教育徒然

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向き合う選択

 おそらく今後の子どもたちにネットを使わせるうえで教えておくべき重要なポイントは、「向き合う」という選択を自らとることが出来るかにあろう。現状のネットを賑わせる様々な要素と今後の発展性から見ると、そういう結論に達した。

 まず今のネットの様相とはどこを見ればいいのかと考えると、一つに絞りきることはできない。といっても結局人と人とのやり取りから様相が見て取れるということを考えると、SNS系を中心に考察していけばいいのではないかと思う。中でもツイッターやニコニコ動画、2チャンネル、各ブログ等をみていく。

 見ていくとは言ったが、私が傍から見ただけの感想にすぎない。それでも大体の場所で似たようなことが起きているように思われる。どこのサイトにしても使う人が多くなるごとに人が流入し一般化がすすむ。そして低年齢層と高年齢層の差が際立つようになり、各コミュニティ等による囲い込みが進んでいると感じる。さらに個人の活躍が目立つようになったが、同時にその個人を取り囲む個の集団に一定の方向性が付されているのではなかろうか。

 現状から考えて、こういった傾向が劇的に変わることはないだろう。機器や制度、教育などの進み方を考慮しても、良い方向に状況が変わるような要素が見当たらない。となれば、現時点での問題点がそのまま継承されていくことも予想がつく。場合によってはより硬直化してしまうことすら考えられる。

 では、上記した中で気になる点といえば、集団の在り方という点に尽きる。そして、この集団が個人の在り様に大きく影響しているのだ。起点となるのは個人の発言や行動にある。しかし、第三者でしかない他人が大挙して押し寄せることで、その個人が置いてきぼりにされてしまう。これまでは注視されることのなかった傍観者が膨らみ、周囲の同調を呼び寄せて個人を担ぎ上げているのだ。

 そのうえ、傍観者の集団を対象として別の個人が集団を誘導すれば、またそこに別の集団が表れる。この構図によって割を食うのが、起点となる個人にあるとしてしまう傾向こそたちが悪いのだ。しかし傍観者の集団に毒づいたところで、意味はない。傍観者は常に入れ替わるものであり、集団としての統一性すらも移り変わってしまう。

 なぜこういった傍観者の集団ができるのかといえば、そこにはネットによって助長された「逃げやすさ」にあると私は考えている。いわゆる匿名の投稿などが分かり易いだろうが、問題はそこに集約するものではない。以前はネットを実名制にすることで解決するなどとも言われ、未だにそういった主張をしている人もいるが、一部資料では実名制の効果は薄いとも言われている。以下に一つの資料としてあげておく。

 実名制がコメント荒らしを解決できない、驚くほど確かな証拠

 さて、ネットの「逃げやすさ」とは名前によるものではないとして、他に何があるかと言えば、具体的にあげられるものがあるわけではない。しかし、必ずしも発言や行動に責任を持たなくていいという心理は見え隠れする。その際たるものがSNSに見られるやり取りである。

 例えばツイッターのまとめサイトのtogetterをみてみる。すべてのやり取りが見られるわけではないので、どちらにしても偏ったまとめ方ではある。しかし色々と見受けられる中で、各個人のやり取りがある。その中では一対一のやり取りだったり、複数体複数のものもあるが、至極まっとうに意見の交換をしていたかと思っても、最後に捨て台詞のようで打ち切られてしまうやり取りがあるのだ。

 もちろん不毛なやり取りに疲れてしまったという例もあるのだが、答えに窮し、逃げてしまったと思われる例も数多くある。過ちを指摘されたのであれば、それを訂正し、自分のミスを認めるのが後の為になると思うだが、それを受け入れられない背景はあるのかもしれない。結果として逃げるしかないのだが、逃げたことで自分の信用を下げているのも確かである。

 狭いコミュニティを維持する上で逃げることは必要かもしれないが、逃げ癖を付けさせることは決していいことではない。集団に対し、まともに個人で立ち向かってもどうしようもないことはある。だからこそ冷静に立ち回り、何に対して自分は向き合っていくのかを考えさせる時間を作る。逃げの一手ではなく、認め向き合うという選択を作るようにすることが子どもたちには必要である。
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