教育徒然

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炎上はなぜ怖い

 私は情報の授業の中で何度か「炎上」について生徒たちに話しており、ネット上に何かしらの意見を書き込んだり、写真などをアップロードしたりする時には充分注意をするようにと指導している。また炎上した際の個人情報の悪用や誹謗中傷なども起こり得ることまで含めた話もしている。しかし、改めて「炎上」することの何が怖いのかと考えてみて、一つの解釈を思いついたのでメモがてら記しておきたい。

 ネットで炎上することの何が怖いかと言えば、誰に何をされるのか分からないという恐怖を挙げる必要があるだろう。炎上したときの誹謗中傷には、自分を含む家族に対して危害を加えるという脅迫じみた内容のものもあるうえ、氏名・住所・所属先などを晒されたりと言ったこともある。ゆえに実際に何かされてもおかしくないという状況を作り出されるのは確かに怖いことである。だが、実際にはこれは副次的なことなのではないかと考えるようになった。そもそもなぜ炎上したときに身を守るすべがないのだろうか。実はそこにこそ炎上の怖さがあるのではないかと思う。

 以下のリンク先は,半年ほど前のものだが「炎上」を経験したとされる人物へのインタビュー記事である。

ネットでの"炎上"経験者「ただ一つ言えるとすれば、怖かった」

この中に気になる部分があるので、抜粋したものを以下に掲載する。



 この人物によれば、"炎上"は「単純に批判されることよりも、一度"炎上"すると歯止めが利かないところに怖さがある」という。「批判や誹謗中傷はまだ仕方ないとして、情報が一方的に作り上げられ、その情報に関してさらなる批判、誹謗中傷がなされる。一度論争が巻き起こると、こちら側が何を言ってももう遅い」と、ネット上で情報が広がることの恐ろしさを語った。特に作られた情報が拡散することについては、
「ふだんの生活で誰がこの話を知っていて、誰が知らないのかが分からないため、他人と付き合いづらくなった」



 この中で、注目したいのは「一度論争が巻き起こると、こちら側が何を言ってももう遅い」という部分だ。そもそもの発端は、「炎上」を起こした人物の発言であるにも関わらず、「炎上」後の発言は取り合ってもらえないというのだ。ここにこそ「炎上」の怖さがあるのだろうと私は考えている。

 少なくともネット上は自由な発言を好きにすることが出来る。このブログがそうであるように、ネット上の媒体は何であれ、誰であっても自由に意思を表明することが出来る。その相手は不特定多数であるのか、特定の人物であるのかは構わない。しかし、「炎上」という現象は、発言者のあげた声を全てかき消してしまう。挙句の果てには、自分の発言していないにも関わらず、自分の発言とされてしまう。それを否定したところで、「炎上」によって発言者の声が届くことはない。

 これは非常に恐ろしいことである。少なくとも「炎上」している間、発言者は何もできないということになり、その騒ぎが収束しなければ、自身の真意について話す余地がない。そして、そこから最初に述べたような身の危険を感じさせるような事態に発展するので、「炎上」は怖いということになるのだ。

 であるならば、「炎上」についてどう対応すればいいのかという問題になるが、基本的な対応としてはやたらめったら反応しないというのが、現状の一番とり得る対応になる。やることがあるとするならば、炎上したコメントについてしっかり記録しておき、あまりにも真意と違う内容が書かれていたことのみ、後にしっかりとしたコメントを出すというのが望ましいのではないだろうか。

 芸能人のツイッターやブログなどではブロックやコメント欄の閉鎖などもあるが、これは「炎上」を起こしたのちブログ内での延焼をふせぐのと同時に、強制的に真意もしくは謝罪を目にさせるという効果を狙ったものである。別の掲示板で「炎上」する可能性はあるが、首根っこ掴んで「この話題は終わり」と言われてしまえば、とりあえずは沈静化する。もっとも燻っている状態にもなりかねないので、別の話題でまた引っ張り出されてしまうことはあるかもしれない。

 時間がたてば勝手に収束するので、「炎上」はさして怖くないと思うかもしれない。しかし、いきなり「炎上」した時に対する焦りというのは必ずあるものだ。ただでさえ、即時性に定評のあるネットなのだから、何かしなければと思うのも仕方がない。それが、火に油を注ぐ結果となるのは見えきったことではある。

 こういった炎上騒ぎに嫌気を覚えて、限られた人のみに対して公開する人も多い。それもまた当然の結果であり、不用意な発言をしがちな未成年にとって身を守る最上の手段である。しかし、ネットの自由度を考えると、もったいないと思えるのも確かだ。さらにいえば、限られた人のみの情報公開は自らの視野を狭める結果へとつながりかねず、他人の意見を受け入れる素地をなくしてしまう場合すらある。

 ちなみに自分の意見を伝える相手を見失っていないければ「炎上」はさして怖いものではないのかもしれない。とはいえ、虚空に叫んでいるような言葉は誰がきくのか楽しみでもあり、怖さでもあるという事を認識しなければならないのは事実だ。

 こうした考察を振り返って夏休みが終わってからの「情報」の授業で、色々と話してみようと思う。

 しかし、この「炎上」だが、個人的に「学級崩壊」とよく似ているなという印象を受けた。教員の言っていることを聞かずに勝手気ままに遊びまわり、自分のやりたい放題やってしまう姿に周りも感化されてしまう状態は本当によく似ている。その指導法についても実は少し通ずるものがあり、「なるほどな」と一人納得してしまった。結局のところ、ネットでも現実でもやはり大差はないと改めて確認した。

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遊びが足りない

 あれこれと教科「情報」やデジタル教科書などについて考えていたのだが、ふと視覚障碍者の情報機器利用について疑問が浮かんだ。はっきり言って私も視力がいいとは言えない。小学校時代から眼鏡を使用しているのですっかり馴染んでしまったが、このまま視力が低下して画面が見れなくなってしまうのではないかと不安に思うこともある。そうでなくとも事故や疾病の関係で失明してしまった場合なども考えると、今のようにインターネットを使うことが出来ないのだろう。

 そこで気になって調べてみると、点字キーボードがあることや盲目の方がiphoneを使っていたり、自分でブログなども更新していることがわかった。ネットに限ったことではないが、デジタルというとどうしても視覚情報の面が重視されがちなので、別の角度からデジタルの表現方法を考えることも必要である。ちなみに実際に視覚障害者のためのインターネットブラウザとして日本IBMからaiBrowserというものが開発されていたり、株式会社ナレッジクリエーションからWeb合成音声配信システムといったものがある。まだまだ改良の余地がある分野なので今後も注目していきたい。

 そして、こういったことを調べていく中で思いついたことがある。それは、こういった分野からこそデジタル教材の必要性が提起され、応用として健常者が使えるようにならないのだろうかというものだ。例えば算数や数学の問題などで図形の問題がある。デジタル教材の使い道として例に挙げられることも多いが、実際に立方体の模型を用意しなくとも画面上に立方体を仮想表示させることで、普段見えないところも具体的に詳細に表示でき、イメージを広げることができるというものだ。

 使い方としてはこの上ないほど分かり易いものである。しかし、これを視覚障碍者に適用することが出来るかといえば全くもって役に立つものではない。画面上に表示されたものなど見えないのだから、視覚情報に頼らず別の感覚で立方体をイメージするしかない。では、どうすればいいのか。如何に立方体を説明するのかと考えてしまうが、全く逆の発想で考えてもらいたい。

 むしろ立方体のデバイスを用意してしまうのだ。同じものがパソコンの画面上に表れ、触れたところが色で表示される。当人は視覚以外の情報で立方体という形を知ることが出来る。そしてそれを別の第三者が画面で確認しながら当人に説明してもらうことで、別感覚で立方体を確認しつつも、多角的に立方体を俯瞰することが出来る。さらに、これを健常者の授業で使うことが出来れば、視覚情報を加えられて健常者にとっての授業がより一層授業の幅を広げることになる。わざわざそんなものを用意しなくとも理解できると思うかもしれないが、そういった遊びがなければ面白くないと言いたい。

 正直教育の分野は年齢が上がるほど、遊びが少なくなってくる。受験勉強と合わさる故なのかもしれないが、もっともっと遊びによって教育に活かせるものが出来上がると思う。

 ルービックキューブ型デバイスを用いた電子玩具 TangledCube の提案

 こういったものもあるようなので、ぜひともデジタル教材を考える上で様々な観点からのアプローチをしていくことがデジタル教材に必要となるだろう。

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結局狭くなってない?

 現時点でのインターネットを使っていて、魅力あふれる世界だと考える人はどれくらいいるだろうか。SNSによる呼びかけで数多く集まることに成功している市民運動、新たなサービスが誕生し対価として得られる経済効果、これまで考えられなかった楽しみ方で世界的な広がりを見せるサブカルチャー。と、多くの可能性をまだまだ秘めているように思われるインターネットだが、如何せん盛り上がりが局所的になっているように思われるのはなぜだろうか。そして、その感覚が子どもたちに何かしらの影響を与えていないかを考察してみる。

 そもそも近頃のインターネットに対する持ち上げ方が異常な気がするのだ。確かに様々な点で利点はあるが、その弊害についても警鐘が鳴らされているにもかかわらず、単に規制すれば何とかなるだろうという憶測のもとに進んでいる。ネット上などでは大いに盛り上がって議論がなされているようなものであっても、いざ世間一般の審議の場となるとあまりに知名度が低く、大した影響がでているようには感じられない。

 そんなことはないと考える人もいるだろう。特に「アラブの春」に代表されるような行動や日本での原発に関する行動などはインターネットがあったからこそ大きな盛り上がりを見せたように思える。しかし改めて考えてみれば、これらの行動は元々同意を得やすい内容だったから大きな社会変動が起こったのではないだろうか。特に「民意」と言った集団性を強調するような言葉を持ち出すのは、大した連携活動を普段行っていないために改めて強調しなければならないとも考えられる。一つの言葉に寄り添っていたり、分かり易いスローガンを持ち出しているのも同じような印象を受ける。

 別段それが悪いというわけではない。ただ、曖昧な協調が他の可能性を徹底的に排除しようとする動きは見過ごせるものではない。特にインターネット内の行動タイプと併せて考えてみると、それが大きな障害となっていることもあるのだ。ここで私が考えるインターネット内の行動タイプとは「激しい流動性に捉われた行動」のことだ。情報の即時性と多様性がウリのインターネット上では、新しい情報が入るたび、それにつられた人間の意思や行動が変わることがたびたびある。情報を求めるあまり、イチイチその情報に振り回されてしまうことから、行動に信用がないと感じられてしまうのは宿命だろうか。

 さらに、インターネットでは、一つの意見に乗っかった集団が形成されやすい。東日本大震災の時には良い団結力を発揮していると思うのだが、日常で起こるインターネット上の出来事や意見に対する炎上というのはあまりいいものではない。そしてここに流動性に相反するような個人の固執した意見・行動が曖昧な団体の意思となると、非常に狭い視野に捉われ、情報の多様性からも遠ざかり、インターネットの利点がすべて逆方向にシフトしてしまう。

 このように考えると、インターネット上に構成された集団とは、流動的に動きすぎるために一つの意思にまとまることがなく、信用できるだけの素地がない。さらにまとまったように思える集団は、過激とも取られかねない一つの意見に固執し、他の思想を受け入れず交渉の余地がない。しかし、これらの集団は一部の頭のいい連中からすれば、恰好な商売相手と思えるだろう。何せ前者は流行に飛びつき、後者は都合のいいことを言っていればついてくるのだから、やりやすい相手この上ない。そう考えるとインターネット利用者は体よく踊らされているともいえるのだ。

 ではこんな中に子どもたちを放り込んでみるとどうだろうか。正直「流動性に捉われた行動」と言われれば、子どもたちがやってしまうであろう行動そのままである。さらに、意見の固執もまた同じである。そう考えると、子どもっぽい行動をますます冗長させてしまわせないだろうか。もちろんその中で的確な意見を持ち、しっかりとした意思を主張できる子どもたちもいるだろう。しかし、情報の激流にさらされ、自らの意見を徹底的に否定されかねない状態のなかで、正常に成長できるかと言われれば少しばかり悩まざるを得ない。

 だからといって何も子どもをインターネットに触れさせないほうがいいというわけではない。その前にそういった状況があるから注意するという事、偏った知識に感化され過ぎないようにすることを教えなければならないと言いたいだけである。これも以前あげたような個別に対応するのであれば楽なのだが、全体教育として教えるには難儀である。単なる例示にするだけでは面白味がないので、色々と方法を考えていかなければならない。

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保護者の関心を引くには

 これまでにも何度か大人のネットに対する認識や理解を促さなければ、現在のネットにあふれる問題が解決しないだろうと述べてきた。しかし、そのためにはどうしても理解させるためのきっかけなり、教えるための場所や時間の確保しなければならない。特に保護者にとっては、それらの機会を作ることが難しいようである。もし学校で主催するにしても、ある程度現状のネットやサブカルに対する知識がなければ、誰でも知っているような初歩的な研修で終わってしまうことも考えられる。となれば、それらに捉われない別のアプローチを考えていくしかない。

 さて、どんなアプローチがふさわしいのかと言えば、やはりトラブルに対してのマニュアル書のような形になるのがいいのではないだろうか。実際に子どもたちがネットに関わった結果起こってしまった事例を挙げたうえで、それに対してどのような対処をすればいいのかを簡潔にまとめる。媒体はネットと書籍がいいだろう。とはいっては書籍についてはA4の雑誌のような感じにしてみるのも面白いかもしれない。

 何より子どもと保護者が両方読めるような形にするのが望ましい。こういったことに注意した方がいいというのはお互いに必要な知識である。サブカルについて載せたり、便利サイトについての解説などもあれば関心は高まるのではないだろうか。また相談したい人向けの電話番号やメールアドレスの告知など実質的にサポートできる体制を紹介するなどが出来ればなおのこといい。

 何しろどうしていいかわからないという保護者の声にこたえるための体制を整え、専用の窓口を用意したうえで、ネットだけに頼ることのない情報提供を行わなければならないのだろう。ネットは専門化と一般化が同時に進行し、その乖離が激しくなっている。その潮流を捉え、丁寧に分かり易く生徒・保護者および教員に教えることのできる場が求められている。

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情報は確認されているのか

アクアマリンふくしまの復興日記

 随分と話題となっている。職員の方に関する個人的な感想としては、今後の活動を頑張ってほしいという事である。またいわき湯本温泉ホタルプロジェクト委員会に対しては、関係各所とのプロジェクトに対する精査をしっかりと行ったほうがいいのではないかと思う。これらが大きく取り上げられたことで色々と興味をひかれ、福島全体を将来的に良い方向に導くきっかけとなっていくことを願う。

 さて、では本題に入りたい。果たしてこの復興ブログなのだが、拡散された情報の中でどれだけの人が大本の記事を確認したのだろうか。ツイッターでも大きく取り上げられ、一部記事にもなったようなので、情報が飛び回っているように感じられる。しかし、簡単に確認できる筈のブログを一体どれだけの人が確認し、記事内容を把握したのかはわからない。

 なぜそんなことを思うかと言えば、各コメント欄などを読んでみると明らかに逸脱した感想が飛び出しているのが目につくからである。「圧力」という言葉に過剰反応しているのだろうと思われるが、そうだと考慮しても矛先が別方向に向かい過ぎている感がある。

 この傾向は何も今回に限ったことではない。インターネット上に限った話ではないが、大元の情報を確認するという作業がすっかり抜け落ちてしまって、出てきた情報を鵜呑みにして大騒ぎしていることはよくある。加えて、ネットであればそれが余計な騒ぎに発展してしまっていることも少なくない。

 私自身、出来るだけ情報については複数の情報元や比較・検討などをできるだけしようと心がけているが、そうすると異常に時間を取られることもある。それゆえに即時性は落ちるが、出来うるだけ正確に捉え、もし自ら書いたこと、言動の間違いについてはきっちり訂正したいと思っている。

 だからこそ、生徒たちにもそういったことが出来るような指導をしているるもりである。ある程度ネットについて生徒たちとの共通理解があると、少し偏った意見を言ってくる生徒たちもいる。その生徒に対して、その考えに至った理由やどのサイトを見たのかを確認し、別の意見もあるのではないかという事、それがすべてであると考えてしまうことの危険性についてを述べたりもする。ただし、あくまでも判断するのは己であるという事を明確にしたうえで話を終わらす。

 柔軟な判断力を持っている生徒もいれば、そうでない生徒もいる。大人ですらそうなのだから、それは恥ずべきことではない。だからこそ他の視点を持ち、理解を進めたうえで改めて自己の意見を持つことが重要である。疑ってかかるべきというよりは、深く考え、根拠を探す。そして意見を構築するという基本行動が改めて見直されるべき状況にあるのが今のネットである。

 こういったことを理解させる授業には一体何が必要だろうか。今は個人を通して伝えていることだが、体系化して授業教材として持っていくにはなかなか難解である。

最後にアクアマリンふくしまと湯本温泉の今後について色々と思っているツイッターのまとめを紹介して終わりたいと思う。

アクアマリン復興ブログ×湯本温泉を見守る地元民の思い

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経験

 日本人の知らない日本語3 祝!卒業編

 この本を知っている人も多いと思う。この本の中で面白いやり取りがある。日本語をある程度理解できる外国人の方が腹痛で倒れ、その症状を医者に伝える時の話である。日本語学校の教員が付き添いでいくのだが、医者が話している日本語は外国人の方にはほとんど通じず、なぜか日本語教員と話すときにはスムーズに会話が進むといものだ。その理由は、日本語教員は外国人がそれまで習った語彙や文法を使って話したから外国人に理解できたのであり、医者の話す言葉は知らない言葉や言い回しが多かったゆえに伝わらなかったというわけだ。

 これは、他の授業にも言えることではあるが、もう少し視点を変えてみると、生徒の実態を掴んでいるからこそ、授業が成り立つとも言えるのだ。特にこれらは講演や出前授業などを頼んだ時にあらためて見えてくるところがある。または教育実習生の授業でも似たようなことがあるかもしれない。

 授業に意識を向けさせるという事は非常に難しい。特に多人数で30人以上をまとめる場合には、間というかタイミングが重要である。パンと手を叩いて「こちらに集中してください」というだけでも、そこには積み上げてきた習慣と集合体の掴み方がある。

 経験を積めば誰でもが習得可能な技術だろう。しかし、こうすればいいと伝えてできるものではない。その技術は生徒ともに積み上げてきた技術でしかない。同じ言い方、同じ行動をしたとしても同じ授業にはならない。腰を据え、自分と生徒で授業を作るという意思がなければ、技術として蓄積しない。年間を通して関わり続けるからこそできるものと考えなければならない。

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何故求め続けるのか②

 さて前日に引き続いて、情報を求め続ける理由について書いていく。

 ようは、情報を知りたいという欲求を持っているのは確かであっても、個人でできることの限界点に到達していたのではないかと考えている。その限界点とは、収集・保有・処理であったが、情報機器とネットワークの普及によって、それぞれの限界点を超えることが可能になったために、知りたいという欲求に歯止めがかからなくなっているのではないだろうか。しかし、前回の最後に述べたように、これには情報の中心点と他者の介在という見逃せない落とし穴がある。今回はそれについて書いていきたい。

 ここでいう情報の中心点とは、知りたい情報の核を構成するものであり、情報を求める者が「最も知りたい情報」ということであると考えてもらえばいい。分かり易い例を挙げるのであるならば、著名人が過去に不倫したという事実が露呈した時に、当時の「不倫相手は誰なのか」という情報のようなものである。

 このような情報を知りたい理由は様々考えられる。単なる興味本位であったり、追い込む材料であったり、金銭的価値に変えるための手段であったりするかもしれない。ただその中でも情報を追う姿として最も脅威であるのが、単なる興味本位でしかない個人の集合体である。当事者にとってみれば違うかもしれないが、そことは視点を別にして考えていく。

 なぜ興味本位の人たちが厄介なのかと言えば、彼らにとってみれば当初の情報はそこまで気になるものではな買ったはずである。しかし、もたらされる情報が多くなるにつれ、何を知りたかったのかという情報の中心点が徐々にずれ始めたとしても気にするものではなくなり、ついには全く関係のない情報まで追っていることになりかねない。今回のいじめ事件でも同じようなことが展開されている。当初、いじめの加害者の名前と見受けられるものが出てきたところから、急激にその親族や関係者と思われるところまで追及されている。本当に必要と思われる情報から逸れてまで知りたがるのは明らかにやり過ぎである。

 この情報の中心点が変化していくのに加えて、情報の収集、保有、処理にすべて他者が深く関わっていることは見過ごせない点である。もともとすべての要素において他者の介入はあったにせよ、ネットワークの一般化に伴い、情報の視点、蓄積の方法、解釈の仕方等が別れるようになってきた。特に情報処理に積極的な他者の介入を許してしまうことはあまりいいとは言えない。多くの意見を聞き、自ら判断を下すというスタンスがしっかりしていればよいのだが、情報をそのまま鵜呑みにしてしまうような人にとっては、結局自分の情報処理能力を下げかねることになりかねない。

 そう考えると、やはり情報活用能力や情報リテラシーと呼ばれるものが必要なのだと考えられるが、むしろ情報を知り過ぎないためのストッパーとしての役割を果たす能力に一役買う点もあるのかもしれない。いまや「忘れられる権利」が現実味を帯びた世界である。そういった方面においても、情報教育は考えるべきである。

 

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何故求め続けるのか

 連日の個人情報晒しにうんざりし、個人的体験を勇気をもって披露し励ます著名人たちに少々食傷気味な日々であるが、もう少し俯瞰的に考えてみたいことがでてきた。それは、なぜこれほどまでに情報を求め続けているのか、もしくは情報を提供し続けるのかという点である。まあ、とある番組のオープニングでも使用されていたが、アリストテレスの言葉に「全ての人間は生まれながらに知ることを欲する」とある。これで完結してしまいそうな気もするが、これよりは近づいて考察を進めていきたいと思う。

 さて、情報を求める最も単純な理由として挙げられるのが、個人的に知りたいという欲求なのだろう。だが、いくら知りたいと言っても、限界がある。その限界を情報の収集と保有及び処理にわけてみたい。この3つの限界点があることで、際限なく知ろうとしてしまう欲求に歯止めがかかっていたともいえる。

 収集においては、新聞・テレビ・ラジオ等の各メディアが台頭することで、個人による収集量を圧倒的に上回るものを手に入れることができていた。しかし、組織で動く巨大媒体ゆえに細かな情報を追う事は伝えることが出来ず、主たる内容としては概要のみに留まってしまった。また、細部にわたる情報を得るためには、自ら動かねばならず、結局のところ情報収集の限界点にたどり着いてしまった。

 保有については、個人でどれだけ情報量を蓄えることが出来るのかという点に尽きる。各メディアによる情報量は膨大なものに上るが、それを個人所有するには単純にスペースが必要となる。脳内に蓄えるには多すぎる情報量は結局物理的に存在させるしかなく、映像にしても紙にしてもすぐに限界が訪れてしまう。

 処理については、各個人の持つ能力に由来するところが大きい。全てのことが分かる専門家というのはそうそう存在しない。一つの分野に詳しくとも分からないものが必ずあるという点が処理の限界だとするならば、それ以上は見込めないことになる。

 だが、これらの限界点を格段に引き上げるものとして情報機器とネットワークが使われているのが現状である。情報の収集には、これまでのメディアに加え、誰もが情報の発信者となったことで、個人発信の集合化という巨大なメディアが登場し、より一層細かな情報を収取することが可能となった。

 情報の保有についても、各メディアのデータベースが整理され、引き出しやすくなったことに加え、ネットワークそのものに情報を集積し、誰もが共通の情報を得ることも容易となった。

 情報の処理については、自分が専門的知識を持たずとも、ネットワークに介在する人たちの中に分かり易く解説してもらえる可能性も上がったことで、処理能力の向上せずともよくなった。

 ゆえに、限界点に余裕が出来たことで情報を知るという欲求がさらに拡大していると考えられる。ところが、ここに落とし穴が存在する。それが、情報の中心点と他者の介在である。

 この続きはまた後日。

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使えるものは使おう

 本日の情報の授業にて警察庁 犯罪サイバー対策にある情報セキュリティビデオの「サイバー犯罪事件簿 姿なき侵入者」を視聴。とはいっても、動画視聴のサイトはブロックされて見れないため、数年前にGetasfstreamを使って一つのファイルにまとめたので、そちらを使って視聴した。

 しかし、警察庁の方でかなり前から配信されているため、いくら高画質とはいっても、大画面で見る場合には注意が必要である。一応VHSで渡されたものがあるのだが、如何せんビデオデッキを用意しなければならないので、手軽に使える配信されたものをつかうことが多くなってしまった。ビデオキャプチャを使えばいいのだが、ものぐさなため後に伸びっぱなしである。

 内容については制作時期から少し時間がたっていることもあり、些か古さを感じなくもない。しかし、まるっきり的を外した内容というわけでもないので、38分という時間も50分授業にはちょうどよく、大体この時期に見せるようにしている。基本的なストーリーがドラマ形式になっているので、生徒の受けも悪くない。

 このシリーズは他にもあるので、ぜひ使ってみればいいのではないかと思う。情報の授業だけではなく、教員の研修用として見てもらってもいいだろう。

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誰に対しての隠蔽なのか

 隠蔽という言葉が都合よく使われているような気がするのだが気のせいだろうか。大津のいじめ事件に関してこぞって学校や教育委員会が事実を隠蔽していると書かれている。確かにいじめ被害のあった生徒の保護者に対する対応が配慮に欠けていたとは言える。故意に隠していたかは判断が出来ないので何とも言えないが、保護者が「隠蔽」と思ってしまいかねない態度だったことは認めるべきである。

 しかし、これがマスコミや第三者が「隠蔽」や「隠蔽体質」だと騒ぎ立てるのは意味が変わってくる。まず第一に「隠蔽された情報」というものが誰に対して公開しなければならないものだったかを踏まえているかどうかが求められる。そもそもがこれだけ大っぴらに喧伝して回る必要があるのだろうか。この問題を取り上げられた当初ならば、保護者の訴えに注目を集めるという意味で必要だっただろう。しかし、それが執拗な追及に変わり始めた段階で、情報公開の主体が保護者ではなく、一般の視聴者へと変わってしまった。

 ネットで追及する人たちも義憤に駆られ、加害者の素性や親戚関係を暴き立てているが、それは一体誰の為なのか。それらが「隠蔽された情報」だと考えているのだろうか。アンケート結果が精査されなかった事実は追及に値されるが、それらから見えてきた被害の詳細を大々的に取扱い、心情的に許せないことだと繰り返し訴えることが望まれているのだろうか。

 情報は隠蔽しているのではなく、開示する対象を見誤ってはいけないという視点が出てはこないのだろうか。マスコミや興味本位でのぞきたいだけの人物に対して、誤った解釈を広めてほしくないという警戒感が出てくることを隠蔽と言っていいのだろうか。

 事件を風化させないためだというかもしれない。しかし、はっきり言って世間にとってこういった事件など数年も待たずに沈静化してしまう。この数十年で一体何度のいじめ自殺に関しての話題が上り、そして消えていっただろうか。根本的に解決しないといけないと言いながら、自らの関心が向いた時だけ都合よく乗っていく態度に辟易している人も多い。

 また、こういった報道があった学校はほぼ確実にその後荒れる傾向がある。体制を立て直すのに最低でも5年、長くて10年以上かかる場合すらある。その間、学校に通う生徒、保護者に対して、何のフォローもしないのが、積極的に情報を開示しろと言ってきた媒体である。彼らにとって情報とは知りたいだけのものであり、その後をどうにかしようと動くためのものではないのだ。

 そういえるのは私がそれを経験済みだからである。学生だった頃、同じようにいじめ自殺の報道が過熱したことがあった。同級生が自殺でなくなり、学校に報道陣がきて、様々な取材をされたが、その後何事もなかったかのように世間の騒ぎは収まった。しかし、学校の雰囲気が変化していくのを肌で感じた。そして、教育実習生として訪れた時に、その後の話を聞き、かなり荒れた時期が続いたこと、5~10年たってようやく落ち着き始めたことを実感した。

 今、情報の扱いについてとにかく早く共有し、開示することが最善であるかのような風潮が出ているかのように思う。しかし、実際は第三者たる己のために情報を流すべきであるという驕りであり、それを自覚させなければならない時点にきているのだ。それをどう伝えるかが今後の情報教育にも必要であると思う。

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気付いている人も多いと思うが・・・

 いくらインターネットが一般化したと言っても、以前から使っている人にとっては使い道があまり変化するものではない。ゆえにブラウザを起動させた時のホームページがYahoo!JAPANのままの人も多いことだろうと思う。トップにニュースの見出しがあり、検索エンジンでもあるので、使い勝手がいい点もあるだろうし、ホームページの変え方を知らなかったり、変える必要性を感じなかったりと理由は様々考えられる。しかし先ごろそのニュースが変容しているの気付いているだろうか。

 きっかけは些細なことだった。職場で同僚と話した時にいる最中、大津のいじめの事件の話が出た時のことである。親族に警察の関係者がいるらしいとか、地方の有力者がついているのは本当だろうかと言ってきたので、疑わしい情報なのであまりあてにしないほうがいいと忠告しておいた。そして、ネットからの伝聞情報はよくよく検討しないと分からないという話をして、ふと記事の配信元を見ているかと聞いてみたのだ。するとあまり気にしたことがないとのことだった。

 これはと思ったので、改めて聞いてみると、配信元の変化について気が付いている様子はなかった。実際知らない人はちょっとチェックをしてみてほしい。数年前のYahooのニュース記事はいわゆる三大紙と言われる新聞社の大手に加え、共同通信社や時事通信社などが配信した記事が掲載されていることが多かった。しかしここ最近は、様々な配信元の記事が掲載れている。特に経済などは新聞社ではなく、雑誌社が台頭していることも多くなってきた。

 以前から細かい記事などではよく見られていたのは確かだが、トップの見出しにまで使われるようになったのは最近の傾向なのではないかと思う。情報媒体が増えたことも関係しているのだろうが、このときに気をつけなくてならない点がある。それが情報の信頼性に関するものだ。あなたは誰が発信しているかもわからない情報を信じることが出来るだろうか。これまでの慣習で大体の記事が大手が載せているものと考え違いをしてもらっては困る。

 これまでの報道が常に公平な立場に立ってきたかどうかは議論の余地があるとこだろうが、今後はさらに紙面や記事内容についてよくよく情報を見比べなければならない時期に来たと言える。フリーのジャーナリストの善し悪しなどもさながら、大手だから信頼に値する情報を流していて、弱小は心許ないといった類のものではない。多数の情報を比較検討し、自らの意見を構成させることが求められているのだ。

 こうなった背景には大手の有料サイト化や先に述べた情報媒体の増加が挙げられるが、その変化を見落としている人は案外多いのかもしれない。生徒たちはそこまでニュースサイトをみないが、多くの情報媒体があること自体は認識しており、記者そのものに注目している場合もある。しかし大人たちはむしろそちらについては無関心であることも多々ある。大手のサイトなので、掲載元を確認せずに一つの事実として捉えてしまうのは、これから大きな誤解を生んでしまう可能性があることを踏まえて、少し忠告なりしていこうかと思う。

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興味をひかせるのも重要

 3学期制をとっている学校ではすでに期末テストが終わり、夏休みまでの授業で何をするかを考えている先生も多いと思う。自分もまた同じようなものであり、他クラスとのバランスを考えると、あまり展開するのが望ましいものでもないので、少し遊ばせてみることにした。ということでまずは以下の動画を見せてみた。




 以前にも授業で使う動画ということで紹介したものである。そして、実際にこういったものがあるという話をしたうえで、次のサイトにつなぐように指示している。
 
 アルゴロジック

 まあ、簡単なアルゴリズムのゲームだが、自分で色々と動かしてみるという体験をさせてみたものである。遊びにしかならないと思われるかもしれないが、何より興味を持ってもらうことが「情報」にとって重要だと私は考えているので、これはこれでいいものである。是非一度お試しあれ。

 次はAudacityあたりを使って、自分たちの声の波形などを見せてみようかなどとも考えている。教科書で見る図だけでは物足りないので、スペクトログラムで表されたものを見るのも面白いかもしれない。ちなみにwindows標準のWindows Media Player にFRUITYという視覚エフェクトをインストールすることで同じような音の視覚化ができるのでそちらもお勧めしたい。

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集団性の末路

 連日のように大津市のいじめ事件による炎上騒ぎが起こっている。そして危惧していた事態が起こった。

大津いじめ自殺:中学、県庁に爆破予告「謝罪しろ」

 予想していたことであるとはいえ、やはり実際にやられてしまうとため息が出る。さらに一部のコメント等を見ると圧倒的にこの爆破予告を擁護していることにも唖然としまった。そして多く見受けられたのが警察に対して「いじめは捜査しないのに、爆破予告に対しては対応が素早いんだ」といった嘲りと侮蔑の言葉である。これを見た時に少なからずショックを受けた。あまりにも短絡すぎると。背後関係が判然としない「爆破予告」では、その加害者に対してバカなことをするなという反応が見られるのが常である。しかし、今回のような事件の中で起こると圧倒的大多数を持って支持されてしまうのかと思うとあまりにも恐ろしい。

 実はこれと同じように思えるのが、反原発のデモにも言える。「アラブの春」などのようにSNSを利用することで新たな運動を起こしたという意味で、今回のデモを評価している人が多い。確かにそういった意思の示し方が出来たこと自体は社会運動の一つとして確立したのだろう。しかし、その一方で暴論とデマ、数を強調した優位性を翳して混乱をもたらしていることを過小評価しているような気がしてならない。

 このいじめ事件にしても書き込みをしているほとんどのものが事件からすれば第三者でしかない。にもかかわらず事件そのものを考えるというよりは責任の所在を求め、謝罪を要求する声が大多数である。事件そのもののが起こった時には、被害者にとっても救いを求める対象でもなく、加害者にとってもいじめをやめる脅威とならない、まるで関係のない第三者でしかなかった。

 しかし、ひとたび注目されたことで状況が変わった。痛ましい事故であり、責任を求めやすい対象が絞られていた。そこに拍車をかけるのがSNSであった。ネットそのものが一般化したことにもつながるが、各自が意見表明することが容易となったのは確かである。だが、多数が同調しやすい分かり易い意見に流されたのもまた潮流として見過ごせるものではない。そして結果として第三者という集団が生まれ、個人の枠を超えたことで暴力的表現が過剰になってしまった。

 その影響を考慮すると、いくらネットで声を上げたところで集団になるほど、対外的に信用・信頼を得ることはできないと思えてしまう。また、とにかく行動しなければ始まらないと煽る人もいるが、それは集団に身を任せて流されて行動するだけではないのかとも考えられる。「日本人は声を上げ始めた」などと言っているようだが、実際には第三者的行動を繰り返しているだけではないのかと勘ぐってしまう。

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かけ離れていく事態


加害生徒の実名・顔写真も いじめ自殺めぐりネット炎上続く

 ますます事態が悪化しているとしか言いようがない。実際記事が出る前からツイッターなどでは当事者の写真が流出しているのを確認していたが、自ら広めてしまうことを恐れてブログに書くのを躊躇っていた。しかし、他媒体による個人情報を考慮した記事が出たことで、他者視点で書くことが出来る。

 先日書いたように異常である。「社会的制裁」であるというかもしれない。それでいいのだろうか。もう一度よく考えてほしい。あなたが行っている「社会的制裁」はいじめではないのか。因果応報というのであれば、その因をあなた自身も作っているとは言えないのだろうか。

 正すべきものはある。しかし、そのために自ら犯すべきでないことをする必要はない。

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異常であることに気が付いているか


大津市の中2男子「自殺練習」―学校が生徒に口止め「外にしゃべるな」

 この事件の詳細等については、いまだよくわからず、どういった展開になるのか今後注視していかなければならない。しかし現時点で異常な状態になっていることを指摘しなければならないと思った。

 ともかくツイッターで表示される意見がヒドイ。いつもの政治家やマスコミ、警察に対しての罵詈雑言もさながら、今回のコメントについても「死ね」や「死刑にしろ」、「クビにしろ」といった言葉がならぶ。いじめによる被害者が自殺し、それを隠ぺいしたという事からなのだろうが、まるで自分たちが被害者になったかのような勢いで、教員と教育委員会、いじめ加害者について、罵詈雑言を浴びせている。

 しかし、書いている当人たちは気付いていないのだろうか。その言葉そのものが、自分たちが嫌悪している「いじめ」につながるものだということを。悪人に対しては何をやっても許されると、自分たちは正義の、そして被害者の代弁者として述べていると本気で考えているのだろうか。また、こうしてツイートすることで世間が「いじめ根絶」に動くと考えているのだろうか。

 ツイートされた中には、学校の教職員の氏名と住所をすべて公開して糾弾してやろうという趣旨のものもあった。真に受けた人間が本当に電話やメールを仕掛ける可能性もある。自殺した生徒が通っていた学校が今後苛烈な攻撃にさらされて、本来の仕事に集中できないような状況にならないことを祈るばかりである。

 以前より「心の距離・範囲」の話をしているが、今回の事をみても、異常な事態になっているのではないかと危惧してならない。自殺した生徒はすでに自らの手で自分の存在を実態を形造ることはできず、ネットユーザーのそれぞれの心に投影された生徒像のみが肥大化するだけである。その生徒像はユーザーによって生み出されたものであるゆえに、心の距離が非常に短く、さもすれば一部同化してしまう。

 反対に教育委員会や教員、加害者生徒たちの像は自らの像を打ち出すことはできるが、事態を収めるためには大人しく謝るのが最善という事で表だって主張はしない。もし主張したとしても、ネットであれば「被害者に近い」または「被害者と同化した」大多数のユーザーによって糾弾され、言論が封殺されてしまうだろう。被害者側に寄ったユーザーにとって「心の距離」が非常に遠く、耳を傾けるに値しないということなのかもしれない。

 こういったツイートの中に、加害者の実名や教育委員、教員の実名を実際にあげて、反射的に殺害予告などをしてしまわないことを切に願う。

 私は教員であり、上記のようなことを書けば、教育委員会や教員、加害者を擁護していると思われるかもしれない。いじめられ自殺した生徒の事を何も考えていないと言われるかもしれない。それでも、リンク先の記事や他のサイトで見られる反響などをみて書かずにはいられなかった。

 「いじめ根絶」を本気で願い、今も被害者と同じような苦しみを抱えている生徒を救いたいと思うのであれば、冷静に言葉を選んで意見を書いてほしいと思う。どんなに身近に被害者を感じようと事件の当人ではないのだ。痛ましい事件であり、今後見守っていかなければならないからこそ、反射的な言動はするべきではない。

 最後に、亡くなった生徒の冥福を祈るとともに、ご家族、友人、関係者の皆様もお体を損ねることのないようご自愛くださいませ。

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どう生かすか

13歳男子、ウイルス作成の疑いで補導

 興味があれば13歳であってもウイルスを作成するだけの技術力をもてることが図らずしてわかった。ということは、実際に13歳からプログラムを教えるべき内容に組み込むかどうかを広く議論する必要がでてきたと言えるだろう。情報技術の人材を必要としているのは確かである。しかしエンドユーザーにとって簡単で使いやすいものが出てきているぶん、エンジニアの専門化がますます進んでいることも事実でその結果、両者の乖離が深刻なものとなっている。

 この差異を意識した情報教育が必要である。情報教育の内容としては充実してきたと言えるが、それを活かすための人材は不足しているのが、現在の課題だ。

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発信力と拡散力

 どんな部類の話でも同じだと思うのだが、発信力と拡散力は必ずしも比例するものではない。特にネットにおいてはそれが顕著に表れてきているのではないのだろうか。多くの場合、発信力を強化することを望まれるのは、拡散力が情報を受け取った人に大きく左右されることを熟慮していない結果であるとも考えられる。

 ステルスマーケティングは手っ取り早く拡散力を強化するためのものでもあるが、倫理上問題があると提起され下火となってしまった。しかし、これこそが拡散力の影響の大きさを物語っている。如何に発信元に力を入れても、結局拡散させなければ燻るだけでしかない。

 では、この情報発信と拡散力は学校現場においてどの程度必要なのだろうか。以前にもまして学校は情報の発信において消極的だと言われている。確かに学校のホームページの構成の単調さや保護者に対しての紙媒体を中心とした情報の発信はネット社会から見ると実に馬鹿げていると取られるのかもしれない。

 しかし、学校の情報発信とは世間一般の認知度を高める点にあるのだろうか。全国から生徒を集め、ネームバリューを持たせ学校を維持するために情報を発信するのか。それもあるかもしれないが、主題は違うはずだ。学校における情報発信と情報拡散とは保護者や地元及び地域の人々に向けた情報発信と拡散に力を入れなければならない。

 しかし、今のネットは学校が求める伝えたい人に情報を伝えることが必ずしもできているとは言い難い状況にあるのではないだろうか。情報発信と拡散の責任を全て学校が背負うことが望ましいと思われるが、それをシステム化できるだけのノウハウを共有しているところがどれだけあるだろうか。

 そもそもネットに限らず情報の受信力を鍛えずして発信力を強化したところで余計な負担がさらに増えるだけではないのだろうか。もちろんこのままの状態で継続していくことはありえないが、限定された枠内における情報発信、拡散、受信の責任を発信者がすべて受け持つというのは無茶な話だとは考えている。

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どこを起点に考える?


社員のアニメ批判をMXが謝罪「直ちに事実関係を調査し厳正に対処」。

 この一件、先ほど知って色々と思うところがある。この件に関係があるのは果たしてどんな人たちだろうか。

 1 AKB48のアニメを自分のツイッターアカウントで批判したMX放送局社員

 2 MX放送局

 3 アニメの制作にかかわったスタッフ

 4 アニメを見ている視聴者

 5 社員のツイート及び騒動の顛末だけみて発言している人

 ざっと区分けするとこんなところだろうと思う。ではこの1~5に当たる人々はそれぞれどんな思いで行動しているのだろうか。

 ではまず1の行動だが、彼は完全に社員であることを公言している。とはいってもこの発言は、社を代表して書いたわけではなく、完全に「個人的見解」である。彼が単なる一般人として話していたならば、単なる独り言で終わっていいただろう。しかし、彼は自らの所属を元よりあかしていたことで事態はこじれていった。なぜ彼は所属を明かしていたのに、会社にとって不利益となる発言をしたのか。後に本人らしき人物が謝罪文を出していることからも、個の矜持をもって発言したわけでもないことが分かる。それではなぜか。

 それは単純に言ってしまえば、彼とネットにおける彼自身の「心の距離」を自覚出来ていなかったということである。この場合の「心の距離」とは「心の範囲」ともいえる。すなわち1にとってツイッターの発言とは完全に個人の範囲の出来事でしかなかったわけだが、所属を付記している以上、その所属に関することであれば、公式見解と取られても仕方ない状況にある。個人でありながら団体の一員であることを付記している以上、「心の範囲」は団体の「心の範囲であるとの認識をしておく必要があった。余程個人的なことであれば、団体とは切り離されるが、そうでない場合は団体がもつ「心の範囲」を意識しなければならないだろう。

 ちなみに5に当たる人物たちの発言が、リンク先のツイートにある。その中に「言論統制」であるとか、「AKB批判して何が悪い」とか言っている人たちがいる。これは完全に個人の発言であり、団体としての考慮がないから言えることである。「批判して何が悪い」と思うかもしれないが、少なくとも騒動の中心であった1が会社を「批判」するだけの度胸がなく、覚悟もなしの発言だったとしか取れなければ、今回の行動は単に軽率であったとしか言いようがない。

 2の放送局はにとってはとんだとばっちりである。尻拭いをさせられて面倒臭いことこの上ないだろう。仮にもメディア団体としての「心の範囲」を扱っているのだから。正直最近の日本の会社の対応は会社に所属する個人の出来事に対して非常に敏感である。ハッキリいって会社としては、自社に対して批判的な人物を切り捨てる選択肢は当然あるのだ。非人道的だとか倫理的に問題があると考える人もいるかもしれないが、組織運営する上ではバカな行動を起こしてしまうのであれば不利益にしかならない。もっとも今回はそこまでしなくとも収まったわけだが。

 3にしては本当にため息の出るような話だろう。1に同調するものもいるかもしれないが、それでも作り上げたものを「恥」と言われるのはやるせない気持ちになってしまうと思う。1を見る3の目線には冷たいものが混じるのではなかろうか。

 4にしては1の発言は過剰な反応が出るだろう。よりにもよって放送局に所属する人間なのだから、その発言は公式と同じように捉えたとしてもおかしくはない。最も前後のツイートを見れば完全に「個人的発言」であることも理解できるので過剰な行動は控える場合もある。とはいえ、それでも看過するには見過ごせないと考えるだろうと思う。

 5にとっては完全なる話題の玩具でしかない。自分もまたそこに区分けされてしまうわけだが、自分とこの一件は「心の距離」でいうと完全に遠い出来事でしかない。ゆえに客観的視点を持って眺めるわけだが、結局のところそれは野次馬であると宣言しているようなものである。

 しかし、本当にこの手のことはいつになっても起きるものだが、これが収まる日が来るのかが全く見えないのも非常に恐ろしいことではある。


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