教育徒然

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導入までの長い道のり

 巷では、ipad等のタブレット端末を使った授業が一部実施されているという。実際、その手のニュースを見かけることもあるのだが、いまいち伝わってこないというのが現状であるように思う。この調子でいくと、いったいいつになったらそれらを導入することにつながるのか、分かったものではない。

 効果の検証なども出てきており、「一部保護者の関心も高い」などと言ってはいるものの、それらが姿を表す気配もないのである。というより、しょせん実験でしかなく、導入のことなど端から頭にないのではないかと思ってしまう。生徒たちのスマートフォン所持率はどんどん上がってきている。にも拘らず、使い方や機器そのものについての関心は薄く、情報モラルやセキュリティに関して知ろうとする努力もなかなか見受けられない。

 タブレット端末でできる授業を考えることと情報機器や情報ネットワークに関する知識を知ることは別物ではあるが、今の段階では両者があまりにも乖離しすぎている。これをもう少し近づけることが出来なければ、今後の展望は暗いままではないかと危惧するばかりである。

 本当に何とかしないとならない。

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読んでみようと思う。


「病的な自分好き」が急増、原因はインターネットでの投稿にある?

 まだこの本を手に取って読んでみたわけではないが、記事に書いている内容からは一部その通りだと思える箇所もある。ただ、本当にインターネットの影響が大きいのかという部分については何とも言えない。いずれにせよ読んでみなければ分からないかなという印象。

 しかし、問題はそれにとどまらないように思う。もし本当にそのとおりであるならば、子どもたちに及ぼす影響についてもう深く考える必要性が出てくるだろう。むしろ子どもたちが触れる機会が多いゆえにそうなっているとも考えられる。果たしてどう見るべきか。

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授業見てる?

 以前ここに書いたことがあるように、出来るだけ私は多くの人に授業を見てもらって、何か改良できるところはないかと思っている節がある。それが生徒の為であり、自分の為にもなると考えている。そのうえで、妙に思えた意見があった。それは「非常勤講師は研修を受ける機会がなく、教採を通ってきた後に、その癖を直させなければならない」といった主旨のものである。一見、的を射た意見のようにも思えるのだが、どうもしっくりこなかった。その違和感について述べる。

 現在の教育現場に非常勤講師は多い。先日、派遣会社から教員を派遣してもらうことについて一定の疑義が出たことも関連して、非常勤講師の資質などを問題視している人も多いだろう。だが、本当に非常勤講師は質が低いのだろうか。そもそも何をもって質が低いと考えるのか。

 そのあたりを明確にせず、非常勤講師はダメだと決めつけてしまうことは非常に横暴であるように思える。そして、研修を受けずに授業を行っていることが、これまでの教授法に劣っていると考えることもまた早計ではないのか。そもそも各学校で行ってきた授業は、そこで培ってきた技術であるがゆえに、その現場においてもっとも効果を発揮するものである。それを見ずして、「あなたの授業は癖があって一般的ではない」とするのはあまりにも実践を見ていない。

 実際に指摘をするのであるならば、生徒を目の前にした状況を目の当たりにし、さらに生徒自身がどのような性質をしているかを把握したうえで、指摘をしなければならない。一般的な教授法やたった数例の良いと思われる実践例を出されたところで、教育の善し悪しをその場で図ることはできない。

 一枚のプリントを例にとっても、それは各教員が実践で使ったものであり、使用する際の前提条件を明らかにして、同じような状況まで持ち込まなければ効果が発揮されることはない。

 そのあたりをもう少し考えてほしいものである。

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静かに注目。

森田貴英氏による「著名人とフォロワーの構造、はるかぜちゃんと橋下徹」についての考察

 タイトルや述べられている言葉の中に著名人の名が入っているが、本内容に関しては今後の情報教育において一考しなければならない意見が入っているものと思う。どのように考えるかはそれこそ人それぞれだが、これを如何に咀嚼して子どもに伝えようかと思わせる内容であった。

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情報交換・共有

 ここ何年かの出来事の中で良く思うのだが、出来る限り知り得る範囲内で、情報交換は行った方がいいように思う。自分が知りえた情報がいかな価値を持つのかは分からないが、思わぬところで役立つことがある。そういった点において規模の小さな場では、情報の交換・共有が行われやすい。しかし、小さいがゆえにわずか数人の対応でことが収まり、共有する間もなかったりする場合もある。手早く処置が行われること自体は非常に望ましいことである。だが、その過程やノウハウなどの詳細な点が語られぬまま片付けられてしまうのは、勿体ないと思うのだ。

 それぞれの生徒に対して、どういった指導を行ったのか、それらが語られるのは、たいていの場合、指導が長引いたときである。それまでに散々手を尽くし、各方面の力も借りたことから、説明の必要が生じるようになる。もちろんそれも重要なことである。色々と方策を練ってきたことが、後の手段の基礎となることもあるので、それらは必要な経験である。しかし、実質は簡単に片付いた中にも、とった対応策が良好だったものもあり、それらが埋もれず、継承されることが求められる。

 特に少人数でさっと片付けてしまうのは、それだけ適切な指導をした結果だと思うのだが、それらのノウハウをどうにかして残さなければならない。いわゆる普段の会話やアドバイスなどが、その継承にあたるのだと思うが、その点がうまく機能していないのも現代教育の問題点にあるのではなかろうか。

 最近になって妙にそんなことを思う。

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データえっせい 生徒のコンピュータスキルの国際比較

 さて、どう考えるべきか。ブログを書かれた舞田先生の自己紹介文には「統計を使って,さまざまな教育現実を冷徹に記述する」と書かれており、実際に統計資料から見て取れることを書かれたのだと思う。実際、私が教えている生徒たちの入学当初のコンピュータスキルが高いかと言われれば、PISAの調査と同じ、もしくはもっと低い数値になるのではないかと思う。しかし、少し実状を踏まえて考えてみたい。

 以前、少し触れたこともあるが、「情報」の授業の中で大変な点として、各クラスの生徒たちはコンピュータスキルの個人差に大分差があることを上げることが出来る。この理由には、中学校でどれだけ授業が行われてきたかも定かではないうえ、家庭環境においても常にパソコンに触れる機会があるかどうかなどもあるだろう。特に本校では、場合によってはアルファベットの認識に不明瞭なところがある生徒なども在籍しているので、趣味で動画投稿などをしている生徒と同じ授業を受けさせるのでは、大分難しいことになる。

 とはいっても、実際にPISAにおけるコンピュータスキルの基準を元に考えていいのかという疑問もある。それぞれの項目は、①デジタル写真の編集、②データベース作成、③表計算のグラフ作成、④プレゼン作成、⑤マルチメディア資料作成、である。コンピュータの使い道としてよくあげられるものであり、文中で述べられている通り、「身につけておいて損はないスキル」ではある。しかし、特筆して必ず身に付けるべきかと問われた場合については何とも言えない。

 さらに言えば、基礎能力を上げた状態の高校生であれば、使い方を少し教えるだけで、どのスキルについても「誰かに手伝ってもらえばできる」という答えに至れるだけの状況になるのではないかと思う。むしろコンピュータスキルと言っても、基礎能力がなければ取り扱えるものではない。その点を推して図るべきというところだろうか。

 もう一つ言うのであれば、果たしてこういった統計を見て色々考えることのできる人物がどれだけいるかということをあげたい。それこそPISAの5項目を保護者や教員に当てはめてほしい。子どもたちは教えられるべき環境にあるべきだが、その環境を人材や機材という面で果たして整えられているかというと非常に首をかしげざるを得ない。そういった状況をよくよく考えてほしい。

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無断転載を注意しても何も変わらなかったお話 ※まとめ後の謝罪文追加


 この一連の流れはどのように考えればいいのだろうか。簡単にまとめる。

 ① 一人の中学生が他人の絵を無断転載。

 ② その行為をネットで見た方がやんわりと注意。

 ③ 中学生は注意に対して反発。

 ④ 別の方も出来るだけやんわりと注意。

 ⑤ 中学生改めて反発。中学生に近しい人物も加わってやり取りに横槍。

 ⑥ やり取りは平行線で終わる。

 ⑦ その後、別の掲示板等にて話題となり、中学生は謝罪。アカウントの削除。

 
 この中で見るべき点と言えば、⑤と⑦、そして中学生が当事者であるということだろうか。結局のところ、中学生はネットにおける数の力を見誤ってしまった。当初は単に自分の誤った行動を指摘されただけにもかかわらず、それを自分の見える範囲の数の理論で正当化してしまった。しかし、それ以上の数の力が働いてしまったことで、アカウントの削除というところまで追い込まれる事態となった。

 子どもの世界は非常に狭い。いくらネットに繋がっているからといっても、子どもたちが認識できる範囲でしか世界を認識できない。これは実生活においても全く同じことである。最近は大人でも非常に視野が狭い人もいるようではあるが。

 よく茶化して言われているが、「ヤンキー」の会話で「お前、どこ中出身だ?」という会話がある。これは、自分の知っている世界で相手を計ろうとして、自分の思いもしないことを言われると、結果として貶すことにつながるという典型である。これが子どもたちの認識する世界であり、限界である。そして、それがそのままネットに持ち込まれている。

 「自分を知っている人たちが自分を応援してくれている。しかも相手は個人で立ち向かっている。数ではこっちが多く、自分の知らないことを持ち込まれるのは不快である。だから反発して、徹底抗戦する姿勢をみせる。なんと格好いい構図だろう」となってしまう。

 しかし、数で武装した子どもは、圧倒的多数に追い詰められることを想定できない。自分が有利であることに陶酔して、他の意見に耳を傾けない。結果、自己を顧みずに数に頼ったすえに、自分の頼りの綱だった数に縋る間もなく潰されてしまった。

 とはいえ、ネット自警団とも揶揄されるやり方が必ずしも正しいというわけではない。

 ネット自警団大活躍 ホームレスいじめ大学生が内定取り消し

 今回の話は子どもであることも加味して、もう少し中学生の擁護側に冷静で影響力のある人物がいればよかった。本来ならばそこに保護者がいることが望ましい。何とも後味の悪い話である。

 ちなみに別ルートで以下のような話も。

無断転載を注意したらやめてくれたお話

 最初からこうなっていればなと思わずにはいられない。
 

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実践に勝るものなし?

 同僚と大学時代の事について話したのだが、その時に大学で勉強した内容は役に立っているのだろうかという話になった。発達心理学や教育学、これまでの教育論を生み出した人物たちの名前などを覚えはしたが、果たして意味はあったのだろうかというものである。実際に起こり得る事態は、想像をはるかに超えて突飛なものであり、全くもって役に立っていないような気がするというのだが、実感としてそう思ってしまう部分も確かにある。

 別段、大学で研究されている内容を否定したいわけではない。しかし、底辺校に実態などをどれだけ研究対象として扱っているのかと考えると、首をかしげたくなるのも事実なのである。特例として扱うほかないとも考えられるのだが、もっとも必要な場所にこそ、そういった目が向いてほしいという願いもまた生まれるのである。

 自らが研究するという選択肢もあるのだが、それには一定の余裕が必要なのもまた確かで、それを生み出せるほどの経験を積んでいるとはまだ言いがたい。何しろそこに留まれる人間が少なく、体勢も変わり、常に翻弄されている現状がある。それを客観的になぞるには少々骨が折れる。外部との連携をしようにも、興味は持っても、実施となると足踏みしているのもまた通例であるようにも思われる。

 何ともため息が増えるような話である。

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不安定雇用であることは確かだけど

私立高校5校、非常勤講師27人が請負契約

派遣の非常勤私立高講師35校に 140人、首都圏に集中

私立高校 派遣教師が全国で100人超に

 非常勤講師に限らず常勤講師もまた基本的に1年契約なので不安定であることは変わらない。それは公立でも全く同じである。しかし、「愛校心や帰属意識が育ちにくいため授業に悪影響が出かねない」という点について妙に思う点がある。

 なんというか授業に悪影響が出るというのは別段否定するところではないのだが、どうも生徒が置き去りになっていないかという気がしてしまう。教員が安心して生徒のために授業が出来るというところまで含めた考え方にしないと、どうもすっきりしないのだ。

 常勤も非常勤も必死になって授業を行い、生徒たちのために日々努力を続けている。その背景に何があるのかを少し見直してほしいものである。

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授業は常に挑戦の連続

 日々常に授業は移り変わっていく。そういえば聞こえはいいかもしれないが、実質いつも悩むばかりである。何度も繰り返し行った授業は応用パターンも増え、これはこうして、ああ教えればいいなという事ができる。しかし、そこに至るまでが非常に難産でもある。以前授業のアレンジという事も取り上げたが、一つの教え方は結局のところ授業のある側面を捉えて紹介されているに過ぎない。問題はそこからどのように自分で補強していくかという点にある。

 教えるという事は、その内容について全て知っていれば教えることが出来るということではない。教える相手が何を理解しているか、どこで躓いているかを把握することで、理解するための道筋を照らす点が重要である。なぜわからないのかを追わなければ、いつまでたっても一方通行で終わってしまう。

 ゆえに授業の構成やプリントなどの使い方は生徒によって徐々に変わっていく。たとえ同じものであっても、別の事例を持ち出した方が分かり易い、伝わりやすいということもざらにある。誰もが同じ参考書を使って、同じ成績にならなのが当然であるのに、教え方がたった一つで全員に伝わるという事などあり得る筈はないのだ。

 だが、そのぶん使える材料は多くあった方がいい。アレンジの方法がたくさんあるのであれば、それだけ対処はしやすくなる。加えて、それを常に議論し、実践の中で使い、応用パターンを増やしていくことがもっとも望ましい授業の作り方であると思う。生徒に、授業はどうだったかを聞いて具体的にどうした方がいいのか聞くことなどは必要不可欠なのだ。

 同教科の教員にアドバイスを請うてもいいし、他教科であってもどうすればいいのか、議論する事で研鑽していくことは決して恥ずかしいことではない。ところが、そのあたり活発に行われているようで、なかなかどうして進まない分野でもある。多くは実態を考えずに、一回の授業で判断するからだと思われるのだが、如何せん口出しされるのを嫌う人がいるのも事実である。

 そういった点をもっと柔軟に日々学習していくことが肝要ではないだろうか。

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熱血を押し付けるな

 ある番組で熱血指導や熱血教員と紹介されているものを見たことがある。ドキュメンタリー、ドラマ、映画など様々だが、大抵出てくるのは、見た目で分かり易い「熱い」場面である。スポーツなどの指導に良くみられるものだが、私自身はあまりああいう一場面を抜き出して持ち上げるのは好きではない。さらにいえばああいった指導のみを「熱血」として大きく取り上げるのは問題があると考えている。

 指導のやり方は人それぞれ代えるべきものであり、どれをとっても同じ指導になっているわけではない。特に各教科の指導においては、真剣に指導している場面を多く見ることが出来るにも拘らず、それらが注目される機会はとんと見受けられない。中でも問題なのは単に注目されないことなどではなく、そういった指導が他に伝わらず埋もれてしまうことにある。

 性格面を重視したような指導ばかり注目するのではなく、地道に積み重ねられた技術こそ焦点があてられてしかるべきなのだが、それは固有の教員による特色としてまねできないものとされてしまっている。確かに真似は難しい。しかしアレンジする方法がないわけではない。各教員が自らのやり方の中に組み込むという形ならば転用は可能である。もっともそのためには自分の指導法について考察しているというのが前提ではある。

 技術の伝播と各自のアレンジなくしては指導に意味などないと思うのだが、どうも「熱血」であるという事ばかりが注目されて、ため息をつきたくなる場面もたびたび目撃している。そのあたりをどう変えていくかも急務なのではないだろうか。

 ひとまずは性格に偏ったような評価を改めるべきではあるだろう。

 

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スマフォセキュリティ対策


ウイルス潜伏ソフト複数作成か=大阪と三重、別ルートで感染―両府県警

 まあ、間違いなく授業の中で話さなくてはならないだろうなとは思っているし、すでに授業を行ったクラスでは話している。要点はどこかというと様々あるが、一番はスマートフォンも同じことになりかねないというのが一番生徒たちに伝えなくてはならない事だろうと思う。

 各生徒の持っている情報端末が、かなりの高機能であることを考えると、いつなんどき同じことがスマートフォンを通して起こっても不思議ではない。しかし、それだけのものを持ちながら各自のセキュリティ意識は非常に低いと言わざるを得ない。これは生徒に限った話ではなく、大人に対しても同じことが言える。

 それを理解し、実際に各自で何らかの対策を行っているかを少し調べてみても芳しい結果になるとは思えない。与えられたものでしかない機器を子どもたちに疑わずに使ってしまう。それは避けたいところである。少しでも各自のセキュリティ意識を高めることは急務であろうと思われる。

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終わらせ方・始め方

 まあ、幸いなことにある一つのことについて、ようやく区切りをつけることが出来た。そのことによって祝福を受け、自分としてはようやく終わらせることが出来たのだなと思う。しかし、成功という形で終わったにも関わらず、気分はどこかスッキリしないままである。長年の懸案事項だったゆえに喪失感に襲われているのかと思うが、実際にはそうではないことも何となくわかっている。

 成功とはあるいみ幸福な終わり方ではある。しかし、そこから新たに始めるという意味においてはなかなかの難題であることも確かだ。失敗とは継続という始まりを与えられたようなものでもあり、始め方としてみれば、なかなかに爽快なものでもある。

 さらにいえば、終わりや始まりを他人に急かされると急激にやる気がなくなるものでもある。やはり少し落ち着く時間は欲しい。時間は有限ではあるが、良い終わらせ方・良い始め方であるほうが望ましい。

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授業に対しての評価

 近年は管理職による授業視察が多くなっていると思う。私自身のスタンスとしては、できるだけ色々な人に見てもらいたいので、多少言い含めておいてくれればいつでもどうぞというものである。そんなに自分の授業に自信があるのかと言われると、別段そういったことでもない。むしろどういった点で改善点があるのか聞きたいというのが本音である。

 確かに授業を見られるのをあまり歓迎しない教員はいるだろう。その理由としては、生徒の実態や授業の目的をよく考えずに通り一遍で言いたいことを言われるのではないかという面倒臭さにあるのではないだろうか。見る方からすれば、それはたった一回のことでしかない。しかし、担当者として見ればその授業に至るまでの多くの試行錯誤を重ねてきた授業である。その労苦を考えず、一方的な要望や改善点を出されるのはあまり愉快なものではない。

 特に底辺校の場合では、公開授業であっても、ふとしたきっかけで崩れてしまうこともあり、建て直すことことが出来ぬまま時間がたってしまうこともある。それを単なる指導力不足で片付けてしまわず、教員の成長を促すことが出来るよう協力を惜しまぬ姿勢を打ち出すことが管理職にも求められているのではないかと思う。

 一部のエリート教育にかまけている人たちもいるが、如何に生徒たちを成長させるかという点で底辺校で行われている実践は、多くの参考になる点がある。そちらにも丁寧な対応と時間をかけることが望まれている。下手に評価などと言って、強硬な姿勢を打ち出す態度は生徒にとっても、教員にとっても保護者にとってもいい結果にはつながらないのではないだろうか。

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興味を持つ生徒は多い。

 「改正著作権法」の話を授業の中でもしている。5月の時点で一度、そして先日よりいよいよ施行されたということで、今回もその話をしてみた。そうすると、生徒たちの中で興味を持って聞いてくる生徒はいる。やはり自分たちが利用しているコンテンツに直接かかわってくるとなると気になるのだろう。しかしこれをどれだけの人が授業で話をしているだろうか。「情報」を教えていたとしても、そこまで詳しくは触れないという場合すらあるだろう。DVDのリッピング技術を直接教えるわけではないが、その行為がどうして違法と判断されるのかなど、授業の中で触れておくのは決して悪いことではない。というよりも一体どれだけの人間が著作権法が改正されたと知っているのだろうか。

 子どもたちはネットを通じて様々なことを知るようになった。どういった経緯があるのかを調べたり、それをどう判断すべきかという点においてまだ未熟な点はあるので、そこに客観的な視点をあてるよう導くことが求められている。しかし、何も知らないから判断できないという態度では、子どもたちからの信頼を失ってしまう。もし知らないことを聞かれたならば、いったいどういう事なのかを子どもたちに問い、そのうえで自らの判断に従った意見を述べ、鵜呑みにすることなく自らもどういうことなのかを調べようとする態度を育てるよう仕向けなければならない。

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