教育徒然

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あなた(私)の書いた文章は本当にあなた(私)が書いたの?

 さて、先日紹介した内容についてようやく考えがまとまってきたので、それを記したいと思う。そのとっかかりとなるのがタイトルにかいたものである。

 私がそうであるように、今もしくはこれまでにおいて様々な人がインターネット上に文字を書き、動画を投稿し、音声を残している。では、それが本当にあなたのものであると、他の人のものではないと自分自身に証明することはできるだろうか。もしくはそれを全く知らない第三者に証明することが出来るだろうか。

 他人に証明することの難しさはともかく、なぜ自分に対して自分の文章であると証明する必要があるのかと思うかもしれない。だが両者の視点が存在することが絶対に必要なのである。なぜ必要なのかは後述するとして、証明する方法を考えてほしい。

 自分に対しても他人に対しても証明する方法として最も簡単なものは、制作に際し、その途中がわかるものがあればいい。その過程がどのようなものであったのか、経緯が分かるものが示されるのであれば何よりの証拠となる。先日の「妹のために描いた絵が盗作された。」騒動の原作を描いた人も、それらを持ち合わせているとのことであり、オリジナルファイルについてもその記録がなされていることで証明がなされていると考えられる。

 しかし、絵や音声に関するものであれば、その経緯そのものが証拠となり得るが、文章で表されたものとなると証拠として示すには弱いように思える。もちろんどの過程であってもコンピュータのログという点まで示すことが出来るのであればいいのだが、一般的な方法として広がっているかと言えば疑問を感じざるを得ない。そして一般的な面でいえば、証拠と言えずとも他に自分が書いたと示す最も確実なものがある。それこそ自分自身の記憶である。またネット上で自分を表すアカウントやハンドルネーム名義で出されたものも自分の言葉であると示されることになるだろう。

 逆に言えば一般的なレベルでは、ネット上で自分が自分であると示すものは登録された文字と自身の記憶のみが拠り所でしかないとも言える。もちろん言葉であれば文章の癖であったり絵であればその筆使い、音声であればその声音だったりと細かく見ていけば自分が記したものが自分のものであると示すができる。だが、一見しただけでは判別が難しく、デジタル上、丸っきりコピーが不可ではないと言い切れないのも現状なのだ。

 ここで重要なのが、先述した自分の言葉であることの証明、そしてネット上に示された言葉を自分のものである、もしくは自分の投影であると認識できるかどうかである。出来て当たり前のことで何をバカなことを言っているのかと思うかもしれないがよく考えてほしい。私たちは自分たちの記憶が主となって自己の行動だと認識している。もし自分の記憶にないことを自分がやったとして、それを簡単に認めることが出来るだろうか。また、自分の突発的な行動や言葉を素直に受け入れることが出来ているのだろうか。

 ごく簡単な例でいえば「夜中の手紙」を挙げることが出来る。夜中に書いた手紙を翌日の朝見返してみれば、とてつもなく恥ずかしいことを書いており、とても自分が書いたとは思えないというものだ。他にも頭に血が上って咄嗟に思っても見ない言葉を投げかけていたり、極端な例でいえば酒による酩酊状態で話したことなど、自分では言うと思ってもみなかった言葉を表してしまう状況は他にも考えられる。それこそ「中2病」や「黒歴史」などと使われている過去の自分の行動・言動を恥ずかしがる感覚などは誰にでもあるものだ。そんな認めがたい自分の行動を、ネット上に存在する自分の投影たる文字の羅列であるIDやハンドルネームが行ったとして、それを実直に受け止めなければならない。

 これまた簡単なことのように思うかもしれないが、未成熟なものや子どもたちにとって実は難しいことなのだ。なぜそうなるかといえば、発達段階にある子どもにとって「自分」というものが確立できていないからである。発達心理学の用語に「視点取得」という言葉がある。これは「自分の中に設定される他人」のことと考えてもらえばいい。いわば「他人がどのように自分を見ているか」ということであり、一説にはこの視点取得がなされることによって自分を捉えることが出来るというものである。

 一般に視点取得は段階を分けて、生まれてから12歳くらいまでの間に発達するという。ということは、大人に比べて子どもは自分と他者の境界線が曖昧になりやすいことを示唆している。さらにいえば、もし他人の視点を取得することで自分を認識するのであれば、「自分」という認識が曖昧であるほど、「自分」を「他人」であると感じてしまうかもしれない。だからこそ自分自身の言葉を自分で証明できるかが重要なのである。そこに強い自意識がなければ、ネットの自分と実際の自分は容易く乖離してしまう。逆もまた然りで、「他人」を「自分」だと感じてしまう事すらあり得る。

 これが前回の話や以前の中学生の詩の盗作問題につながるのではないかと考えている。まず彼らは誰かの手によってネット上にアップロードされたものを他の人のものであると当初は理解している。しかし、それを見て、コピーしたことで、他人のものではなく、自分のものであると勘違いをしてしまう。勘違いのレベルはそれぞれによって異なるが、場合によっては自分もこれと同じものを作成できるとまで思い込んでしまうこともありうるだろう。

 さらに、本当は自分のものでないと分かっていても、強固に自分で作ったものだと言い張ってしまうのは、それを証明できないであろうという驕りからもきているのだろう。「自分」のものを「自分」のものであると証明できないのだから、「他人」もまた証明できないだろうという考えだ。しかも、もし証明されたとしても、いざとなればアカウントでしか証明できず、「他人」としか感じられない「自分」を捨ててさえしまえば、それで現実の「自分」は傷つかずにすむ。

 以上が、現在起こっているであろうことの推測である。実証できているものではないうえ、心理学等を専攻していたわけでもないので、曖昧な知識からの憶測に過ぎない。しかし、こういったことも今後の指導のヒントになるかもしれない。それほどに今の状況はひっ迫していると考えるべきである。
 
 

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