教育徒然

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情報教育再考。

 今年度の授業もいよいよ終わりに近づいてきた。情報の授業もクラスによってはもう終了したところもあり、来年度の新入生に向けて行う授業準備を始めることになる。例年通りと言えば例年通りなのだが、ここ最近色々と考察や意見交換などを行ってきたので、気持ち新たに始めるためにも少しばかり情報教育について考えてみたい。

 教科「情報」を教えるにあたっては、「情報活用能力」や「情報リテラシー」を鍛え高めるという意識で授業を行ってきた。それは揺らぐものでもないし、生徒の成長などから考えても一定の成果は上げられているのではないかと思う。しかし「情報」を教える意味については些かも悩まなかったわけではない。

 もともと教科「情報」だけではなく教科「商業」における「情報処理」なども教えていることもあり、一部のソフトスキルであっても他に通ずる可能性があるという点から見れば、反復練習などにも意味があると考えている。特に「商業での「情報処理」となると、高校生向けの資格もあることで努力目標としてもわかりやすく、高等学校在籍による実績として少しでも貢献できるものがある。

 もちろん中高生向けの検定といえば他にもP検定などがあるのだが、必須科目として取り扱われ一般的な知識・技術習得という授業から見ればレベルとして相応しいか言われると首をかしげざるを得ない。特に近年のインターネットと組み合わせた「情報」とすれば、ますますもって範囲が広がりどこに焦点を絞ればいいのかが難しくなる。さらにインターネットそのものは非常に便利なものだが、先の東日本大震災の際のように通電が途切れた地域などでは、回線等のインフラの貧弱ぶりに使いたいときに使えない現実が明らかになり、特殊環境下だったからだとはいえ、果たして「情報」を教える意味があったのかと考えてしまった。

 実際、情報機器やインターネットを使わずとも生活はできる。しかもわざわざ「情報活用能力」を鍛える機会を作ってもらわなくとも、普段の生活で必要な知識と技能は習得できる。これまで情報教育など受けてこなかったのにもかかわらず、大部分の大人がそこそこ使えることがそれを証明している。

 「情報モラル」の問題にしても、今の時期だからこそ頻繁に問題に挙げられるだけで、時代にネットが馴染むようになればいずれ矮小化していく事象にすぎず、むしろ大げさに騒ぐことの方が問題なのだと考えられなくもない。こう考えると、果たして情報教育の意味はどこにあるのか。

 最初に挙げた「情報活用能力」を鍛え、高いレベルで維持させることを目標とするのはいい。しかし、その「情報活用能力」を体感するのは難しく、鍛えるためのモチベーションを下げかねない。ならば何を持って情報教育に取り組ませるのか。また情報教育の意味をどう考えさせるのか。

 
 この問いに対してどのように考えるかは教える側の主観が入ってくる。私が導き出した答えとしては「興味」「好奇心」「楽しさ」である。結局のところ学習者が楽しいかどうかで後につながるのではないだろうか。もともとインターネットでさえ便利であるから使うというのは、やってみた当初は楽しいかったからであり、継続しているのはその惰性というのが事実であろう。

 電子教科書を推進させるのも、教科の幅を持たせるといっているが、結局のところそちらにすれば楽しく学習でき、継続できるのではないかという思惑が一般に考えられているのではないだろうか。問題は「楽しい」は「飽きる」につながるという事だ。特に瞬間的な楽しさであるほど飽きは早くなり、これを早い段階で課題に対しての「理解」につなげ、「喜び」を甘受させる。これが他への「興味」を抱かせ、さらに「好奇心」を深めさせる。

 他の教科にも言えることではあるが、受験勉強とは離れた部分にいる教科であった方が、多くの生徒にこちらを優先させることが可能であり、教科「情報」はその立場に近いと言っていいだろう。実際に「楽しさ」からはじまって色々とのめり込んで熱心に授業に取り組む場合は多い。コンピューターという媒体に興味をもつ生徒は多いことからも、「楽しさ」を感じさせることは難しくないので、あとは取り組み次第である。

 そしてもう一つの情報教育の意味であるが、これについては「視野を広げる」ことと、その結果「制御」が必要になることを教えることにあると思う。もともとインターネットを使わずとも情報は様々入ってくる。しかしネットに頼らない場合、その情報量は年齢や身体の成長に応じたもので、身の丈を超えた過剰な情報は入ってくる余地があまりない。だがネットは違う。特に昨今では一般社会を模した一つの現実であり、それに接するには基本的技術さえ持ち得ていれば誰でも触れることが出来る。ゆえに子どもであろうと大人であろうと触れる情報そのものには差異はほとんどない。年齢制限等は増えてきているが、完璧な対策が出来ているわけではない以上、その差はわずかである。

 ゆえに身の丈に合わない情報に触れる機会が増えるのであれば、その情報によって成長することもままあり得る。成長そのものを望むかは別としても、興味あることに対して情報を得られる喜びは子どもたちにもあるだろう。そして得た情報が増えれば、さらなる別の事に興味が出る。だがその際に、増えすぎた情報もしくは扱いきれない情報をどうするのかの疑問が出てくるのもまた必然である。ここで教育する側がどうやって「制御」するのかを教えることで情報教育となる。

 すでにネットに触れはじめた学習者はそれぞれの楽しみ方で視野を広げ始めている。ここに情報モラルという制御がきいていないからトラブルが起こり始めているのである。さらに現在の子どもたちのネットの接し方について気になる点がある。それはネットによって視野を広げようとしたにも関わらず、狭量な一部のコミュニティに捉われそこから脱せずにいることである。

 先日のアメーバの15歳未満のコミュニケーション関係の機能制限について猛反発が起きたことに関係すると思うのだが、なぜそこまでアメーバにこだわるのか。それ以外のサイトなどほかにいくらでもあるにもかかわらず、異常なまでの拒否反応が起きてはいないだろうか。不正アクセスなどが起きるようであればそれぐらいの措置が行われても当然であり、疑問の余地はあまりない。むしろこれまでがそのままだったことが問題である。

 さらに子どもだからといってネット上で好き勝手していいというわけではないのは当然である。自らの行動を反省し、その責任を感じなければならないのだが、別のサイトで同じように傍若無人で振る舞う態度は看過できない。制御がきかないというよりは周囲を見渡せず、自分たちの世界に閉じこもってしまっているといった方がいい。この現状をどうにか食い止めるためにも正しい視野を持たせ、制御しなければならないのだ。

 今後の情報教育にはこういったことを考えながら取り組んでいこうと思う。かなり端折った部分もあるので、また別の機会にでも一部クローズアップして述べていきたい。


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