教育徒然

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表現の落とし穴。ネットの対人関係。

 先日のエントリーでインターネットを利用する子どもたちに対して、保護者がどのように見守るかを確認した。ただあくまで子どもたちが巻き込まれる形のものを想定しただけにすぎず、自ら行動を起こすことに対しての視点は有していない。またインターネットで他人と触れ合う時に起こり得る危うい可能性についても触れていないので今回はそちらについて書いていきたい。

 まず何より前提として念頭に置かなければならないのは、ネット上で表現を行うのはほとんどの場合、自主的な行動であるという事である。それらに対してのアクションは表現者にとって大きな原動力となり、後々にまで影響を与えるという事を認識する必要がある。そしてブログやツイッターなどによって自分の言動を他者に知ってもらうことが非常に簡単になっている。さらに情報機器の普及はいつでもどこでもインターネットにアクセスすることができ、自分に対してのアクションを知ることができる状況を作り出している。こういった環境は果たして何を意味するのか。

 ① 直感的言動

 最も心配になるのがこれだろう。思ったことを言葉少なに書いてしまい、どういう意図の発言かを考慮されることなく、ただ言葉のみが先行してしまうという状況を生み出している。良い方面への言動であれば反響が大きくとも問題は少ない。しかし、反面悪い方面の言動である場合、炎上という形で辛辣な言葉が返ってくることも考えられる。

 特に低年齢層は知覚できる人数の範囲が狭くなり、インターネットが衆人環視に晒された場であるという認識がおろそかになりやすい。さらに年齢を周囲に公表していない場合は、なおさら「子ども」であるという確証のないまま扱われるので言動に容赦がなくなることもありうる。しかし、現況においては、「子ども」たちのネット上の発言が晒されることはあまりないように思う。これは単発の発言だけで判断するのではなく、ある程度違う方面からの検証で周囲によって「子ども」だと判断され、相手にされにくいのではないかと考えている。ただ年齢層が近い集団が増えるであろう今後が少し心配になる。

 また低年齢層でなくとも現在ツイッターなどで問題になっている暴露発言などは、この直感的言動に端を発している部分があるのではないかと思える。予防策についてはいくつか考えられるものがあるが、他のこととも絡むのでそちらについては後述する。

 ② 言動情報の共有と存在の同調

 インターネット上では数多くの人が自らの意見を表明しているのだが、それに同意協調する人も多い。情報そのものはこれまでもテレビなどのメディアを通して共有化されていたが、ここにきてさらに細かい言動などの情報も共有化できるようになってきている。そのため自分の言いたいことを代弁してくれたというような錯覚を起こしてしまう人が増えているように思う。そして、言動情報を核として多くの人が集まり、存在がどんどん大きくなっていく。最近の日本の例として韓流偏重ではないかという言動に群がったインターネット上の動きはまさにこれにあたるのではないだろうか。もっとも大人数による共有と同調については、核となる媒体に大きく依存し、団体としての協調の維持が難しいことからさほど気にしてはいない。問題となるのは小さなコミュニティもしくは個人規模の内容である。

 ある人物の一意見に対して各個人が同調する程度ならばよいのだが、その人物の発言が自分と合致しなかった場合にトラブルが起こる。意見の強要や他者の介入などを極度に疑う言動を見せ始め、「私の思っていた人と違う」となって一方的に批判し始めるといった対応をみたことはないだろうか。一人でやっているだけなら単なる自己主張の激しい人となるだけなのだが、他者の意見に勝手に同調したことで、まったくかかわりのない他人を巻き込んでいることに自覚がないのだ。インターネットだとそれが顕著に見えやすい。これまでも起こっていたであろうことだが、他人のやり取りが大分可視化されているので、記録としても残りやすく、より強調されて見えるのだ。そしてそのやり取りが、また別のトラブルを生むきっかけになり連鎖していく。巻き込まれただけの当事者としては迷惑なことこの上ないのは明らかである。

 さらに、この共有と同調は一部の盗作行為にも関連性があるように思える。以前、学生が詩の投稿掲示板に掲載されていた詩を盗作してコンクールに応募していたというニュースがあった。盗作という事実は変わらないが、その心理的背景には共有と同調があったのではないかと私は思っている。

 インターネットの掲示板は誰であっても見ることができるものである。盗作した本人もそのことを当然知っており、誰かに指摘される可能性も考えなかったはずはない。にもかかわらず、作品を応募したのは盗作が暴かれることはないだろうという憶測が大きかったと思う。だがそれ以外に、詩の内容そのもに対して、自分もまた同じようなことを思って、同じようなことを詩にできただろうという思い込みが働いたのではないだろうか。もちろんこの憶測そのもが私の思い込みでしかない。しかし、誰であっても他人がやったことに対して、「私もやろうと思っていた」と考えてしまうことはあっただろう。それがインターネットという事象を通して大量に表出していると考えている。

 ③ 主観と客観の混同認識

 ②にもつながることなのだが、自分の意見と他人の意見を同一視するため、結果として主観的立場で述べていながら、妙な客観的見解を持っている場合がある。傍目には自己分析ができているように思えるが、実は自分と同じような人を客観視し、それを自分であると思っているのではないかという節がある。

 ただでさえ、インターネット上の自己はあやふやなものになりやすい。現実のような肉体があるわけではなく、普段の自分と全く違う姿をネット上にだけ投影することも不可能ではない。他人に同調しやすいのも、どこかネット上の行動は他人事のように捉えてしまうという特徴があるからなのかもしれない。また、ネットの行動は情報機器を通して行うため、字に特徴などが出るわけではない。自分であることを示したうえで行動するなら別だが、ツイッターやブログなどの文字をもって意見表明したものは他人から見れば、必ずしも自分であるという確証を示すものではない。そのため、自分でやったにもかかわらず、あれは自分の言ったことではないという言い逃れもできてしまうのだ。

 そういった行動が繰り返されれば、ますます主観と客観が入り混じり、自己認識があやふやになってくる。外見や性格を偽ろうとするほどに、現実との自分が乖離してしまうだろう。誰もがこういったことに陥るわけではないが、変身願望や一時の現実逃避などは誰にでもあり、少しボタンを掛け間違うだけで泥沼に入り込んでしまうことがないとはいえないと思う。

 3つの観点からインターネットにおける人との関わりあいについて述べてきたが、総じて言えることはネットでの表現行為は自己をある程度確立し、責任を伴って望まなければならないという事である。そういった点でみると、低年齢層の過度なネットへの接触は危ういのではないかと考えられる。他人との関わりは児童生徒の発達に非常に有効だと思うのだが、ネットのあやふやな人間関係は過度な同調を強要し、必要以上に不定形な自己形成を育んでしまうのではないかと思う。

 加えて、デジタルネイティブ世代にとって、情報機器の操作は容易いものであり、インターネットに触れることも難しいことではない。そのため、インターネットと現実の行動を同一視しないよう指導、教育する必要がある。すなわち、インターネットとの距離を一定程度保たせる環境と心の育成をいなくてはならないのだ。

 現在成人している世代は、最近インターネットに触れたばかりで、もともとの距離が離れた状態である。ゆえにネットに対しての過度な行動は起こりにくいが、急激にネットに接した人達は最適な距離を模索している状態であり、その模索の中で起こっている失敗が表面化しているのである。

 現在、情報教育を受けている世代は、教える側もネットとの距離について模索しているため、おそらく成人している世代と同じような過ちを繰り返してしまう可能性が高い。だからこそ、今後の世代においては情報倫理と技術を同時並行で進める教育を重視して行わなければならない。そして、それ以外の世代は、情報モラルについて学ぶだけではなく、自分とネットとの距離を把握し、見直す必要がある。

 それは、一般の人にも言えることであり、企業における従業員教育などにも取り入れる必要性があるだろう。具体的にどんなことをすればいいのかは後日に回したいと思う。


 



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