教育徒然

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集団性の末路

 連日のように大津市のいじめ事件による炎上騒ぎが起こっている。そして危惧していた事態が起こった。

大津いじめ自殺:中学、県庁に爆破予告「謝罪しろ」

 予想していたことであるとはいえ、やはり実際にやられてしまうとため息が出る。さらに一部のコメント等を見ると圧倒的にこの爆破予告を擁護していることにも唖然としまった。そして多く見受けられたのが警察に対して「いじめは捜査しないのに、爆破予告に対しては対応が素早いんだ」といった嘲りと侮蔑の言葉である。これを見た時に少なからずショックを受けた。あまりにも短絡すぎると。背後関係が判然としない「爆破予告」では、その加害者に対してバカなことをするなという反応が見られるのが常である。しかし、今回のような事件の中で起こると圧倒的大多数を持って支持されてしまうのかと思うとあまりにも恐ろしい。

 実はこれと同じように思えるのが、反原発のデモにも言える。「アラブの春」などのようにSNSを利用することで新たな運動を起こしたという意味で、今回のデモを評価している人が多い。確かにそういった意思の示し方が出来たこと自体は社会運動の一つとして確立したのだろう。しかし、その一方で暴論とデマ、数を強調した優位性を翳して混乱をもたらしていることを過小評価しているような気がしてならない。

 このいじめ事件にしても書き込みをしているほとんどのものが事件からすれば第三者でしかない。にもかかわらず事件そのものを考えるというよりは責任の所在を求め、謝罪を要求する声が大多数である。事件そのもののが起こった時には、被害者にとっても救いを求める対象でもなく、加害者にとってもいじめをやめる脅威とならない、まるで関係のない第三者でしかなかった。

 しかし、ひとたび注目されたことで状況が変わった。痛ましい事故であり、責任を求めやすい対象が絞られていた。そこに拍車をかけるのがSNSであった。ネットそのものが一般化したことにもつながるが、各自が意見表明することが容易となったのは確かである。だが、多数が同調しやすい分かり易い意見に流されたのもまた潮流として見過ごせるものではない。そして結果として第三者という集団が生まれ、個人の枠を超えたことで暴力的表現が過剰になってしまった。

 その影響を考慮すると、いくらネットで声を上げたところで集団になるほど、対外的に信用・信頼を得ることはできないと思えてしまう。また、とにかく行動しなければ始まらないと煽る人もいるが、それは集団に身を任せて流されて行動するだけではないのかとも考えられる。「日本人は声を上げ始めた」などと言っているようだが、実際には第三者的行動を繰り返しているだけではないのかと勘ぐってしまう。

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まとめtyaiました【集団性の末路】

 連日のように大津市のいじめ事件による炎上騒ぎが起こっている。そして危惧していた事態が起こった。大津いじめ自殺:中学、県庁に爆破予告「謝罪しろ」 予想していたことである

まとめwoネタ速neo 2012-07-11 (Wed) 07:07


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