教育徒然

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もやもやもや

 先日とは別件なのだが、テレビで「ネットいじめ」について特集していた。とはいっても10分ほどの1コーナーにすぎないのだが、あまりにもやもやとした気分が抜けない話だったので、その原因について述べていきたい。

 まず内容についてだが、ある女子高生が自分の友人のブログを見つけ、そこに自分に対して辛辣な言葉で非難されていることを知ったというものである。それに対し、さらに何人かの人物がコメントをつけており、同じような非難の言葉であったことから学校を休みがちになった。その後、両親が学校に質問を求め、最初に非難していた友人から謝罪の手紙が送られたものの、ショックが大きく、自主退学したという内容である。今は別の高校に通ってはいるが、未だにネットの言葉を見るのが怖いという悩みがあるとも付け加えている。

 さて、ここに対して何がもやもやしたかを次の3点にまとめてみる。


 ① 「ネットいじめ」という言葉でまとめようとするな。

 ② 第3者という加害者にもっと焦点をあてろ。

 ③ 無暗に対応を批判するのはもってのほか。



 まず、①についてだが、最近のいじめ報道の過熱から「いじめ」と銘打つことで、視聴を促したのではないかと穿った見方をしてしまう気持ちもなくはない。もちろんそういった意図はないのかもしれないが、「ネット」におけるいじめとまとめるには少し被害者に偏り過ぎていないかと思える。そもそものきっかけである被害者に対する非難の言葉は、辛辣であり暴言であることは間違いない。しかし、報道された内容だけから判断すると、どちらかといえば不満の表明であり、それを言えない分ブログに書いたという見方もできる。

 またそれに対していじめたとされる側が複数の人物に働きかけて同調を促しているという描写は見受けられなかった。それを積極的に行い、何かしらの攻撃的行為を実行しているならば、明らかないじめと言えるだろう。事実先日のいじめのケースでは、複数人数による嫌がらせメールの送信という場合も報告されている。しかし、報道された内容からは、そういった行動に至っているようにも思えなかった。

 ここで、そういった言動をオープンスペースでされていること自体が問題であり、被害者にとってはいじめに等しい行為だと考える人もいるだろう。しかし、この視点に関しては加害者当人がそれをどこまで自覚していたかが明らかにしないと問題化しないのも事実である。もし仮にこれが制限つきのブログで限られた人物しか見られなかったとしたらどうだろう。以前も例えたが、そうなってくると昔の交換日記のようなものと同じであり、そもそも発覚しないことになりかねない。特に昨今の中高生のネットへの接し方を見ると、ネットはオープンであるという意識そのものが欠落しているようにも思え、今回のケースは公共性を知らなかったゆえに発覚したと考えられなくもない。そうなると、「ネットいじめ」と銘打つにはあまりにも雑であると考えざるを得ない。

 とはいえ、「ネットいじめ」と銘打つ程度の余地を残しているのは確かである。しかし、仮にも「ネットいじめ」とするのであれば、②の可能性についてもっと言及すべきなのも事実であろう。では第三者という加害者は何かについて説明していく。

 確かに今回のきっかけに最初の非難をなげかけた友人はクローズアップされる。しかし、それを煽っているのは主に第三者であり、話題の中心人物に入ってこない点にこそ「ネットいじめ」であるならば注目されなければならない。アナウンサーの説明の中に、ネットではやり取りを煽って言葉がエスカレートして過激になる傾向があるとあったが、その点についてもっと詳しく、注目する必要がある。その時点で非難を書き込んだ人物にとって、被害者は目に入っておらず、まるっきり関係のない第三者に目が向けられているのだ。そうなると過激なやりとりを煽った第三者にも責任はある。

 ちなみにここまで書くと、あることを想起させはしないだろうか。この第三者はマスコミ自身のことを暗示しているようにも思える。自らは事態を見守っているようで、進展を加速させるやり方は非常によく似ていると言えなくもない。だからこそマスコミには自己批判をしっかりと行ってほしい思い、過剰なマスコミ批判をしている者は自分たちも同じ穴のムジナであると自覚してほしい。

 さて少し話はずれたが、言いたいこととしては野次馬の行動にこそ注目して自制を求めなければ意味はないということだ。暴言の当て字についても、もともと自分たちが考え出されたものではなく、子どもたちの周囲を取り巻くネット社会から得た言葉である。ネットではもともと言葉が荒くなりがちな点も子どもたち自身が自覚しており、実際生活のやり取りとは一線を画している。むしろ過剰反応しているのを面白がる風潮もあるので、それに対して自制を求める立場の人間が少ないことこそ問題である。

 加えて何とか対応しようという点に中途半端な否定をしてもらうのも困ったものである。それが③につながる。このようなネットに書かれた言葉に対して「気にするな」とか「それらを見ないようにすればいい」と被害者に言うのは意味がなく、被害者は書かれていることが気になってしまうと説明があった。

 正直こんな説明ならしないほうがいい。まずネットに書かれた暴言を見ないように促すのは当然である。むしろ被害者が見ようとするのを止めて、見なくてもいいようにサポート・フォローすることこそ重要なのだ。その相談されたことに対して何か行う一つの段階にすぎない点にブレーキを掛けられてしまうことは迷惑にしかならない。また記者の方が「学校や家庭がしっかり対応しなくてはならない」と述べたことについても、ならばその方法についての提案が一つでも二つでもいいから挙げてほしい。色々と対応している身としては、言いっぱなしで丸投げされているようなのはあまり気分のいいものではない。

 ごく簡単なもので構わない。「保護者に代表される大人たちが、いったい何が起こっているのかという関心を向けて、ぜひともネットのことについて子どもたちに質問してほしい。」ぐらいのことを言ってはくれないかと切に願う。

 
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