教育徒然

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教育への嘆き

 「ゆとり教育の成果はこんなところにあらわれてきた」との声が聞こえる。「学力は低下し、卒業し仕事をするようになっても身が入らず、プライベート優先で社会に属すという常識がない。これは教育のせいではないか」などと言われているようにさえ感じる。人は誰しも自分が受けてきた教育の成果である己と現在の教育の成果である若年者を比べようとしている。そして、主立って主張している人の意見は、昔の教育方法がよかったとし、今はダメだと嘆いている。ゆとり教育などはまさにその典型であろう。

 しかし、人は本当に教育の方法及びその成果を嘆いているのだろうか。ある記事で使えない社員がいるという上司の嘆きが掲載されていた。曰く「部下の仕事が遅いうえ、指示したことができない。例えできたとしても言われたことしかできず、自分から仕事を探そうとしない。自分が若いときは、自分から仕事を探したものだ。」とのことだ。実際どんな上司なのか、どんな部下なのかはわからない。ただ疑問に思うことは果たしてこの上司は部下を教育しているのかどうかという点である。

 少なくとも上司であるという事は部下が行う仕事に対しての責任を追う立場にある。そして仕事の成果を上げるためには配置された部下を使わなければならない状態にあると捉えられる。上手に振る舞う部下もいれば、うまく立ち回れない部下もいるだろう。将来的に考えれば、上手に振る舞う部下は現在の上司を飛び越える可能性もあると考えるのが自然の流れだろう。もし失敗しても責任は上司がとらされるわけで、優秀な部下はむしろ別のところへ引き抜かれるだろう。

 そして使えない部下はそのまま変わらず使えないままであり、上司の元にのこり続けるだけで現状のままでしかない。とすれば、割を食うのは上司だけである。そこで上司は部下を使えるように教育する必要が出てくるのだが、教育する方法を教えられたことはない。そこで頼るのは自分が教えられたという経験であり、その経験から教えるという事を実践し、自分なりに教育をカスタマイズし学んでいく。それによって使えない部下を使えるようにできるのであれば、その上司はさらに成果をあげることができるだろう。

 ところが、部下が使えないのは能力が低いからで、能力が低いのは教育がされていないからであると結論付けるだけならば、いつまでたっても部下はそのままでしかない。そして、自分が受けた教育方法と比較し、今の部下は使えないとの愚痴をこぼすのだ。教育できない上司が行きつく先は果たしてどうなるかは分からないが、現状教育を嘆くだけの人間は、自分が部下に行う教育を振り返ってすべての部下を社長にできるかを考えてみるといいかもしれない。

 
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