの区別がつかないようであれば、子どもたちに教えることはできず注意喚起することさえできない。誰もが悪いとわかっていても、子どもたちに周囲の大人がその詳細を伝えることが出来ず、どうすればよいのかを指導できないのであれば、子どもに違法ダウンロードの責任を取らせるのは酷であると言わざるを得ない。

 以上の点から次のように考えるのが道理である。





 インターネットへ自由にアクセスできる環境が子どもたちに整っていることは自然であり、子どもたちはその利用法について導く大人がいることを保障されなければならない。加えて、子どもたちは情報技術を自ら学んで習得することも自由である。

 保護者および教員ならびに周囲の大人は子どもたちに正しい情報の在り方、扱い方について指導できる知識と能力を有していることが求められる。

 これらの指導を受け、正確な理解と認識を得たにも関わらず、法律を犯した子どもについては罰を受ける責を負う。



 つまりは大人がもっとしっかりしないと駄目。子どもたちに責任負わせるのは少し早すぎじゃないかみたいな感じ。

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どっちもどっち

大学院での学びは教育現場ではほとんど役立たない

 教員になるにあたって、学部の勉強だけじゃ不安だから、大学院にいってもうちょっと自信をつけたい学生と大学院の勉強は現場ではあんまり役に立たないから早めに現場に出て経験した方がいいという現職(?)のやり取り。思うところがあるのでちょっと触れてみようと思った。

 まずそれぞれ言ってる中で気になる点をピックアップ。

 学生くん

 ① 学部卒じゃ不安。だから院でもうちょっと自信つけてから現場でよう。

 ② (未熟な学生が勇気をもって立ち向かって)子どもの未来を台無しにする可能性はないのか。

 ③ 大学や大学院で学んで将来に役立つと実感するものは「経験」

 現職(?)

 ① 院で学べるのは机上の空論。現場の経験は圧倒的。

 ② 授業見学と実習から学べるのはごくわずか。


 まずは学生君の①についてだが、周囲から見てちょっと首をかしげたくなるのは仕方ないかと。本格的に教職員大学に進んでいるのであれば、こういったケースも考えられなくもないうえ、就職難と合わさっているとなればそんな学生がいることも不思議ではない。ただ現場にでる予行演習気分で「大学院へ行こう」というのであれば、これは大学院で研究することの意味がどこにあるのかを見つめなおした方がいいのかもしれない。

 次に②()内の言葉は補ったが、未熟な学部卒者が指導したら子どもの未来を台無しにしてしまうのではないかという疑問。未熟者がたった一人で教育に携わるのはそれは確かに危険だろう。しかし、その子供に影響を与えるのはその一人だけではないことが頭の中から消えてしまってはいないだろうか。どうも「教員」の影響を過大評価しすぎているようにも思える。

 子どもの未来を台無しにしてしまうという恐怖感か自らの経験でたった一人の教員に人生を滅茶苦茶にされたということがあるのかもしれない。とはいえ、もう少し職場での同僚や保護者、地域の方との連携を頭にいれることをお勧めしたい。

 ③だが、大学院での「経験」は確かに重要である。けれど、それなら尚更現場に出て「経験」した方がいいのではないかと言われないか心配である。①でも言ったが大学院を単なる予行演習にしては勿体ない。もっと深化させた何かしらを研究した方が余程役に立つ。長期的な展望を見据えた将来への布石ともいえる「経験」になるかが肝であると進言したい。

 では現職(?)の発言について、まずは①から。机上の空論と言ってしまうのは些か言い過ぎの感があるように思える。そういった側面があることも否定できないが、それを如何に持ち出すかは教員の側にも求められることである。またそれと現場の経験を比べてしまことにあまり意味はない。いくら現場をよく知らない学生に伝えるためだとしても、意味がないという極論に発展させてしまうのは少々乱暴。自信が極論に走るのがよくないと言っているのだから、もう少し言葉を選ぶべきだったかもしれない。

 ②については、現職であればこそ実感できるものであり、学生にしてみれば少々の「授業見学」と「実習」から得られるものは僅かではない。むしろ多すぎて混乱してしまうかもしれない。

 まあ、大分学生君にとって分が悪いやり取りだなという気がする。ちなみに現職が院で学ぶのとストレートマスターが院で学ぶのは目的の差が明確に開いてしまう分、それを一緒くたに考えてしまうのも学生君の言い分としてはマズイなと思う次第。

 いずれにせよ今後の教員の資質、育成の場において色々と考えてしまう内容ではあった。こういったやり取りが見えるのはツイッターならではと言えるのかは微妙なところではあるが。


 

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配備率言われてもねぇ

大阪全教員にPC…配備率36%、全国99%超

 mixiニュースの方にも転載されていたが、「私物のパソコン使ってる人が多いんじゃないの」という指摘がなされていた。まさにその通りだと思う。いくら配備率が少なかろうと外部に向けた文書のほとんどがパソコンを使って作られているはずだ。本当に共用パソコンが5台程度しかないのかと不思議に思うほどである。

 しかし、この記事の気になる点はそこだけではない。次の引用を見てほしい。




 市教委はこれまで、児童・生徒の卒業証書台帳や内申書の基となる指導要録について、「大事な記録なので心を込めたい」とする教員の意見に配慮し、手書きでの作成を指導してきた。しかし、橋下徹市長が「無駄な労力。事務の効率化を図るべきだ」とパソコンでの作成を指示。計画では指導要録のほか、通知表などの書類作成での利用を勧める。





 確かに卒業証書台帳や指導要録は手書きやスタンプを利用して作られている事例は多いように思える。まあ、「心を込めたい」という意見があったとしても不思議ではない。実際に手書きされた卒業証書台帳などは一見の価値がある。しかし通知表などは今やほとんどがパソコンで処理されている。むしろパソコンで処理されているからこそば、各学校の成績処理担当者が非常に苦労しているのだ。

 今更「事務の効率化を図るのだ(キリッ)」などと言われても、所詮仕事から判断するのではなく数字しかみていないのだろうなと頭痛を覚えるばかりである。しかもとりあえず台数抑えれば何とかなるだろうという見通しも甘い。

 それによってどれだけ担当者が苦労するかを全く考慮していない。みんな使えて当然という押し付けと現状の把握できなさが全うな意見をつぶしていることに気が付くときは来るのだろうか。

 

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