教育徒然

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なぜネットでは荒い言葉使いが多いのか②

 さて、前回の最後にネット上に「死ね」に代表される荒い言葉づかいを書いている側から考察したが、今度は読み手がどうお思うかについて書いてみる。

 はっきり言ってしまえば読み手となった私自身の感想では不快極まりないことこのうえない。といっても、この意見もまた主観であり、別の視点を持つと少し違って見えてくるものがある。それは見慣れている者にとってはあまりにも日常的すぎて、あまり気にならない者もいるということだ。この違い、よくよく考えればネットの内情をあまり知らない大人とネットをよく見知っている子どもという構造に置き換えることもできる。

 ほとんどネットに興味がなく、時折ニュースや検索する時に使うという大人が、偶さかネットのある掲示板を見たらどうなるだろう。そこには罵詈雑言が溢れ、とてもまとな意見が書かれているとは思えない惨状にあきれ果て、そこに子どもが書き込みをしていたり、読んでいると想像したら、とても恐怖を感じるのではないだろうか。一方日常的にそこで情報収集をしたり、交流を楽しんでいる子どもがいる場合、いつものことだと笑い、自分もまた同じことをしているのではないだろうか。事実ネットを取り巻く周囲の状況がまさにそれだと言えなくはないだろうか。

 しかし、日常的にネットに慣れ親しんだものはすべて罵詈雑言に耐えられるかというと、そうではない。ただでさえ、「死ね」という言葉そのものは恐怖感を与える。例え自分に向けられたわけではないとしても、不特定多数に向けたものだとしても、公共の場所で叫ぶ言葉ではない。だからこそ私自身の主観として、不快感を禁じ得ないと述べた。ではこういった罵詈雑言を控えさせるにはどのような指導をすべきかを考えなければならない。その一例として私の考えを述べたい。

 まず伝えたいことは、伝えたいときに言葉を荒くするのは効果的ではないということ。誰ともわからぬ相手とのコミュニケーションであるならば、今そこで言葉を荒くして最初からうまくいかない関係を作るのは望ましくない。さらに日常的に感情的な言葉ばかり使っていると、普段の生活まで浸食されていざというときの言葉が出てこないということを付け加えておく。また周りが使っているからという理由で自分も流されるままに使ってしまうのは、はじめから自分の個性をなくしており、それでいいのかということにもつなげてほしい。

 そして、子どもたちへの指導もさておき、それらの言葉を使うことを黙認している状況を改善するためにも、子どもたちに使わせない環境を築く必要がある。そういった言葉を使おうとするのを見咎める保護者の役割がここでは大きい。積極的な介入とまでは言わないが、そんな言葉を使うなよというぐらいの注意でも構わないので、関心を持ってみてほしいということも言えるだろう。

 具体的にどうしようということについてはそれぞれのケースによって異なる部分もあり、言葉も変わってくるだろうが、主旨としては以上のようなものである。
 

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なぜネットでは荒い言葉使いが多いのか①

 あくまで私の見る範囲でしかないが、ネット上のコミュニケーションでは随分と荒い言葉づかいで罵り合いをしているものが多い。その理由について考察してみると、根本は結局自分の言いたいことを聞いてくれという叫びであろうという結果に落ち着いた。それについて述べていきたい。

 さて、ネット上で会話することと、通常の日常会話ですることの違いとは一体なんだろうか。もっとも違う点と言えば、会話の内容が目に見える文字でやり取りされるか目に見えずとも話しているかの違いであろう。こんなことは言われずともわかるだろうが、これは一度の会話で受け取れる情報量が大きく違うという点においてひどく重要な点である。同じ言葉であっても、書かれた言葉のみの会話と実際の面と向き合った会話によるものとでは、そこに表情や声音などから読み取れる点が多々あり、言葉から感じ取れる以上の情報を引き出すことが出来る。それによって状況を変えることが可能となるのだ。書かれた言葉だけでは、状況判断をするには情報が足りないというのは分かってもらえるだろうが、そこからなぜ言葉が荒くなることにつながってしまうのか。

 その理由は「何を言いたいか」という主旨と、相手に対して自分が優位に立つという感情面に即した行動にある。一つの言い合いで為そうとするのは互いの主張を述べ合うという点にあり、それ以上の相手の主張を撤回させるという行動はなかなかに骨の折れる作業である。ゆえに同じ立ち位置で会話を進めようというのではなく、初めから優位に立って見下ろすという論調で話を進めてくる。優位さに騙されてくれれば、それだけで言い合いは勝ったようなものであり、もし対等さを求めてくれば、所詮感情論で動いているので、罵倒に終始し、主旨はそっちのけになってしまう。当初の目的として互いの意思を探り、妥協点もしくは新たな接地点を見つけるというものでなければ、優位に立つという感情面に即し、言葉そのものも感情に即したものになってしまうというのが一つ挙げられると思う。

 さらにもう一つネット上に蔓延する荒い言葉使いの理由をあげたい。これは先ほどのような互いの目的のある言い合いではなく、コメントや掲示板への書き込みなどに出てくる単発の言葉に注目したものである。先日のテレビの特集の中で「死ね」という言葉が「氏ね」という言葉で代用されていたりする例なども挙げられているが、なぜかネット上ではその手の言葉が蔓延している。しかし、なぜこういった言葉がいとも簡単に使われているのか。それは前述した書かれた言葉にこもる情報量の違いにかかってくる。

 まず書いた本人にとって「死ね」という言葉にはどの程度の意味を込めたものなのかを考えてみる。すると本当に死んでほしいという考えはむしろ書かれた「死ね」という言葉に依存しただけのものであり、本当に表すならば「黙ってほしい」や「ここからいなくなってほしい」という言葉が正確に状況を表している。であれば、なぜ「死ね」という言葉を書いたのか。それは、「黙ってほしい」と強く思っているのにも関わらず全く伝わらないので、考えられる最も強い意味を持つ言葉で表そうとしているということだと私は考えている。

 「死ね」という言葉は強烈だ。大概の罵倒を含めて、それらの意味を内包してしまっている。しかも感情面においても揺さぶりをかけるだけの余地を持っている。語感としても分かり易く、字にして表したとしても良いイメージはあまりない。であればこそ、相手に伝える際に強い意味をもったものとして使いやすいのだろう。云わば「超」や「ヤバイ」、「鬼」という言葉に繋がるようなものであり、どれも「強さ」を強調した表現である。また「氏ね」という言葉に変えたことで尚更、使いやすさが生まれてしまっているのかもしれない。あまりにも強すぎる言葉故、「死」を連想させず少し柔らかくして使えるという点においても蔓延してしまった理由にもなり得る。

 加えて、現在のネットの言葉と言えば、即時移り変わるように流れてしまっている。そんな中で端的に表すために短い言葉でなくてはならず、長くても意味のある言葉は誰にも注目されないのを目の当たりにしている現状も拍車をかけているのだろう。しかし、いくら現状がそういった流れにあるといっても、あまりに目にして気持ちのいいものではない。読み手の側として色々と考察する必要がある。そして、そういった状況に対してどう対応するかは次にでも書いていきたい。

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どう考えるべきか

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もやもやもや

 先日とは別件なのだが、テレビで「ネットいじめ」について特集していた。とはいっても10分ほどの1コーナーにすぎないのだが、あまりにもやもやとした気分が抜けない話だったので、その原因について述べていきたい。

 まず内容についてだが、ある女子高生が自分の友人のブログを見つけ、そこに自分に対して辛辣な言葉で非難されていることを知ったというものである。それに対し、さらに何人かの人物がコメントをつけており、同じような非難の言葉であったことから学校を休みがちになった。その後、両親が学校に質問を求め、最初に非難していた友人から謝罪の手紙が送られたものの、ショックが大きく、自主退学したという内容である。今は別の高校に通ってはいるが、未だにネットの言葉を見るのが怖いという悩みがあるとも付け加えている。

 さて、ここに対して何がもやもやしたかを次の3点にまとめてみる。


 ① 「ネットいじめ」という言葉でまとめようとするな。

 ② 第3者という加害者にもっと焦点をあてろ。

 ③ 無暗に対応を批判するのはもってのほか。



 まず、①についてだが、最近のいじめ報道の過熱から「いじめ」と銘打つことで、視聴を促したのではないかと穿った見方をしてしまう気持ちもなくはない。もちろんそういった意図はないのかもしれないが、「ネット」におけるいじめとまとめるには少し被害者に偏り過ぎていないかと思える。そもそものきっかけである被害者に対する非難の言葉は、辛辣であり暴言であることは間違いない。しかし、報道された内容だけから判断すると、どちらかといえば不満の表明であり、それを言えない分ブログに書いたという見方もできる。

 またそれに対していじめたとされる側が複数の人物に働きかけて同調を促しているという描写は見受けられなかった。それを積極的に行い、何かしらの攻撃的行為を実行しているならば、明らかないじめと言えるだろう。事実先日のいじめのケースでは、複数人数による嫌がらせメールの送信という場合も報告されている。しかし、報道された内容からは、そういった行動に至っているようにも思えなかった。

 ここで、そういった言動をオープンスペースでされていること自体が問題であり、被害者にとってはいじめに等しい行為だと考える人もいるだろう。しかし、この視点に関しては加害者当人がそれをどこまで自覚していたかが明らかにしないと問題化しないのも事実である。もし仮にこれが制限つきのブログで限られた人物しか見られなかったとしたらどうだろう。以前も例えたが、そうなってくると昔の交換日記のようなものと同じであり、そもそも発覚しないことになりかねない。特に昨今の中高生のネットへの接し方を見ると、ネットはオープンであるという意識そのものが欠落しているようにも思え、今回のケースは公共性を知らなかったゆえに発覚したと考えられなくもない。そうなると、「ネットいじめ」と銘打つにはあまりにも雑であると考えざるを得ない。

 とはいえ、「ネットいじめ」と銘打つ程度の余地を残しているのは確かである。しかし、仮にも「ネットいじめ」とするのであれば、②の可能性についてもっと言及すべきなのも事実であろう。では第三者という加害者は何かについて説明していく。

 確かに今回のきっかけに最初の非難をなげかけた友人はクローズアップされる。しかし、それを煽っているのは主に第三者であり、話題の中心人物に入ってこない点にこそ「ネットいじめ」であるならば注目されなければならない。アナウンサーの説明の中に、ネットではやり取りを煽って言葉がエスカレートして過激になる傾向があるとあったが、その点についてもっと詳しく、注目する必要がある。その時点で非難を書き込んだ人物にとって、被害者は目に入っておらず、まるっきり関係のない第三者に目が向けられているのだ。そうなると過激なやりとりを煽った第三者にも責任はある。

 ちなみにここまで書くと、あることを想起させはしないだろうか。この第三者はマスコミ自身のことを暗示しているようにも思える。自らは事態を見守っているようで、進展を加速させるやり方は非常によく似ていると言えなくもない。だからこそマスコミには自己批判をしっかりと行ってほしい思い、過剰なマスコミ批判をしている者は自分たちも同じ穴のムジナであると自覚してほしい。

 さて少し話はずれたが、言いたいこととしては野次馬の行動にこそ注目して自制を求めなければ意味はないということだ。暴言の当て字についても、もともと自分たちが考え出されたものではなく、子どもたちの周囲を取り巻くネット社会から得た言葉である。ネットではもともと言葉が荒くなりがちな点も子どもたち自身が自覚しており、実際生活のやり取りとは一線を画している。むしろ過剰反応しているのを面白がる風潮もあるので、それに対して自制を求める立場の人間が少ないことこそ問題である。

 加えて何とか対応しようという点に中途半端な否定をしてもらうのも困ったものである。それが③につながる。このようなネットに書かれた言葉に対して「気にするな」とか「それらを見ないようにすればいい」と被害者に言うのは意味がなく、被害者は書かれていることが気になってしまうと説明があった。

 正直こんな説明ならしないほうがいい。まずネットに書かれた暴言を見ないように促すのは当然である。むしろ被害者が見ようとするのを止めて、見なくてもいいようにサポート・フォローすることこそ重要なのだ。その相談されたことに対して何か行う一つの段階にすぎない点にブレーキを掛けられてしまうことは迷惑にしかならない。また記者の方が「学校や家庭がしっかり対応しなくてはならない」と述べたことについても、ならばその方法についての提案が一つでも二つでもいいから挙げてほしい。色々と対応している身としては、言いっぱなしで丸投げされているようなのはあまり気分のいいものではない。

 ごく簡単なもので構わない。「保護者に代表される大人たちが、いったい何が起こっているのかという関心を向けて、ぜひともネットのことについて子どもたちに質問してほしい。」ぐらいのことを言ってはくれないかと切に願う。

 

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影響

 これまでにも何度かネットワークに関しての危機意識を持つように色々と話してきたが、やはり自分から興味が向かないと意識を持ってくれないのだなと思ってしまった。身近で話されるよりもテレビのわずかな特集で知る方が意識は高まるようである。自分のやってきたことが本当にためになっていたのか自信がなくなるが、それでもこれを機会に関心を向けてもらうことは重要なことだと思う。

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情報の中高接続

 以前より感じていたことだが、エクセルの授業となると、非常に差が出てくる。理解度の差も含め、何より中学校でどれだけパソコンの授業をやっていたかが大きな違いとなって表れてくるのだ。しかも、エクセルの授業では主にオートSUMを使った表計算を使わせているのだが、私が担当している授業ではここに大きな弊害が生じてくる。

 例を挙げると、エクセルのセル番地A10からA15までの範囲を合計する式を構成したいとする。この場合まず授業で教えるのは関数SUMを使ったものではなく、算術演算子の+(プラス)を使って「=A10+A11+A12+A13+A14+A15」という式から教える。これはまず自分で何をしたいかを理解させるための措置であり、パソコン上においても人間と同じことを行っていると感じてもらうためである。そしてエクセル上では「かける」「わる」の記号がアスタリスクとスラッシュに置き換わる事へとつなげ、さらに累乗のハットを使う事まで含めて教えていく。

 ここまで教えてようやく次の段階に進み、SUM関数の登場となる。前述したA10からA15の範囲の合計を出す式と「=SUM(A10:A15)」の式が同じ意味であることを実演し、さらにはそれを自ら記述させる。繰り返し書かせることで、関数を印象付け、記述させることの煩わしさもまた感じ取ってもらう。場合によっては情報処理検定などでオートSUM等が使えないことも考えられるので、自ら頭で式を組み立てることの重要性も兼ねている。

 進度によってはここからさらに別の関数を組み合わせたりする。さて、これを高校の情報で行っているのだが、中学校ではどの程度教えるのかがてんでバラバラで統一性がないのが現状である。特にオートSUMの教え方についても、こうすれば出来るという作業だけで済ませてしまって、なぜそうなるのかを全くと言っていいほど教えていない場合すらある。こうなると生徒たちの知識にもならず、お膳立てされた状況でしか関数を使えず、応用が全くきかないという事もままあるのだ。

 私の場合は、非常に事細かな段階から教えている状況があるので、単に作業工程だけ知っている生徒が早く課題を終えてしまうこともある。しかも、基礎中の基礎から教えないとまったくもって取り組めない生徒が同時に授業を受けているのでは、いくら個別対応とはいっても、なかなか厳しい点がある。応用問題には手が出ず、基礎工程だけを繰り返させるにも飽きが来て、他の生徒にちょっかいを出してしまうことすらあるのだ。

 こういった現状を踏まえて、もう少し中学校と高等学校の情報に対する状況確認は必要である。今後小学校でも、情報に関する内容を取り組ませるのであればなおのこと、それぞれの対応に気を配らなければならないだろう。そのあたりをどの程度指摘してくれるかはわからないままではあるが。

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スマートフォンの何を伝えるのか

 どうやらどこぞで保護者や教員向けにスマートフォンについての講習会などを開くらしい。まあ、色々なところでこういった講習会は開かれていると思うのだが、いったい何を教えているのだろうかと不思議に思う。講習会そのものは悪いものではないのだが、焦点がはっきりしていないと意味がないのだが、そのあたりはどのように捉えているかも今一つ見えてこない。

 結局のところ子どもたちがスマートフォンを持っているということは、それだけ自由にネットが使える環境が整ったということであり、ネット上で何が起こっているのかを伝えるのが主目的であると考えられる。そうなると携帯電話の使い方でやっていたころとあまり変わりはない。またそこに対して私自身の考えとして、一つ確立している部分があるので、講習会において同じようなことを言ってくれればいいのにと思うことがある。

 まずスマートフォン及び携帯電話によって引き起こされることは、ネットがなかった時点においても起こってきたことでしかない。多少規模に違いがあるとはいえほとんど構図に変わりはないのだ。言うなれば掲示板等のSNSにおけるやり取りなどは交換日記に書かれたようなものであり、様々な危ない情報は、公園などに捨てられていた怪しげな雑誌から取り入れたりするようなものである。

 そして、こういった内容に保護者はどのように関与してきたかと言えば、子どもたちの行動にこっそりまたは堂々と干渉することである程度の行動を把握してきた。しかし携帯電話やスマートフォンと言った情報端末が出てきたことで、そこに干渉する手段が限られてしまったと言える。

 また流行している内容がネット内に存在するために、そこにアクセスしようという意思がなければ、子どもの行動を確認することが出来ない。以前のようにテレビや雑誌・ラジオだけで情報を仕入れる時代ではなくなり、共有情報が極端に減ってしまった。

 ではネット内に行動の一部を置いている子どもたちに対して大人はどういった行動を取ればいいのか。講習会の主題は大体そのあたりになるのだろうが、ここで講習をする側と聞く側の乖離が存在する。それは、聞く側の人たちは断片的に聞こえてくるネット上の単語の意味や行動の意味を知りたがるのだが、それを知るためには、そこに至るまでの基本的情報を抑えなければ理解はできない。ゆえに講習会は基本を重視し、わからないことはまた別の機会にという事になってしまうことが大多数である。

 こういった事態を避けるために、講習会では保護者や教員が最も行ってほしいこととして、子どもが何をしているのかを保護者や教員が子どもたちに対してきっちり聞くことを挙げてほしいのだ。中途半端に知識を仕入れるだけではなく、子どもが一体何をしているのか、もしくはネット上にあふれる聞き齧った単語の意味などを直接聞いてしまうことが望ましい。

 もちろん色々なことについて知って、ダメなものは駄目であると教える立場になれればいいのだが、そういった立ち位置になるのはなかなか難しい。だからこそ、知らないことを子どもたち自身から教わり、疑問を持ったらなば質問をしてほしい。知らないにもかかわらず「あれはダメ、これもだめ」と言っているから、子どもたちは大人に対してネットの事を持ちかけようとしない背景も存在する。

 また、子どもが何を聞いても教えてくれないというのであれば、その時こそ豊富な知識を持った人たちから直接教わるチャンスである。そういった姿勢がないと何も解決しないのではないかと私は考えている。

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誰が教員を育てるのか

 先日の教員養成の修士レベル化に関する取り組みについて様々な声が聞こえる。それに伴って、新人教員に対する無茶な仕事の振り方についても問題視しているようである。確かに指摘にある通り、つい一月ほど前まで学生だった人物がいきなり教壇に立ち、しかも担任を持つとなる状況に首をかしげたくなるのもわかる。とはいえ、現状がすぐに変わるわけでもなく、これらにどのように対応するかも求められている。

 正直に言ってしまえば、新人教員を育てるのは一緒に働く教員たちこそがまずは導くしかない。ある程度年齢と経験を重ねると、授業にしてもクラス運営にしても生徒たちから学ぶということが出来るが、現場に入りたての教員が生徒から学ぶにはあまりにも心の余裕がない。

 また周囲の教員から学ぶにしても一つ課題がある。それは教員の関係が非常にスムーズであり、チームとしての取り組みをなすことが予め雰囲気としてできていることである。そうでなければどんな教員であっても現場に馴染むことが出来ず、うまく対応できない。

 様々な理由ではあるが、周囲で何人かやめていく新人教員を見ていると、色々と考えてしまうこともある。なんとも難しい話である。

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学習の目的

 先日、「情報」の授業の中であることを聞かれた。曰く「なぜ情報の授業で、色々な動画を見せるのか」とのことである。この質問をした生徒にしてみれば、純粋に奇妙に思ったのだろう。実習授業であることを考慮しても、他の授業に比べれば自分たちが出来ることの自由度が高く、しかもあまり授業に関係のなさそうな動画を見ることが出来るという点にも不思議だったのだと思う。まあ、生徒によっては授業が簡単すぎたり、無意味に思えるような内容を見せられることが不満であるという場合からくる質問とも捉えられるが、一見したところそういった趣旨ではなかった。

 さて、これに対しての私の答えだが、「楽しくないか?」と答えておいた。別に誤魔化したくて、このように答えというわけではない。実際色々な動画を見ることを楽しみにしている生徒たちは多い。これまでにも何度かこのブログで動画を紹介してきたが、発想の自由さや新技術の応用、バカバカしいほど面白くとも問題提起となり得る何かが存在している物が多い。どこまで生徒たちが理解できるかは分からないが、教科「情報」に関わりのある分野で今起こっている何かしらを少しでも知ることは決して無駄ではない。

 例えば作品の紹介については控えるが、この日はあるゲームのプロモーションビデオを見せてみた。これだけでは本当に何の理由で見せるかは分からないが、コンピュータグラフィックで再現された世界であるということを考慮してほしい。CGであることを念押しして見せたのだが、生徒たちの第一声は「え、本当にCGなの?」という驚きの声であった。これを見たことによって何を感じたのかは生徒それぞれだが、これだけ技術が進歩していることや自分たちの身近にこれだけCGが使われていることなどを知るにはいいきっかけである。

 教科「情報」をどのように活かすかは各教員がどれだけ何を知っているかに比例して内容が膨らんでいく。そして如何に「情報」の知識を生徒たちに魅力的に見せるかで、授業の幅も広がっていくものである。入試などと直接的な関わりが薄いことも関係しているかもしれないのだが、「情報」をこれからの生活に取り入れる為の学習は必要である。

 生徒たち自身が、学習の幅を狭く考えずに多様な思考をもって授業に取り組んで、魅力ある「情報」の授業と為していってくれることが望ましい。

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学習に必要なもの

 子どもたちの学習に必要なものとは一体何かと言われれば、それは学習した子どもたちに対するアクションだと私は考えている。しかし「勉強したから、~~あげる」というご褒美のようなものではなく、ただ純粋に学習という行為を認めることが、一番重要なのである。

 私は現在教科「情報」を教えているのだが、生徒たちは他の教科に比べて熱心に学習しているように思われる。コンピュータそのものを扱うことが楽しかったり、インターネットを使うことが出来るからという理由も考えられるが、何より自分が示した行動が即座に反映され、何かしらのアクションが返されることが嬉しいという側面もある。

 Excelの学習ではSUM関数やAVERAGE関数を使った問題を解かせている。最初は実演としてセル内に関数を記述し、計算を行うと、生徒たちは計算という変化が起こったことに喜んでいる様子がうかがえる。そして自分たちも同じように巻子を書けば、同じ変化が起こったことに喜ぶ。これは正答を自ら導き出す数学の喜びと同じものである。そして、もし間違った記述をした場合には、コンピュータそのものからエラーメッセージが出され、間違いを指摘される。これにがっかりしてやる気をなくす生徒もいるが、しっかりと一緒に確認させ、一部間違いを訂正することで正答に至った結果をほっとしながら喜ぶことをできる。

 これらの行動の中で学習した子どもに対するアクションとは、教員が間違った答えを導き出した生徒をフォローしている行動に加え、コンピュータが間違いを指摘したことも大きな意味を持っている。ある問題に取り組む、または理解しようという行動には、最終的な何かしらの標がある。そこにたどり着くことが必要なのだが、学習の際に、自分の行動が正答に向かったものなのか、それとも間違ったものなのか示されないのは大きな不安を抱えた状態である。だから生徒たちは不安状態を解消するために、正答を求める。仮に正答が初めから示されている場合ならば、解答に対する不安は解消されるが、解答の過程に対する不安が募り始める。すなわち学習とは不安な状態が続くことを意味している。

 そう考えると、少人数制の学習やチーム・ティーチング、習熟度別学習が重宝され、子どもたちの学習に効果があるとされるのは当然である。子どもたちは学習という不安状態から解放される時間が早くなり、次の学習に向かうことに対しての不安が解消される。いくら学習しても安心できる環境ならば学習の効率が上がることになる。

 コンピュータが正答が誤答か指摘するだけでも、子どもたちにとっては一つの不安が解消されることにつながっている。これがデジタルに移行する理由であると考えているのだが、今一つそのあたりが注目されていないようにも感じてしまう。

 そして低学力層の子どもたちは不安状態が解消されないことにより学習そのものに嫌気がさしてしまった典型でもあると考えることが出来る。一般的な教科学習においては、全体学習による座学が主であり、それぞれの学習速度に合ったものではないため、個々人の不安解消につながりづらい。ゆえにやる気そのものが削がれていってしまう。対して実習教科は学習行動に対するアクションが示されやすく、時間の幅もきかせられるものが多い。こういった事実を認識すると、大分授業に対する子どもたちの態度も分かり易くなるのではないだろうか。

 簡単な問題をよくやるのも不安状態の解消と言えば納得できる。こういった理解を踏まえて授業に臨んでいってほしい。



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もやもや

情報を抜き取るスマホアプリに注意、メールでダウンロードさせる手口も

コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況[8月分]について

 さて、先週の授業で以上の内容について生徒たちに注意喚起をしてみた。また無料通話アプリの「LINE」についても色々と気になる点があるので、しっかりと判断して使うようにと話している。とはいえ、生徒たちには強制するのではなく、自らの判断で使用するものを決めることを推奨しているのだが、今一つ伝わりきれていないようにも感じる。

 もともとスマートフォン自体が、情報機器の端末としてかなり有益なのだが、そのぶん悪意のあるアプリの危険性や情報管理の重要性に目を向けなければならない。ところが、そのリスクを回避する理由を見つけられないのが現状であるように思う。いくら注意しろと言っても危険だと思えないのであれば、積極的に対策する理由もなくなってしまうのだろう。一度でも痛い目に合えば対策する気にもなるのだが、いつ危険が襲ってくるのか分からず、気付いた時にはもう手遅れとなっているのがほとんどである。むしろ本当に偽サイトでもつくって体験させる方がいいのかもしれない。

 また自分で判断ということについても曖昧にしか考えていない。自分なりにどういった作用があるのか調べるという基礎を作りたいのだが、きっかけを与えても調べようとする素振りがないのだ。必要な機能だけ分かっていれば、それ以外はどうでもいいという視野狭窄を起こしているようにも考えられる。

 フル機能使ってほしいというわけではないが、どうも使い方に首をかしげたくなる。正直ももやもやとした感覚が抜けない。

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真意はどこに

 たまたまテレビを見ていたところ、先日の誘拐事件に関連して児童ポルノの規制について話をしていた。厳罰化や海外の例を出してきたのもお馴染みだが、あるコメンテーターが、いわゆる「アニメ」に傾倒している人物が問題なのではないかと言っているのを見てまたかと思った。たった一言触れただけではあるが、正直他の番組でも色々なコメントをしている人物であり、いじめ問題についても非常に正論を翳しているにも関わらず、そういった偏見を持っていること自体非常に残念である。そういった偏見が伝染し、いじめを引き起こしている背景があると考えていないのだろうか。

 まあ、正直そういった発言をする人なので、最初から期待も何もしてはいない。それよりも本題に移りたい。最近テレビに限らず、様々な場所で真意はどこにあるのか分からない発言がされるようになっている。特にインターネット上では、それらの発言が溢れているわけだが、問題はそれが嘘やデマ、間違った情報だったときに起こる。多くは謝罪をしろという声と実際にそれらに応え、当事者のホームページやブログなどを使って謝罪をする形となる。もっとも近頃は情報を流すだけ流して、後は知らんぷりということもないわけではないが。

 とはいえ、責任ある立場の場合は大体謝罪という形で示される。しかし、この謝罪に対して何かおかしいということも感じる。何がおかしいかと言えば、ただ事態を収めるために謝罪しているのではないかという点である。近頃はネットの炎上があるために、とにかく早い段階で「謝罪しろ」という声が大きくなる傾向がある。それを収めなければならないという焦りもあるのか、謝罪文を掲載しても妙に中身が薄いと思ってしまうのだ。

 ネットの声を大々的に取り上げるのもいいのだが、実際には何がどうなってそういう事態になったのか、自分がどういう思想だから、その発言に至ったのかという答えが本来は知りたいのである。そこで相いれない部分が出てくるだろうが、それを示さなければ空っぽのまま何も進行しないのではないかと私などは思ってしまう。

 結局のところ「謝罪しろ」と言ったから謝罪するのは、そこに意見などなく踊らされた結果に過ぎない。それが先行しているから炎上し続けるように思うのだ。であれば、少し時間をおいてでもきっちりまとまった意見、自己の心情・真意を述べることの方が意味がある。スピードに流されるままに流されては作り手としても発信者としても浮かばれない。

 

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授業ネタ

伊達政宗の家紋は商標登録されてるから同人誌で使えない!?

 ネタとして使うにはなかなか面白そうなものである。実際に商標権の話などは情報の授業の中で行っており、こんなものを登録されているというのは、目から鱗かもしれない。

もう一つはコチラ。とはいっても名前のところを消しておかないと生徒たちに提示できないだろうな。

『慶応大学。つぶやきが原因で無期限停学処分』。マジで変なツイートするなよ・・・。こうなるぞ・・・

 以前も記事になっているのを生徒たちに提示したことはあるけれど、やはり大学名とか個人名、写真なんかはモザイクかけて対処。

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思考を追う。

 なかなか面白い。

パワーポイントのスライドを使った授業が恐ろしくつまらない理由

パワーポイントのスライドを使った授業が恐ろしくつまらない理由のまとめ

 まあ、パワーポイントによる授業の是非は置いておくとしても、「追体験」ということについては同意できるところが多々ある。これは教える側においても考える基本である。先日の低学力層の指導にもつながるところだが、生徒たちが授業についてこれないのは、教員の思考を追えない所為であると言えるのだ。

 低学力層の知識量が驚くほど少ないという事実を受け入れていると、自分たちが教えようとする内容を理解させるまでに必要な道筋を思い描くことが出来る。時に教えようとする内容を理解するには道筋が遠すぎて、本題にたどり着かないという事もあるだろう。だが、授業の目的を考え、達成するための過程と捉えれば決して悪いことではない。目標に届かないという事があるかもしれないが、確実に生徒たちの力となっているのだから。

 特に重要なのは「点」をつなぎ「線」に変え、「図形」を構築する作業である。例えば一つの公式を覚える作業は、生徒たちに核となる「点」を作り出すものである。「点」と「点」をつなぐという作業は複数の公式を覚えた状態で、状況を限定された問題の解答を導き出すことが「線」に変えることが出来たという事になる。そして、「線」をつなぎ一つの図形を「構築」できるようになると、応用力を身に付け、自在に使う事のできる知恵となるのだ。そして、「点」と「点」をつなぐときに注目されるのが、追体験や思考を追うという事である。

 「点」は非常に細かな知識でしかなく、単独ではなかなか活用できない。教えられた知識を試行錯誤し、多角的な視野で観察する必要がある。この「点」を大きく補強するのが反復練習になるのだが、これは教えた側の思考を追っているだけではなく、自分の思考を追っていることにつながる。

 さらに「点」をつなぐ際には、「点」同士の距離が長ければ長いほど結ぶのが難しくなる。ところが、この過程を省略して「こうすればこうなる」という結果だけ提示してしまう授業だと、生徒はなぜそうなるのか混乱してしまうのだ。補強されない「点」であるほど、「線」を結ぼうとしても歪な「点」の集合体になるだけで、最終的な「図形」には届かない。

 「点」同士の距離を調節し、道筋に沿った多くの「点」を付け加えてやることでしてやることでようやく生徒は教員の思考を追うことが出来、「線」をつなぐことができる。しかし一度の授業で教えられる内容は限られている。そのために「点」を教えることはできても、「線」を形成するための追体験にまで踏み込めないのが現状なのではないだろうか。

 教える側は生徒たちが何を知り、どの程度の理解力があるかによって授業のデザインを変えなければならない。

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学力層ごとの指導

 ある発言の中で低学力層と高学力層の指導には違いがあるというものを見て思う。確かに違いはある。そして低学力層は授業を受ける体制から作り始めるという事については同意が出来る。ただ、それだけではない。そのあたりについて述べていきたい。

 まず底辺校に来ている生徒たちという括りで話を進めていきたい。この生徒たちはやはり一般的な普通高校と比べてしまうと大分学力が低い傾向にある。いわゆる学級崩壊を起こすきっかけになった生徒であったり、通常授業を受けられず、保健室登校をしていた生徒たちが集まってきていたりするので、入学当初はこういった生徒たちに授業を受ける体制を作らなければならないというのが実状である。

 しかし、なぜ彼らはそうまでして高校に通おうとしたのか。その理由は生徒によって異なるが、大抵はせめて「高卒」でありたいという本人や親の希望によるところが大きい。もちろんそれ以外にも高校に入ってやり直したいという願望などもある。ただ総じて言えるのは、生徒たちが授業を受ける目的が非常に弱いという点にある。卒業するためには授業を受けなくてはならず、単位を認定されなければならないという程度の目的しかないので、授業に対して意欲的になれないのだ。これを教える側が認識しているかで、かなり大きな影響がある。

 授業に臨む際に曖昧な目的しか持たないゆえに、最初の指導は授業を受ける体制づくりになる。高校に通う理由を教える側が熟知している場合、「授業を受ける際に~~をしなければならない」というのは、授業の強制ではなく、生徒たちの目的にそった解答でもある。しかし、これを分かってない場合、「~~しないと単位を認めない」などという最終手段のように使ってしまう。これでは、生徒はますます授業そのものに意欲をなくしてしまう結果に陥る。

 そして、ここからが授業担当者の勝負であり、如何に生徒たちに授業の目的を意識させるかが重要となってくる。既に述べたように生徒たちは卒業するという大まかな目的しか持っておらず、各授業に対して何をどうすればいいのかという目的や目標はない。それをどのように授業に引き込み、自ら目的を見つけさせるのか。それこそが求められている。単にテストでいい点を取るのか、それとも授業の内容に興味を持ち、新しいことを知りたいと思うのか、その目的や目標を導き出してやらねばならない。

 それがうまくいかなければ授業は成立しないのが低学力層であると思う。高学力層にとって、高等学校の授業は大学進学のための通過点であり、授業を受けることに対して疑問は持っても、「授業を受けない」という選択をすることは少ない。だから表面上の授業は成立する。先を見ているとも言えるだろう。しかし低学力層にとっては将来の予想をしていないために、授業に取り組む意味が見出せないのだ。それを意識しなければとても授業にはならないだろうと思う。

 実習を中心とした教科はそれを見据えていることが多いために、いわゆる底辺校では取り扱われることが多い。しかし、座学と言えど教員がその視点を持って生徒と授業に取り組み意思を持っていれば、出来ることは多く、授業に向き合わせることが出来る。低学力層と高学力層のどちらが教えるのが難しいかというのは、お話にならない。どちらにもそれぞれの難しさがあるが、初めから自分はできないと言ってしまうのは少々情けないと思う。

 

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ほっと一息。

消費生活相談員かあちゃんからたかしへのアドバイス

みんなの知らないバリアフリー

なんだかほっとしたツイッターのまとめ。

ああ、こういうのが目につくようになるととてもいいのだなと思うのだが。

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