教育徒然

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何故求め続けるのか②

 さて前日に引き続いて、情報を求め続ける理由について書いていく。

 ようは、情報を知りたいという欲求を持っているのは確かであっても、個人でできることの限界点に到達していたのではないかと考えている。その限界点とは、収集・保有・処理であったが、情報機器とネットワークの普及によって、それぞれの限界点を超えることが可能になったために、知りたいという欲求に歯止めがかからなくなっているのではないだろうか。しかし、前回の最後に述べたように、これには情報の中心点と他者の介在という見逃せない落とし穴がある。今回はそれについて書いていきたい。

 ここでいう情報の中心点とは、知りたい情報の核を構成するものであり、情報を求める者が「最も知りたい情報」ということであると考えてもらえばいい。分かり易い例を挙げるのであるならば、著名人が過去に不倫したという事実が露呈した時に、当時の「不倫相手は誰なのか」という情報のようなものである。

 このような情報を知りたい理由は様々考えられる。単なる興味本位であったり、追い込む材料であったり、金銭的価値に変えるための手段であったりするかもしれない。ただその中でも情報を追う姿として最も脅威であるのが、単なる興味本位でしかない個人の集合体である。当事者にとってみれば違うかもしれないが、そことは視点を別にして考えていく。

 なぜ興味本位の人たちが厄介なのかと言えば、彼らにとってみれば当初の情報はそこまで気になるものではな買ったはずである。しかし、もたらされる情報が多くなるにつれ、何を知りたかったのかという情報の中心点が徐々にずれ始めたとしても気にするものではなくなり、ついには全く関係のない情報まで追っていることになりかねない。今回のいじめ事件でも同じようなことが展開されている。当初、いじめの加害者の名前と見受けられるものが出てきたところから、急激にその親族や関係者と思われるところまで追及されている。本当に必要と思われる情報から逸れてまで知りたがるのは明らかにやり過ぎである。

 この情報の中心点が変化していくのに加えて、情報の収集、保有、処理にすべて他者が深く関わっていることは見過ごせない点である。もともとすべての要素において他者の介入はあったにせよ、ネットワークの一般化に伴い、情報の視点、蓄積の方法、解釈の仕方等が別れるようになってきた。特に情報処理に積極的な他者の介入を許してしまうことはあまりいいとは言えない。多くの意見を聞き、自ら判断を下すというスタンスがしっかりしていればよいのだが、情報をそのまま鵜呑みにしてしまうような人にとっては、結局自分の情報処理能力を下げかねることになりかねない。

 そう考えると、やはり情報活用能力や情報リテラシーと呼ばれるものが必要なのだと考えられるが、むしろ情報を知り過ぎないためのストッパーとしての役割を果たす能力に一役買う点もあるのかもしれない。いまや「忘れられる権利」が現実味を帯びた世界である。そういった方面においても、情報教育は考えるべきである。

 
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