教育徒然

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誰に対しての隠蔽なのか

 隠蔽という言葉が都合よく使われているような気がするのだが気のせいだろうか。大津のいじめ事件に関してこぞって学校や教育委員会が事実を隠蔽していると書かれている。確かにいじめ被害のあった生徒の保護者に対する対応が配慮に欠けていたとは言える。故意に隠していたかは判断が出来ないので何とも言えないが、保護者が「隠蔽」と思ってしまいかねない態度だったことは認めるべきである。

 しかし、これがマスコミや第三者が「隠蔽」や「隠蔽体質」だと騒ぎ立てるのは意味が変わってくる。まず第一に「隠蔽された情報」というものが誰に対して公開しなければならないものだったかを踏まえているかどうかが求められる。そもそもがこれだけ大っぴらに喧伝して回る必要があるのだろうか。この問題を取り上げられた当初ならば、保護者の訴えに注目を集めるという意味で必要だっただろう。しかし、それが執拗な追及に変わり始めた段階で、情報公開の主体が保護者ではなく、一般の視聴者へと変わってしまった。

 ネットで追及する人たちも義憤に駆られ、加害者の素性や親戚関係を暴き立てているが、それは一体誰の為なのか。それらが「隠蔽された情報」だと考えているのだろうか。アンケート結果が精査されなかった事実は追及に値されるが、それらから見えてきた被害の詳細を大々的に取扱い、心情的に許せないことだと繰り返し訴えることが望まれているのだろうか。

 情報は隠蔽しているのではなく、開示する対象を見誤ってはいけないという視点が出てはこないのだろうか。マスコミや興味本位でのぞきたいだけの人物に対して、誤った解釈を広めてほしくないという警戒感が出てくることを隠蔽と言っていいのだろうか。

 事件を風化させないためだというかもしれない。しかし、はっきり言って世間にとってこういった事件など数年も待たずに沈静化してしまう。この数十年で一体何度のいじめ自殺に関しての話題が上り、そして消えていっただろうか。根本的に解決しないといけないと言いながら、自らの関心が向いた時だけ都合よく乗っていく態度に辟易している人も多い。

 また、こういった報道があった学校はほぼ確実にその後荒れる傾向がある。体制を立て直すのに最低でも5年、長くて10年以上かかる場合すらある。その間、学校に通う生徒、保護者に対して、何のフォローもしないのが、積極的に情報を開示しろと言ってきた媒体である。彼らにとって情報とは知りたいだけのものであり、その後をどうにかしようと動くためのものではないのだ。

 そういえるのは私がそれを経験済みだからである。学生だった頃、同じようにいじめ自殺の報道が過熱したことがあった。同級生が自殺でなくなり、学校に報道陣がきて、様々な取材をされたが、その後何事もなかったかのように世間の騒ぎは収まった。しかし、学校の雰囲気が変化していくのを肌で感じた。そして、教育実習生として訪れた時に、その後の話を聞き、かなり荒れた時期が続いたこと、5~10年たってようやく落ち着き始めたことを実感した。

 今、情報の扱いについてとにかく早く共有し、開示することが最善であるかのような風潮が出ているかのように思う。しかし、実際は第三者たる己のために情報を流すべきであるという驕りであり、それを自覚させなければならない時点にきているのだ。それをどう伝えるかが今後の情報教育にも必要であると思う。
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