教育徒然

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情報の収束

 ずっと気になっていた。ツイッターのリツイートに何か違和感があった。「拡散希望」という言葉に常に疑問を感じていた。「周りの人に教えてあげて下さい」という呼びかけを不思議に思った。そしてようやくそのもやもやとした感覚に名前が付いたような気がする。すなわち「情報の収束」という考え方の欠如に対する苛立ちである。

 ツイッターに限ったことではないが、SNSの利用によって多くの情報が発信され、それらが拡散されているのは多くの人が確認できる。拡散された情報の種類は様々で、良い結果をもたらしたものもあれば、いまだに悪用されているものもある。ここで重要なことは、拡散された情報が収束に向かうために出来る行動があまりに制限されているという事である。 なぜ「忘れられる権利」が注目を浴びたのかを考えてほしい。この権利は主に個人情報及びプライバシーに関するものであるが、実際にはそれ以上の意味を考えてもいいのではないだろうか。

 私たちは今やネットを使って誰もが情報を発信できる立場にある。しかも、その情報はどんなものであっても構わない。事実なのかそれとも真実なのか、嘘なのか、ねつ造であるかもしれないが、それらの情報を発信することについて制約があるわけではない。ゆえに、発信された情報について、知ってしまった人物は少なくとも発信された情報を考慮する必要がでてくる。しかし情報を知った人物がどの程度検証するかは変わる。この情報の検証が「情報の収束」に関わってくる。

 まず出回った情報について何も検証しない人の行動について考えてみよう。ここで、仮にそういった人たちを「A」としておく。ある人物がトクダネという形で情報を流したとする。すると、トクダネを知った「A」はどういった行動に出るのかと言えば、なぜか条件反射のように周りの人にそれを伝えようとするだろう。それこそツイッターでいえばリツイートして、知らない人物に真っ先に知らせようとする。場合によっては、その情報を信じきって、感想までいれてくるかもしれない。そして真っ先に他に知らしめようとするため、いち早く情報が拡散することになる。

 次に出回った情報について素人なりに検証してみる人の行動について考える。ここの人たちは「B」とする。「B」はトクダネが流れてきた時に、とりあえず情報について疑問を呈してみる。断片的に流れた情報の何が怪しいか、不自然なところがないか、果たして事実と言えるのかを考察して、それを新たな情報として流していく。ここで生まれた情報は最初に広まった情報に付随するように流れるので、これまでの噂や伝聞などと混濁され、最初に流れた情報を変質させてしまう可能性が高い。

 さらに出回った情報について真偽がわかるレベルまで検証してみる人の行動についてはどうだろうか。これらを「C」と考える。「C」の人たちは豊富な知識及び自ら情報を辿るルートが確立しているため、そこから事実につながる情報を導き出すことはできる。しかし、実際にトクダネが流れてきた時には検証するために時間を取られ、しかも情報を確定した根拠も求められるがゆえに、自ら事実を発信する場合には時間も取られるうえ、情報量が格段に増えて、流れるスピードは非常に遅い。

 このトクダネに対するAとBの行動が情報の拡散に関わり、Cと場合によってはBの発した情報及びその行動如何が情報の収束に関わってくる。しかし、問題は情報の拡散と収束にある時間差である。拡散するという方向性を示された場合、そのスピードには目を見張るものがある。ところが収束させるための行動は、収束するための情報を変質させてはならず、さらに確定のための情報量も増えているため、隅々まで行きわたることがない。数多いやり取りの中では、あまりにもトクダネが突拍子もないために拡散よりも収束行動が先に出ることはある。しかし、やはり現在の情報の拡散状況を見れば、収束させる意図もないまま、ただいたずらに情報を流し、拡散させてしまう行動が蔓延していると言わざるを得ない。

 加えて、拡散に関わったAはトクダネをただ拡散させただけという意識しかなく、情報に対してなんら意味を見出さない場合すらある。そのため、情報の拡散という行動そのものにも責任があるという意識を植え付けさせない限り、無目的に情報は拡散されるだけである。

 Bの行動とて、Aや悪意をもった人間によっては、情報をただ拡散され、迷惑をこうむる場合も想定される。また収束の方向性についても些か課題がある。収束の方向性にあまりにも偏りがあり、選択された情報の流し方によってはまるで思ってもみなかった結論へと導かれてしまうことすら考えられる。

 特に気を付けなければならないのは、拡散という行動そのものが、流された情報に同調するものだと取られかねないことである。第三者が、一つの意見に対して自らの考えを述べるのではなく、拡散という行動に加担することで、情報をもたらした人物に対してまるで完全に同調しているように取られてしまうのは、意見形成する上であまりにも単純である。しかも、ネットという自由に意見を言える場があるにもかかわらず、他者の乗っかるだけにすぎない行動は、意見の単調化という新たな課題を引き出しているように思われる。

 これを深刻に考え、最低でもBの行動をとれるような教育をしていかなければ、情報の拡散にのまれ翻弄されかねない。まず情報を見かけたのであれば、拡散する前に考えるという指針はしっかりと示すべきである。

 ちなみに、私の個人的な感想として、今のツイッターは2ちゃんねるに勝るとも劣らない掲示板と似たようなものである。さらにいえば、まとめサイトがあることで、その収束の方向性についても偏りがでてきている。2ちゃんねるの一部まとめサイトが締め出しをくらったことは今後のツイッターについても同じようなことが起きることを暗示しているように思われる。
 
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