教育徒然

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踊る阿呆に見る阿呆


 「踊る阿呆に見る阿呆同じアホなら踊らにゃ損々」というわけで阿波踊りの出だしなわけだが、結局のところこれが今のネット上の現状なのだろうなという気がする。誰もかれもがネットをやり始めたからにはお祭り気分で騒いでいた方が面白い。だからあちらこちらで何かがあった時に、野次馬のように顔をだし、大騒ぎする。その場に合わないのなら祭りの雰囲気を壊すからいないほうがいい。楽しくやりたい奴だけくればいい。そんな感じだろうか。

 少しばかりうんざりするのはなぜだろうか。

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Excelの使用法

 2学期からエクセルを使って授業をしていくので、こんな使い方があるのかという事例をいくつか提示。まあ、真面目な内容ではなく、こんなことしてどうするのかという例。まあ、面白いのでこれはこれでありだよなという。












 色々と問題はあるけれど、発想の一つとして、または何がどうして問題になるのかなども含めて話してみるのも一つの手。

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修士課程はいいとして

中教審 教員養成で修士課程履修を答申

「教員免許、大学院修了を要件ー中教審答申」のニュースに関連して

 色々と反応が出ていることも含めて自分の考えを書いていきたい。

 まあ、大学院についてはそういうのもあっていいだろうなという程度のもの。自分が教育とは全く関係のない学部から教育系の院に進んだこともあるので、別に無意味とは思わないし、色々と学べることはあるだろうと思う。ただ、長期実習というのがどういったものを想定しているのかが見えてこないので、現場視点で見ると面倒に思われるのは仕方ないような気がする。

 それこそ付属学校を持っているような大学ならば常に連携を取った対応が取れるのかもしれない。しかし、正直その手の付属学校では、生徒が集まりやすく、いわゆる「いい子」がそろっている場合が多いので、なんとか実状を分かってほしいというような底辺校には目が届かないのではないかという懸念がある。個別ケースでいじめや不登校に取り組むのは当然なのだが、学校全体の傾向として悩んでいるところに大学組織が入ってくるケースはほとんどない、と現場の教員は思っている。

 他にも色々と絡んでくることがあるのだが、そのあたりはもう少しいろいろ明確になった時にもで書いていきたい。

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独り言は声を落として

 ツイッターでは本当にあちらこちらでネタを提供してくれているのだが、なぜこんなにも発生するのかを考えてみる。と同時に急に注目された人に対しても色々と考えてみる。

 まず以前から述べているようにツイッターで発言するという事は、最初の段階では虚空に向かって言葉を投げかけているようなものである。誰が返すかもわからず、ただとりあえず話してみる。それがフォロワー数が少ない段階の話であり、正直独り言と何ら変わりはない。

 ではこれがフォロワー数が増えてくるとどう変わるか。相互フォローの関係や自分の身近なところに限定された場合だと、大体20~30人といったとこだろうか。こうなると自分の発言に対して返事が増える。自分がフォローしている人間も増えているが、有名人のツイッター等になると返事が来るものだと思ってはいない。ここで少しツイッターに対して勘違いが起きるような気がする。

 それは結局のところツイッターがメールと同じような扱いでいいというものだ。もちろんメール的使い方をしてはいけないわけではない。しかし、自分の属する狭いコミュニティ内のやり取りが誰にでも見られるようになっているとの認識は格段に下がっているように思われる。しかも、閉じた世界にありがちなことなことだが、自分の狭い範囲内で話をしていると声が大きくなりやすい。

 さて、この声の大きさだが、特にツイッターではフォロワーの人数が声の大きさに相当するようなものではないだろうか。そしてフォローしてくれた人たちの性質が声質に置き換わるような気がする。想像してほしい。どこかのファミレスで大人数でいる人たちほど声が大きくなってはいないだろうか。しかも、その集団に対してあまりいい印象がなければ聞き触りがいいものではないだろう。これと全く同じことがツイッターでも起こっている。

 そして、これが沢山のフォロワー数を持った人となるとどうなるか。その人は相当声が大きく、周りの人たちに対してメガホンで叫んでいるようなものである。この声の大きさを自覚している人はさほどプライベートな内容を言ったりはしない。特に有名人の公式アカウントなどはそれこそプライベートと思っていないだろう。しかし、フォロワー数の急に増えたような一般人しかもプライベートと区別をつけないツイッターの使い方をしている人はそれこそ大声で叫びっぱなしである。

 叫び続けている当人としてはフォローしてもらっているだけで叫んでいるという感覚はないかもしれない。しかし、周囲の人間にしてみればなにをしているんだろうと訝しんでおり、それを発言者が止めることはできない。そもそも発言者はどう思っているのだろうか場合によっては当人も声を潜めたいと思っているかもしれない。しかし、フォロワー数を自分で減らす必要性がないと考え、自分の発言に何ら問題ないと思っている人もいるだろう。

 そういった場合をどのように考えるか。正直声が大きい人は声が大きいことを自覚してほしい。そして、その声の大きさや声質で小さな声の意見をかき消さないように耳を傾けてもらうことが必要なのではないだろうか。正直双方向性などあってないようなもので、意見を消さぬようそっとフォローしておくのがいいような気がする。殊更声を大きく喧嘩腰に吹っかけ捲し立てても双方にとって得るものはない。

 

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数を数えるときは慎重に

 如何せんネットをやっていると否応なしに様々な数字が目に入ってくる。言葉のやり取りが中心になっているのだから当然といえば当然なのだが、どうにも疑問に思うような数字が目に貼ってくる機会も多い。そしてその数字を完全に鵜呑みにしているのではないかという言動も目立つ。もちろん正しい数字を上げようとしている部分もあるのだろうが、どうも独りよがりになっていないかと疑いたくなる例も見受けられる。

 非常に気になるのが、個人の意見に対して向けられる人または意見の数である。どうしてもネットという媒体では人の数が多くなるほど、声も大きくあっという間に一つの意見が拡散する傾向がある。問題はこの拡散した意見に人が簡単に乗ってしまいやすいという事と、場合によってはその意見の発言主が数に反応して、自分はすごいことを言ったまたはすごい人物なのだと勘違いしやすい点にある。

 自分の都合のいいように意見を解釈するのは勝手なのだが、自分が思っているほどに自分は支持されていないという事を念頭に置いた方がいいと思われる。簡単に同調できる仕組みがあるという事は、人は簡単に自分から離れていくという事も表している。そういった意味でネット上で数を数えるときには慎重になった方がいいだろう。

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ROM専の使い方間違ってない?

 どうも釈然としないのはなぜだろうか。まずは以下のリンク先の記事を読んでもらいたい。

意見発信しない「ROM専」たち

 さて、これを読んで引っかかる点はいくつもある。しかし、一番気になる点は「意見を発信しない理由」である。知識足らずを自覚しているから、意見の発信を躊躇する。確かにその一面はあるだろう。だが、それを主な理由として、彼らがROM専であり、意見を発信しない「高度情報化社会」に取り残される若者というのは早計に過ぎる。むしろそういった人物は様々な情報を取り入れ、自分の考えを構築しているのだと考えるべきである。

 そもそも意見を発信しない理由の第1位が「意味がない」となっている。にも拘らずなぜ「意味がない」理由が第2位の意見である「知識がないから」になってしまったのか。このように言うのであれば、「なぜ発信に意味がないのか」を解答させたアンケート結果が必要となる。

 では「意見を発信しない理由が意味がないから」と答えた理由は何なのだろうか。ここからは推測にすぎず、一つの仮定と受け取ってもらいたい。まず今回のアンケートに答えた人物たちは学生という事からもある程度若い人たちに限られるという事になる。さらに、アンケートに答え意見を発信した人物ではあるが、約6割近くが問題意識を抱えながらも発信できないROM専に近い人たちだということになるらしい。

 ROM専ということであるならば情報収集は各自行っていることは間違いない。どの程度の有効解答率かはわからないので何とも言えないが、少なくともアンケートを知り答えた以上は丸っきり情報を集めていないという事にはならないだろう。

 そんな彼らがなぜ意見発信に意味がないと考えるのか。それは各自の性格等もあり得るだろうが、一番大きいのは「自分たちが情報収集の過程で見てきた他人の意見発信にほとんど誰も応えていない」という実態があるからではないかと推測する。

 はっきり言ってしまえば、意見を発信する理由は自分の考えに耳を傾けてほしいという欲求によるものなのに、それに誰も反応を返さないのであれば、「意味がない」と考えるに十分な理由ではないだろうか。意見を発信するとは自己表現であり、余程の達観者でない限り誰かに認めてもらいたいと思うのは当然である。それが実現できないのが大多数だと思えば、無意味に思えて仕方がない。それが意見発信に意味がないと思う理由だと私は考えている。

 最初は反応がなくて当然であると思うかもしれない。しかし、双方向性という言葉に踊らされて、虚空に向かって言葉を投げかけていることを認められない人も多いのだ。そして、さらに厄介なことがある。それが意見発信をしない理由第2位の「知識がない」につながる。すなわち、自分の言いたいことは他の誰かも言っていたという出来事だ。

 今はオリジナル性が求められているといって過言ではない。これまでとは違うもの、新しいもの、斬新な意見、それらが常に求められている。似たようなもの、独自性が感じられないものは、他の人のパクリではないかとか、そんなことは他の誰かがやっていると言われてしまう。一つの問題に対し2人の人物が同時に考えはじめ、両者が全く同じ独自の理論を考えたとしても、発表するのが10秒遅ければ、遅く発表した人物はパクリと疑われてしまう。それが今の状況である。

 それを象徴するような言葉が「情報弱者」と「情報強者」である。今や「情弱」といえば「そんなことも知らないのか」という蔑みのような意味すら持っているのではないかと窺わせる使い方をされている。「情強」はどちらかというと皮肉った言い方もされている。本来であれば「情弱」の人がいたならば、そういった人物に対して教える役目を持ってもいいのだが、それを使う人間の中に親切に教えようとする人物は少ない。

 そんな中でネームバリューもない人物が自分の意見を述べて、誰がそれを認めてくれるだろう。オリジナルにとんだと思っていた自分の意見が、誰かのパクリだと言われ、情弱だとバカにされるのを黙って認められるだろうか。それが怖いから情報を発信する前に必死に情報を集めているのだ。

 確かに「高度情報化社会」では意見の収集も発信も容易かもしれない。しかし、意見を分析し、独自性を持った情報を作り出すことは容易ではない。若者が意見を発信しないのは、これをやろうとしているからであると私は考える。本来なら自由に発信し、そこから意見交換し、自分の考えを作っていくことが重要なので、独自性は後回しでいいのだが、オリジナルを生み出させようと無理強いさせていることが意見発信の委縮につながっている。

 これが釈然としなかった根本である。

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あなた(私)の書いた文章は本当にあなた(私)が書いたの?

 さて、先日紹介した内容についてようやく考えがまとまってきたので、それを記したいと思う。そのとっかかりとなるのがタイトルにかいたものである。

 私がそうであるように、今もしくはこれまでにおいて様々な人がインターネット上に文字を書き、動画を投稿し、音声を残している。では、それが本当にあなたのものであると、他の人のものではないと自分自身に証明することはできるだろうか。もしくはそれを全く知らない第三者に証明することが出来るだろうか。

 他人に証明することの難しさはともかく、なぜ自分に対して自分の文章であると証明する必要があるのかと思うかもしれない。だが両者の視点が存在することが絶対に必要なのである。なぜ必要なのかは後述するとして、証明する方法を考えてほしい。

 自分に対しても他人に対しても証明する方法として最も簡単なものは、制作に際し、その途中がわかるものがあればいい。その過程がどのようなものであったのか、経緯が分かるものが示されるのであれば何よりの証拠となる。先日の「妹のために描いた絵が盗作された。」騒動の原作を描いた人も、それらを持ち合わせているとのことであり、オリジナルファイルについてもその記録がなされていることで証明がなされていると考えられる。

 しかし、絵や音声に関するものであれば、その経緯そのものが証拠となり得るが、文章で表されたものとなると証拠として示すには弱いように思える。もちろんどの過程であってもコンピュータのログという点まで示すことが出来るのであればいいのだが、一般的な方法として広がっているかと言えば疑問を感じざるを得ない。そして一般的な面でいえば、証拠と言えずとも他に自分が書いたと示す最も確実なものがある。それこそ自分自身の記憶である。またネット上で自分を表すアカウントやハンドルネーム名義で出されたものも自分の言葉であると示されることになるだろう。

 逆に言えば一般的なレベルでは、ネット上で自分が自分であると示すものは登録された文字と自身の記憶のみが拠り所でしかないとも言える。もちろん言葉であれば文章の癖であったり絵であればその筆使い、音声であればその声音だったりと細かく見ていけば自分が記したものが自分のものであると示すができる。だが、一見しただけでは判別が難しく、デジタル上、丸っきりコピーが不可ではないと言い切れないのも現状なのだ。

 ここで重要なのが、先述した自分の言葉であることの証明、そしてネット上に示された言葉を自分のものである、もしくは自分の投影であると認識できるかどうかである。出来て当たり前のことで何をバカなことを言っているのかと思うかもしれないがよく考えてほしい。私たちは自分たちの記憶が主となって自己の行動だと認識している。もし自分の記憶にないことを自分がやったとして、それを簡単に認めることが出来るだろうか。また、自分の突発的な行動や言葉を素直に受け入れることが出来ているのだろうか。

 ごく簡単な例でいえば「夜中の手紙」を挙げることが出来る。夜中に書いた手紙を翌日の朝見返してみれば、とてつもなく恥ずかしいことを書いており、とても自分が書いたとは思えないというものだ。他にも頭に血が上って咄嗟に思っても見ない言葉を投げかけていたり、極端な例でいえば酒による酩酊状態で話したことなど、自分では言うと思ってもみなかった言葉を表してしまう状況は他にも考えられる。それこそ「中2病」や「黒歴史」などと使われている過去の自分の行動・言動を恥ずかしがる感覚などは誰にでもあるものだ。そんな認めがたい自分の行動を、ネット上に存在する自分の投影たる文字の羅列であるIDやハンドルネームが行ったとして、それを実直に受け止めなければならない。

 これまた簡単なことのように思うかもしれないが、未成熟なものや子どもたちにとって実は難しいことなのだ。なぜそうなるかといえば、発達段階にある子どもにとって「自分」というものが確立できていないからである。発達心理学の用語に「視点取得」という言葉がある。これは「自分の中に設定される他人」のことと考えてもらえばいい。いわば「他人がどのように自分を見ているか」ということであり、一説にはこの視点取得がなされることによって自分を捉えることが出来るというものである。

 一般に視点取得は段階を分けて、生まれてから12歳くらいまでの間に発達するという。ということは、大人に比べて子どもは自分と他者の境界線が曖昧になりやすいことを示唆している。さらにいえば、もし他人の視点を取得することで自分を認識するのであれば、「自分」という認識が曖昧であるほど、「自分」を「他人」であると感じてしまうかもしれない。だからこそ自分自身の言葉を自分で証明できるかが重要なのである。そこに強い自意識がなければ、ネットの自分と実際の自分は容易く乖離してしまう。逆もまた然りで、「他人」を「自分」だと感じてしまう事すらあり得る。

 これが前回の話や以前の中学生の詩の盗作問題につながるのではないかと考えている。まず彼らは誰かの手によってネット上にアップロードされたものを他の人のものであると当初は理解している。しかし、それを見て、コピーしたことで、他人のものではなく、自分のものであると勘違いをしてしまう。勘違いのレベルはそれぞれによって異なるが、場合によっては自分もこれと同じものを作成できるとまで思い込んでしまうこともありうるだろう。

 さらに、本当は自分のものでないと分かっていても、強固に自分で作ったものだと言い張ってしまうのは、それを証明できないであろうという驕りからもきているのだろう。「自分」のものを「自分」のものであると証明できないのだから、「他人」もまた証明できないだろうという考えだ。しかも、もし証明されたとしても、いざとなればアカウントでしか証明できず、「他人」としか感じられない「自分」を捨ててさえしまえば、それで現実の「自分」は傷つかずにすむ。

 以上が、現在起こっているであろうことの推測である。実証できているものではないうえ、心理学等を専攻していたわけでもないので、曖昧な知識からの憶測に過ぎない。しかし、こういったことも今後の指導のヒントになるかもしれない。それほどに今の状況はひっ迫していると考えるべきである。
 
 

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偽りは己をも殺す

日本で行われた調査ではないが、面白い内容の記事を見つけた。

子どもが親を欺く10の手口 - 10代若者のオンライン活動実態調査

 さて、これを見た矢先に以下のようなやり取りを見つけた。これをどう考えるか。

妹のために描いた絵が盗作された。

妹のために描いた絵が盗作された。の続き

 詳細はリンク先で確認してもらうとして、こういった事例が起きることは予測できたとして、何が問題なのか、どう対処するかを焦点に考えるべきである。

 自分自身をも欺き続けていかねばならない状況に自ら追い込んでしまい、挙句の果てには非難の的となってしまった人物。ちなみに以下のような例もあるらしい。

 面接にやってくる「pixivで他人の絵を印刷してファイルに入れてくる」応募者
 
 彼らはどうしてこのようなことをやってしまったのか。

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情報の収束

 ずっと気になっていた。ツイッターのリツイートに何か違和感があった。「拡散希望」という言葉に常に疑問を感じていた。「周りの人に教えてあげて下さい」という呼びかけを不思議に思った。そしてようやくそのもやもやとした感覚に名前が付いたような気がする。すなわち「情報の収束」という考え方の欠如に対する苛立ちである。

 ツイッターに限ったことではないが、SNSの利用によって多くの情報が発信され、それらが拡散されているのは多くの人が確認できる。拡散された情報の種類は様々で、良い結果をもたらしたものもあれば、いまだに悪用されているものもある。ここで重要なことは、拡散された情報が収束に向かうために出来る行動があまりに制限されているという事である。 なぜ「忘れられる権利」が注目を浴びたのかを考えてほしい。この権利は主に個人情報及びプライバシーに関するものであるが、実際にはそれ以上の意味を考えてもいいのではないだろうか。

 私たちは今やネットを使って誰もが情報を発信できる立場にある。しかも、その情報はどんなものであっても構わない。事実なのかそれとも真実なのか、嘘なのか、ねつ造であるかもしれないが、それらの情報を発信することについて制約があるわけではない。ゆえに、発信された情報について、知ってしまった人物は少なくとも発信された情報を考慮する必要がでてくる。しかし情報を知った人物がどの程度検証するかは変わる。この情報の検証が「情報の収束」に関わってくる。

 まず出回った情報について何も検証しない人の行動について考えてみよう。ここで、仮にそういった人たちを「A」としておく。ある人物がトクダネという形で情報を流したとする。すると、トクダネを知った「A」はどういった行動に出るのかと言えば、なぜか条件反射のように周りの人にそれを伝えようとするだろう。それこそツイッターでいえばリツイートして、知らない人物に真っ先に知らせようとする。場合によっては、その情報を信じきって、感想までいれてくるかもしれない。そして真っ先に他に知らしめようとするため、いち早く情報が拡散することになる。

 次に出回った情報について素人なりに検証してみる人の行動について考える。ここの人たちは「B」とする。「B」はトクダネが流れてきた時に、とりあえず情報について疑問を呈してみる。断片的に流れた情報の何が怪しいか、不自然なところがないか、果たして事実と言えるのかを考察して、それを新たな情報として流していく。ここで生まれた情報は最初に広まった情報に付随するように流れるので、これまでの噂や伝聞などと混濁され、最初に流れた情報を変質させてしまう可能性が高い。

 さらに出回った情報について真偽がわかるレベルまで検証してみる人の行動についてはどうだろうか。これらを「C」と考える。「C」の人たちは豊富な知識及び自ら情報を辿るルートが確立しているため、そこから事実につながる情報を導き出すことはできる。しかし、実際にトクダネが流れてきた時には検証するために時間を取られ、しかも情報を確定した根拠も求められるがゆえに、自ら事実を発信する場合には時間も取られるうえ、情報量が格段に増えて、流れるスピードは非常に遅い。

 このトクダネに対するAとBの行動が情報の拡散に関わり、Cと場合によってはBの発した情報及びその行動如何が情報の収束に関わってくる。しかし、問題は情報の拡散と収束にある時間差である。拡散するという方向性を示された場合、そのスピードには目を見張るものがある。ところが収束させるための行動は、収束するための情報を変質させてはならず、さらに確定のための情報量も増えているため、隅々まで行きわたることがない。数多いやり取りの中では、あまりにもトクダネが突拍子もないために拡散よりも収束行動が先に出ることはある。しかし、やはり現在の情報の拡散状況を見れば、収束させる意図もないまま、ただいたずらに情報を流し、拡散させてしまう行動が蔓延していると言わざるを得ない。

 加えて、拡散に関わったAはトクダネをただ拡散させただけという意識しかなく、情報に対してなんら意味を見出さない場合すらある。そのため、情報の拡散という行動そのものにも責任があるという意識を植え付けさせない限り、無目的に情報は拡散されるだけである。

 Bの行動とて、Aや悪意をもった人間によっては、情報をただ拡散され、迷惑をこうむる場合も想定される。また収束の方向性についても些か課題がある。収束の方向性にあまりにも偏りがあり、選択された情報の流し方によってはまるで思ってもみなかった結論へと導かれてしまうことすら考えられる。

 特に気を付けなければならないのは、拡散という行動そのものが、流された情報に同調するものだと取られかねないことである。第三者が、一つの意見に対して自らの考えを述べるのではなく、拡散という行動に加担することで、情報をもたらした人物に対してまるで完全に同調しているように取られてしまうのは、意見形成する上であまりにも単純である。しかも、ネットという自由に意見を言える場があるにもかかわらず、他者の乗っかるだけにすぎない行動は、意見の単調化という新たな課題を引き出しているように思われる。

 これを深刻に考え、最低でもBの行動をとれるような教育をしていかなければ、情報の拡散にのまれ翻弄されかねない。まず情報を見かけたのであれば、拡散する前に考えるという指針はしっかりと示すべきである。

 ちなみに、私の個人的な感想として、今のツイッターは2ちゃんねるに勝るとも劣らない掲示板と似たようなものである。さらにいえば、まとめサイトがあることで、その収束の方向性についても偏りがでてきている。2ちゃんねるの一部まとめサイトが締め出しをくらったことは今後のツイッターについても同じようなことが起きることを暗示しているように思われる。
 

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教える目的

 教科「情報」の授業で教えている内容と言えば、Word,Excel,PowerPointが多く、非難の的となりやすい。曰く、それを教えて何になるのか、曰く、他に教えることがたくさんあるだろうとのことである。御説御尤もだと言いたいところだが、改めて考えてみると少し視点を変えれば、そういった学習を進めることも否定できないのではないかと思う。そのあたりを少し書いていきたい。

 そもそもなぜマイクロソフト社のオフィス製品を使うかと言われればそれだけ普及しているという事の裏付けでもある。もちろんこれ以外にも文書処理ソフト、表計算ソフト、プレゼンソフトはあるだろうが、使われるのが最も可能性が高いのであれば、それを使用することに対してさほど問題ではない。ゆえにソフトに対して行われているような批判は、問題の本質を捉えていないのではないかと思われる。もちろんこれは教育上の観点から見ただけで、それぞれの企業の思惑等にのったものではない。

 そうなると本題は一体どこにあるのか。それは一つ目に実習により過ぎた授業と、二つ目に生活に寄ったコンピュータの一般的知識と授業内容の乖離である。

 まず実習により過ぎた授業というのは、情報という教科が入ってきた頃の状況を踏まえて考えれば分かり易い。情報という教科自体、世相を反映して新しく設立されたものであり、当初はどんな授業を展開すればいいのか試行錯誤しながらのものであった。さらに新設教科であったことから、教員も他教科から引っ張ってこられ、わずかな研修期間を経て教えることが可能となった。その中で情報機器を扱う授業を新しく教えるとなれば、戸惑うことが多かったであろう。

 そこでどうしたかと言えば、とにかく情報機器を使わせるしかないと思うのが当然の流れである。しかも、職業系の教科ではすでに機器を利用し、実習を重視した授業で行われており、それに倣って実習中心となるのは始めから見えていたことである。しかも、情報の教諭採用枠はごく少数でしかなく、対応した人材が少ない以上、これまでのやり方が踏襲されているは致し方ないというしかない。
 
 そして、その状況に疑問を感じさせる事態が二つ目の点にある。教科「情報」が始まった当初は、今ほどの普及を一般が予測するには至らなかった。仕事場でコンピュータが使えないと苦労するという認識だったので、むしろ実習中心となるのを容認するレベルであったろう。

 しかし、状況は変わった。今や日常的に情報機器を使い、ネットワークに接続し、更なる情報媒体が生まれている。そこに新たな問題が介在し、誰もが知り得るような状況を作り出している。利便性がありながら、使う人間の問題も指摘されているのであるならば、学校でその内容を取り扱うのも当然であると考えるのはごく自然である。実際、新しく改訂された教科「情報」の内容も時代に即したものといえるだろう。

 とはいえ、その内容は専門的分野にも踏み込んでいるので、なかなか授業を見ることのない人たちにとっては把握しづらいものである。さらに、行われている実習が旧態依然とした技術力を上げているだけのものだと見えてしまえば、本当に情報教育は大丈夫なのかと疑問に思いたくなる気持ちも分からないではない。

 こういったことが批判される原因ではないだろうか。他にもあると思われるが、とりあえずこういった思想を打破するべく、教える側は今後の授業を行う上で一つ思考の転換をはかってはどうだろうか。その考えの一つとして私の意見を述べたい。

 まず自信を持ってWord,Excel.PowerPointを教えてもらいたい。しかし、その目的は技術を上げることではなく、発信力の向上を主としていると考えてほしいのだ。なぜ発信力なのかと言えば、今後最も重要なのが発信力だからである。

 これまでの内容とは結局のところ、「情報処理」としての側面が強いものであった。如何にして自分の手元にある情報を効率よくまとめるか、如何にして簡単にまとめるかという点が主であったように思われる。しかし、これからはそれをどのようにまとめるかというよりも、如何に他人に見やすいようにするかという点にシフトしていってもらいたいのだ。

 各個人がネットで様々な発言をし、発信力を高めているのが今のネットの現状である。制限されたソフト内でいかにして表現し、それを魅力的に見せるか。この点が重要視されてしかるべきである。情報モラルであっても、それは同じであり、情報の受信者としての立場以外に、情報の発信者としての立場が鮮明になってきている。

 如何にして情報を構成するかを考えることは、情報の受信者としての発想も鍛えることになる、単に技術力を上げるというのではなく、情報の担い手としての立場を明確にすることが、授業の深みにも繋がるはずである。もちろん知識面についての授業も必須であるが、そのあたりは先日の「情報フルーエンシー」の考え方にも通ずるところがあるので、そちらを参考にしてもらいたい。いずれにせよ、少しだけでも見方を変えれば、やり様はいくらでもある。

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新たな言葉「情報フルーエンシー」

 あちらこちらとネットを見ていると興味ひかれる記事に出くわすものである。しかし、同時に時間を取って見回してみなければ見つからなかったとも言える。

スマホ普及は進むもリテラシーは身に付かず

記事補足☆スマホ普及は進むもリテラシーは身に付かず

 さて、上記の内容を見てどう思うかと問われれば、それはそうだろうなという思いであり、項目ごとに挙げるとすれば次の3つである。


 ① スマートフォンの普及とICTに関する基礎的な知識・技術の習得をつなげるのは少し苦しい。

 ② タッチタイピングの習得が半数近くいたのはむしろ多いなと驚く。

 ③ 「情報フルーエンシー」は電子教科書の普及と共に広げていくしかない。



 それぞれについて補足していこう。まず①についてだが、確かにスマートフォンは情報機器である。であれば、ICTにつながることも理解できるのだが、そのまま情報教育の履修状況に話を進めてしまうのは些か唐突に感じてしまう。教科「情報」であれば、パソコンや携帯電話について取り扱うこともあり、近年のスマートフォンの普及状況を考えればスマートフォンに関しての話をすることもある。ただ結局あくまで端末の種類が増えたということに過ぎないので、普及と共に知識の習得につながるかといえば、そんなことがあるわけがないと言うしかない。

 また②については正直な感想で半数近くの学生がタッチタイピングが出来るのかと素直に驚いた。調べた学校によって違いもあるだろうが、他の大学でどのような結果になるかも気になるところだ。

 そして③の「情報フルーエンシー」という言葉については初めて知ったので、辰己准教授の論文を読んでみた。以下に示しておこう。

情報フルーエンシー ─情報リテラシーの次にある概念─

 これを読んでみて思うのは、共用パソコンで実習を含んだ内容として扱うには、システムの新たな構築が必要とされるのではないだろうか。であれば、電子教科書の早期普及とともに個人設定及びログイン、アカウント、インストール、ライセンスなどを実践的に学ばせる方がいいだろう。何せ私自身授業で、一通りの内容については教えてはいるが、セットアップなどを含めたやり取りは実践に勝るものはなく、どうしても知識では生徒が上の空になってしまっている。

 さらにいえば、これを高等学校の教科「情報」内で教えることが妥当であると判断しにくい。個人的には教えても構わない内容であり、事実取り扱ってもいる。しかし、傍目から見た時に「それは授業でやることなのか」という訝しげな視点を持つ人間がいるのではないだろうか。特にアップデートやインストールなどは「何も自分でやるべきことではないのか」と教える必要があるのかと判断に困ってしまうのが現状であろう。

 そのあたりの境目をつけられるかどうかが「情報フルーエンシー」という考え方が広まる要素に関わってくるのではないだろうか。

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フィルタリングする理由

 子どもたちが携帯電話やスマートフォンを持ち始め、その使い方が問題視されている。その対応策としてフィルタリングが効果的であると考えられたことも相まって、青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律によって強制的にフィルタリングがなされるような措置が可能となった。私の個人的な意見としてはフィルタリングをかけることそのものは反対ではない。ただし、保護者が子どもたちに対し、なぜフィルタリングするのかを説明する必要はあると考えている。

 そもそもなぜフィルタリングをするのであろうか。その理由として有害情報に子どもたちが触れさせないというものを挙げることができるだろう。上記のリンク先にあげた青少年ネット規制法のwikipediaのページでは、有害情報として以下のものを挙げている。


 一 犯罪若しくは刑罰法令に触れる行為を直接的かつ明示的に請け負い、仲介し、若しくは誘引し、又は自殺を直接的かつ明示的に誘引する情報

 一 人の性行為又は性器等のわいせつな描写その他の著しく性欲を興奮させ又は刺激する情報

 一 殺人、処刑、虐待等の場面の陰惨な描写その他の著しく残虐な内容の情報



 これらが有害情報だとされている。確かにこれらは青少年が見るに相応しいものではない。ゆえにフィルタリングを通して閲覧できないようにするのだが、実質的に有害情報だけをシャットアウトできるわけではない。結果として特定のサイトにつながらないようにするブラックリスト方式か特定のサイトのみつながるようにするホワイトリスト方式のどちらかを使うほかないのがフィルタリングの現状である。

 しかし、フィルタリングの限界は今後の検討課題としても、それ以上にフィルタリングをする意味を保護者は子どもたちに説明できるだろうか。「あなたが見てはいけないものがあるから、見せない設定をする」と言うだけではなく、「なぜ見てはいけない」のかを説明できるかどうかがカギである。

 高等学校では、ほとんどの学校で生徒用のパソコンにはフィルタリングもしくはアクセス制限が導入されている。そのレベルは各地域差があると思われるが、全くもって無制限に見ることが出来るものはほとんどないだろう。もちろん私が勤務する学校でも導入されているが、その理由についても授業内で話している。見れないサイトはおおむねアダルト系サイト、動画サイト、ギャンブルサイト、掲示板サイト等である。



 一 誰もが使う共用パソコンで見てもいい内容ではない。

 一 年齢制限がかけられているサイト等は、サイト側から見ることを拒否されている。

 一 公共のパソコンであり、何かあった際に、責任が取れる立場ではない。



 以上のような説明をしていると、案外生徒たちは納得するものだ。その背景には、それぞれの手元に自分たち専用の端末を持っているが故でもある。しかし、動画サイトは興味をそそられる内容が多く、回線も安定的でないと見れないので、パソコンで見せてほしいという要望がある。そういった要望についても、もし動画サイトのフィルタリングを解除したら「生徒全員が集中して授業を受けることが出来るか」、「動画サイトばかりに夢中になりはしないか」など、生徒たち自身の甘さを指摘し、その責を負うことが出来るかを問うと、自らフィルタリングに納得してくれる。これは先日のエントリーに出した水谷氏の話の中に通じるものでもある。ちなみに動画サイトに関しては有害情報でないものをこちらで面白いものを提示してやることで、新たな興味を引き出したり、授業実践に使えたりとあえて普段見せないことで、より注目を集めることもできる。

 家庭ではフィルタリングをかける意味の説明は変わってくるが、単に有害情報だからフィルタリングを掛けるというだけではないものにしてほしい。例えば以下のものはどうだろうか。



 一 年齢制限のかかっているサイトは、見る資格を持っていないために見ることが出来ない。

 一 何かあった時に責任を問われるのは、自分だけではない。

 一 ネットをやる理由を説明しなさい。



 少なくともこれらを言うだけでも子どもたち自身のフィルタリングに関して考えるきっかけになるだろう。保護者がフィルタリングそのものについて知っておくことも重要だが、子どもたち自身がどのように考えるかも後に影響してくるのだ。私自身、授業の中でフィルタリングを扱うが、興味を持ってくる生徒は多い。

 また、フィルタリングをすり抜けて色々な情報を見たがるのは子どもであれば仕方ないことである。昔であればアダルト本を隠し持っている男の子などどこにもいたのであり、その本を見つけた母親はわざわざ処分せず、なぜ見せびらかすように机の上に置いたのか。そういったことを考えてほしい。フィルタリングとはただシャットアウトするものではなく、その後の対応こそ真価が問われるものである。

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なぜ規制した方がいいと考えたのか

 なかなか面白いものを見た。

衆議院青少年問題特別委員会内容→「ネット規制しろ、ケータイ規制しろ、ゲーム規制しろ」

 出来るだけ上記のまとめられた反応だけではなく、記事内リンクにあった審議中継も見た方がいい。念のため、こちらでもリンク先を提示しておく。該当箇所は書かれている通り、1:28:50前後からである。

衆議院インターネット審議中継 青少年問題に関する件(いじめ問題)
 
 さて、色々と言いたいことがあるのだが、とりあえず事実確認から。
 
 1 水谷氏がネットや携帯電話、ゲームを規制した方がいいと言ったのか。

 これについては間違いなく言っている。ただし、どの程度の規制を念頭に置いているかについては不明。子どもたちには全面的に使わせない方がいいととれる発言だが、具体的な規制内容を述べているわけではない。
 
 2 インターネット、携帯、ゲームを規制すれば成績も良くなり、いじめも不登校引きこもりも減る。

 水谷氏の発言の中で、2のような発言があった。氏によれば中高で講演した際に、生徒たちに対して「携帯電話等でインターネットをする時間をなくせば成績が上がるか」と聞いたところ8割前後の生徒が手を挙げたという。それだけネットに時間を費やしているということの証左であるとのことだが、実際にネット等を使わないことで成績が上がるというデータを出したとか、またはいじめや不登校が減るのかといったことに関しての統計データを示したわけではない。
  
 3 ネットの状況はひどすぎる。製造物責任(PL)法の解釈を拡大して、表現やネットゲーム生産者責任を問うべき。

 これまた水谷氏の発言だが、どういった現状を見てネットがひどすぎると思ったのかは不明。また製造物責任法によってそれらを是正できると考えた経緯についても述べられてはいない。

 こんなところで事実確認はいいだろうか。しかし、なぜ水谷氏はこういったことを述べるに至ったのだろうか。私の推測でしかないが、上記のように述べてしまう理由を考えてみよう。

 まず規制しようと考える理由だが、すでに2で出ているようにネットで時間を費やし過ぎて勉学に集中できないということだろう。青少年のインターネット利用環境実態調査などをみると確かに学年が上がるごとにネットを使う時間は増えている。しかし、それがすぐ成績に直結するかと言われれば、一昔前の「テレビを見てるとバカになる」ぐらいの印象とそう変わらないのではないかと思う。

 さらに、いじめや不登校がネットによって増えたと直接的に言える原因を示すデータを私は探し出すことはできなかった。ただ、以前指摘されていた「学校裏サイト」などの誹謗中傷によるいじめがあったり、不登校になった生徒が自宅でネットをやっているとの姿は容易に想像できるので、ネットがあることによりいじめや不登校が助長されるということは考えられる。

 また3で出たネットの状況がひどすぎるというのが何を示しているのかは分からないが、おそらくあまりにも混然としているという意味なのではないだろうか。確かにネット上には膨大な情報が溢れ、子ども達が取得する情報としては早すぎるのではないかと思われるものが多数存在する。自己申告による制限と申し訳程度のフィルタリングでは心許ないと思ったのかもしれない。さらには、身の守り方を知らず、無防備で実社会と変わらぬネットに接する子どもたちに危機感を覚えたのかもしれない。

 こういった想像から水谷氏は規制した方がいいという考えに至ったのではないだろうか。ただここで水谷氏の言っている規制は「法」による規制だと明言しているわけではない。どうしても規制というと「法律」によって強制的に子どもたちにネットを使わせない規制を想像しがちであるが、今回の言葉だけで判断することは難しい。むしろ製造物責任法を持ち出していることからも子どもたちを取り巻くネットの環境を規制するという解釈に聞こえる。

 とまあ、自分なりに水谷氏の言葉について上記のような意図で発言したのではないかと考えてみた。さて、ここから私の気になる点について述べていきたい。今回の発端は馳議員が「ネット中毒」の危険性について水谷氏に質問したことである。その中で上記のようなやりとりがあったのだが、このときに両者ともに現在行われている「情報教育」について考慮している様子はなかった。かろうじて水谷氏が「保護者が(ネット環境等を)与えてしまう」と述べただけである。

 水谷氏の場合は、いじめ問題の説明をした時に「学校が対処すべきいじめ」と「警察が対処すべきいじめ」と区別している。そのためネットに関する問題は学校では解決できず、保護者によって管理されるべきだがそれすらもできていないので別の規制の形を持ち出し、教育では限界があると判断したのかもしれない。馳議員の場合は実際にどのように考えているのかが分からないが、情報教育について言及していない以上、何も期待していない可能性すらある。

 こういった時に情報教育が俎上にのってこないことこそが危機的状況ではないのだろうか。ネットはどうしようもないから規制しかないと判断し、教育する意味を深く考えない。義務教育から情報機器を使わせ、それを正しく導こうとしているにも関わらず、「規制」という考えが優先して出てしまう事の危うさが表れている。

 確かに教育は万能ではない。しかし、なぜネットを使うのか、社会とネットの関係や子どもたち自身がどのように接すればいいのかなどは教育だからこそ考えられるテーマである。単にネット中毒という言葉で一括りにまとめられたものを規制すればいいというのは横暴にしか思えない。そして「規制」という発想が優先される現況はもっと教育の有用性を打ち出して払拭する必要がある。

 だが、情報モラルに限った教育としても、あまりにも打ち出し方が正当過ぎて効果の程が疑われているのではないか。あまりにも当たり前すぎて教育の意味を見失ってはいないのか。それこそネットがあまりにもひどいというのであれば、少しでもインパクトのある教育的アプローチを行わなければならない段階にきているのではないか。そんなことを思わせる答弁であった。 

 ※ 話題はそれるが、水谷氏の当該箇所以外の発言でいじめから逃げることについての言及があった。近頃増えているいじめられた状況に陥ったならば「逃げてもいい」という発言だが、あれに対して水谷氏は苦言を呈している。「逃げてもいい」と言っている人があるが、あれは無責任な発言であると。いじめられた当人はその場から逃げだしても、後々まで苦しんでいる。第三者は「逃げればいい」と言うだけではなく、いじめられた当人にいつか必ず「向き合う」ことを考えさせなければならず、それこそ重要だと。これには全面的に同意できる。
 

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向き合う選択

 おそらく今後の子どもたちにネットを使わせるうえで教えておくべき重要なポイントは、「向き合う」という選択を自らとることが出来るかにあろう。現状のネットを賑わせる様々な要素と今後の発展性から見ると、そういう結論に達した。

 まず今のネットの様相とはどこを見ればいいのかと考えると、一つに絞りきることはできない。といっても結局人と人とのやり取りから様相が見て取れるということを考えると、SNS系を中心に考察していけばいいのではないかと思う。中でもツイッターやニコニコ動画、2チャンネル、各ブログ等をみていく。

 見ていくとは言ったが、私が傍から見ただけの感想にすぎない。それでも大体の場所で似たようなことが起きているように思われる。どこのサイトにしても使う人が多くなるごとに人が流入し一般化がすすむ。そして低年齢層と高年齢層の差が際立つようになり、各コミュニティ等による囲い込みが進んでいると感じる。さらに個人の活躍が目立つようになったが、同時にその個人を取り囲む個の集団に一定の方向性が付されているのではなかろうか。

 現状から考えて、こういった傾向が劇的に変わることはないだろう。機器や制度、教育などの進み方を考慮しても、良い方向に状況が変わるような要素が見当たらない。となれば、現時点での問題点がそのまま継承されていくことも予想がつく。場合によってはより硬直化してしまうことすら考えられる。

 では、上記した中で気になる点といえば、集団の在り方という点に尽きる。そして、この集団が個人の在り様に大きく影響しているのだ。起点となるのは個人の発言や行動にある。しかし、第三者でしかない他人が大挙して押し寄せることで、その個人が置いてきぼりにされてしまう。これまでは注視されることのなかった傍観者が膨らみ、周囲の同調を呼び寄せて個人を担ぎ上げているのだ。

 そのうえ、傍観者の集団を対象として別の個人が集団を誘導すれば、またそこに別の集団が表れる。この構図によって割を食うのが、起点となる個人にあるとしてしまう傾向こそたちが悪いのだ。しかし傍観者の集団に毒づいたところで、意味はない。傍観者は常に入れ替わるものであり、集団としての統一性すらも移り変わってしまう。

 なぜこういった傍観者の集団ができるのかといえば、そこにはネットによって助長された「逃げやすさ」にあると私は考えている。いわゆる匿名の投稿などが分かり易いだろうが、問題はそこに集約するものではない。以前はネットを実名制にすることで解決するなどとも言われ、未だにそういった主張をしている人もいるが、一部資料では実名制の効果は薄いとも言われている。以下に一つの資料としてあげておく。

 実名制がコメント荒らしを解決できない、驚くほど確かな証拠

 さて、ネットの「逃げやすさ」とは名前によるものではないとして、他に何があるかと言えば、具体的にあげられるものがあるわけではない。しかし、必ずしも発言や行動に責任を持たなくていいという心理は見え隠れする。その際たるものがSNSに見られるやり取りである。

 例えばツイッターのまとめサイトのtogetterをみてみる。すべてのやり取りが見られるわけではないので、どちらにしても偏ったまとめ方ではある。しかし色々と見受けられる中で、各個人のやり取りがある。その中では一対一のやり取りだったり、複数体複数のものもあるが、至極まっとうに意見の交換をしていたかと思っても、最後に捨て台詞のようで打ち切られてしまうやり取りがあるのだ。

 もちろん不毛なやり取りに疲れてしまったという例もあるのだが、答えに窮し、逃げてしまったと思われる例も数多くある。過ちを指摘されたのであれば、それを訂正し、自分のミスを認めるのが後の為になると思うだが、それを受け入れられない背景はあるのかもしれない。結果として逃げるしかないのだが、逃げたことで自分の信用を下げているのも確かである。

 狭いコミュニティを維持する上で逃げることは必要かもしれないが、逃げ癖を付けさせることは決していいことではない。集団に対し、まともに個人で立ち向かってもどうしようもないことはある。だからこそ冷静に立ち回り、何に対して自分は向き合っていくのかを考えさせる時間を作る。逃げの一手ではなく、認め向き合うという選択を作るようにすることが子どもたちには必要である。

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エゴサーチ

 何年か前の情報の授業の中で検索エンジンを使わせるときに、まず自分たちの名前を調べてみてはどうかと提案していたものだ。しかし、近頃はあまり積極的に名前を検索させてみようとはしていない。いつごろからか「エゴサーチ」という言葉として認識されはじめ、ともすれば悪い意味で取られかねない行動にも発展している節がある。行動そのものについて批判されるわけではないが、個人情報の追及などとして一部ストーカー行為や執拗な探索にもつながってしまう背景が、そう見させさてしまうのだろう。加えて、生徒たちの反応としても「エゴサーチ」に複雑な思いがあるようだ。

 授業の中で「エゴサーチ」を行った理由としては、何を検索していいか分からない生徒たちのきっかけとして行ってきた。好きなものを検索してみようといったところで、手が止まってしまう場合も多かったので、タイピングの練習がてらでもあった。さらに、本当に自分の名前が出てくることに対する驚きであったり、同姓同名の人物が出てきたことにに対する興味だったりと、生徒自身が面白がる内容だったのだ。加えて、本当に当人の情報が出てくる可能性は低く、出てきたとしても公の記録としてのものが多く、個人のプライベートにかかるもはなかったという背景もあった。

 しかし、近年はそれだけではなくなった。携帯電話やスマートフォンが普及したことによって、公の記録だけではなく、各個人のブログやツイッター、リアルなども含めた様々な情報が出てくるようになったのだ。「エゴサーチ」をする際には本名で行わせることが多いが、まだネットに対する意識が低い生徒たちは本名のまま登録していたり、本名から推測しやすいハンドルネームを使っていたりするので、当人のものであることがすぐわかってしまう。

 子ども同士のやり取りで別段隠すことはないのではないかと思うかもしれない。しかし、生徒たちに聞いてみると、多くの生徒がネットをやり慣れるごとに複数のアカウントを持ち、使い分けしている実態がある。理由は様々だが、リアルとネットは分けているという答えに加え、学校内の友人にはあまり知られたくないという答えを言う生徒もいる。

 特にネット内で活発に情報発信している生徒は、普段友人と接している態度とネットでの別の人物に対する態度が違うことを指摘されるのが恥ずかしいという。多くの場合、この「恥ずかしさ」がアカウントの使い分けをする理由に挙げられるのだろう。さらに、大きく活動している人物にとっては、身近な人に知られるのが怖いという反応を挙げることも出来る。

 ネットを媒体として芸能や言論主張をする人物が多くなった昨今、生徒の中でもそういった活動をする人物は増えてきている。ネットアイドルというほどのものではないにしても、アピールの仕方によっては「知る人ぞ知る」人物を作り上げ、名を売ることができる。そういった活動をする傍ら、普通の学校生活を送りたいという事で、あまり騒ぎ立てないでほしいと願う生徒も存在するのだ。

 ほとんどの場合、大きな活動をするのであれば、保護者が活動を認知しているので問題はなく、事務所に所属するなどネットの広報活動に対する対策は出来ている。しかし、最も懸念する事態とはネットを使っていろいろ活動していることを保護者が知らない場合である。大きな害意から守られる体制を整えられていない生徒は必ずいる。如何にネット内に友人がいたとしても、そばにいなければできないことも多々あるのだ。

 こういったことを踏まえると、「エゴサーチ」に慎重になるという事態もわかってもらえると思う。今後ネットを使う実習の気を付けるべき点として一つあげておくべきだろう。

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教科教育の限界

 今後の授業を行っていく中で、現在の指導法について体系化し、他の現場においても使えるような方法論が必要だと私は考えている。しかし、教科教育という範囲内で扱うべき内容を逸脱しているのではないかという疑問もわいてくる。情報リテラシーもしくは情報活用能力は、今までも必要な能力であったが、ネットの登場によってさらに鍛えられてしかるべき能力である。そのため、基礎的能力よりも応用力の強化に力を入れるとなると、多様な事例を扱うのだが、この事例に含まれるべき例はどの程度のものになるのかが判別がつきにくいのだ。実質的に各担当教員によって異なってしまうので、この分野についての選別が必要だと思う。特に「情報モラル」の扱い方については難しい。

 実際、教科としての情報は「社会と情報」及び「情報の科学」の2科目になったことで、それぞれの系統色がはっきりでてきた。教科書や副教材を見てみると「社会と情報」は特に小中学生を対象にしたとしても違和感のない内容であったりもする。また「情報の科学」については専門的分野を重視し、専門教科「情報」に寄り添うような形になっていると言えるかもしれない。

 しかし、それを踏まえても「情報モラル」の扱い方については、やはり事例にあげるにしては物足りなさを感じてしまう。そこで副教材につなげていくのがいいのだろうが、そちらについても以前から指摘しているように視点の単純化によって扱う内容に厚みがあまりないように思えてしまう。

 加えて、ネットが一般化するごとに「情報モラル」として扱うべきであろうかという内容が複雑化して増えていっている。それらをすべて扱うのは不可能だとしても、巻き込まれる可能性が高いものについては多角化した視点を踏まえた上で、掘り下げて伝えるべきであろうと思う。

 ただ、事例をただ伝えるというのであれば、教員でなくとも構わないのではないかと考えてしまう瞬間がある。今はツイッターやブログなどで様々な人が情報発信をしている時代である。で、あれば「情報モラル」の事例紹介や解説などは専門家に任せればいいのではないだろうか。と、ここまで考えた時にその専門家とは一体誰のことになるのかと悩んでしまった。

 そのあたりが今後の私の行動原理にもかかってくる。情報の教員として授業をするにしても、もう少し自分なりに特化していきたい。

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